2008年07月19日

マニラ好き


■ 書籍情報

マニラ好き   【マニラ好き】(#1276)

  日名子 暁
  価格: ¥1400 (税込)
  太田出版(2007/04)

 本書は、「日本の男たちが、なぜフィリピーナにはまるのか、入れあげるのかを分析」したものです。著者は、フィリピーナをめぐる状況を、「売春」から「結婚」へと「大きく流れが変わってきた」と述べています。
 第1章「正しい『追っかけ』」では、フィリピーナのホステスに入れあげて、マニラを訪れた、「真面目」で「真剣」と「肩ヒジを張ったタイプ」に、「なぜか全国のフィリピンクラブでよく会う」と述べた上で、迎えに来るといっていた彼女は、言い訳をして、「謝らない・悪びれない・自分は悪くない」の「これまたフィリピンスタイル」であると語っています。
 第2章「正しい『追っかけ』」では、04年をピークに、「フィリピーナを雇用する店、来日するフィリピーナ、ともに大幅に減少している」理由として、「国連の小委員会が、いまだに人身売買を続けている国として日本を挙げた」ことを挙げています。
 そして、「人生のピークは過ぎ、良きも悪きも人生の黄昏を迎えた年齢」の男たちについて、「彼らは心がさびしいからフィリピンクラブに通う。したがって、フィリピンクラブは病院であり、フィリピーナは医者兼看護婦なのである」と述べています。
 また、「フィリピンクラブに通う日本の中・高年の客の大半が、フィリピーナの国での暮らしぶりを聞くと過ぎ去りし日々を思い出し、郷愁を感じる。そして、目の前にいるフィリピーナと過去の自分とがオーバーラップし、それが渾然一体となって胸がいっぱいになる」と述べています。
 さらに、「フィリピンにおける家族の絆は、日本人の想像を超える強固なものだ」として、「家族の中から誰か、日本に出稼ぎに行くフィリピーナのような働き手が出れば、そのフィリピーナの稼ぎに、残った家族は依存する」と述べています。
 第3章「正しい『愛人』」では、「ヤクザとフィリピンの関係は古くて深い」として、ジャパゆきビジネスや拳銃などのシノギを挙げた上で「フィリピンでは『YAKUZA』は一般名詞となっていて、フィリピンの新聞、テレビ、雑誌などにもしばしば登場」すると述べ、この他、「自称ヤクザ」が、「マニラ周辺には百名前後いる」と述べています。
 また、「ヤクザ社会における地位、貫禄などのヤクザとしての格の違いは日本国内でのもの」であり、「フィリピンでは、そんな格の違いは通用しない」として、「フィリピーナも"フリーヤクザ"も、フィリピンという土俵の上に上がれば日本のヤクザには負けない、と思っている」と述べています。
 そして、フィリピーナの愛人にコケにされた日本のヤクザが、復讐を試みるも、地元ギャングの連中や、警察署長クラスをボディガードに連れた軍への強いコネクションをカラオケ店の店長にあしらわれ、その後、「ヤクザが愛人にしてやられた、という話はマニラ界隈では格好の話題として広が」ったと述べています。
 第4章「正しい『愛人』――2』では、フィリピーナ2人を囲う元ヤクザの男が、年に2回、「愛人をたずねての極楽旅」を楽しみ、その「フィリピーナ愛人確保術は、彼の属するヤクザ業界で評判となった」と述べています。
 また、「若いころにヤクザを経験し、三十代で足を洗い、個人運動家になったと自称」する男が、「日本人の男に捨てられたフィリピーナの代理人をつとめ」、フィリピーナの愛人トラブルの中から、「これなら金になる、というケースをピックアップ」し、「このフィリピーナの愛人話が表ざたになると困る社会的な立場にいる男たち」をターゲットにしたことを解説しています。
 第5章「正しい結婚」では、80年代から90年代にかけての農村の「フィリピン花嫁」に関わった結婚ブローカーが、百万円を超す金を得ていたことや、その手続きが非常に煩雑なこと、日本各地にフィリピンクラブが誕生した結果、「日本とフィリピンのカップル誕生は集団見合いから、個人へと変わっていった」ことなどを解説しています。
 本書は、当事者でないと気持ちが想像しにくい、フィリピーナに入れあげる中高年の諸事情と心理をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 フィリピンパブに行きたがる人というのは、どこの世界にも一定数いるようで、人それぞれな趣味・嗜好・性癖の一カテゴリーくらいに思っていましたが、もっと人生の重みを背負った根の深いものであることを垣間見たような気がします。そういう意味では、遊びではなく、人生をかけてのフィリピン通いと言ってもいいのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・フィリピン人は単なる外国の人種のうちの一つと思っている人。


■ 関連しそうな本

 日名子 暁 『マニラ通』
 白野 慎也 『フィリピーナはどこへ行った―日本から消えた彼女たちの「その後」』
 福沢 諭 『ザ・フィリピン妻―雇われ店長が溺れたディープすぎる世界』
 浜 なつ子 『死んでもいい―マニラ行きの男たち』
 浜 なつ子 『マニラ行き―男たちの片道切符』


■ 百夜百音

モダン・レコーディングの冒険【モダン・レコーディングの冒険】 バグルズ オリジナル盤発売: 1981

 「ラジオスターの悲劇」は誰もが知っていますが、色々ゴタゴタあったすえのセカンドアルバムは通好みだったせいか、パクっても一般にはばれなかったそうです。


投稿者 tozaki : 06:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【日本人】

2008年07月18日

PR!―世論操作の社会史

■ 書籍情報

PR!―世論操作の社会史   【PR!―世論操作の社会史】(#1275)

  スチュアート ユーウェン (著), 平野 秀秋, 挟本 佳代, 左古 輝人 (翻訳)
  価格: ¥7245 (税込)
  法政大学出版局(2003/10)

 本書は、「現代人が、まるで空気のように呼吸させられている広告・広報という企ての誕生・成長・肥大の物語、その生理と病理の真相、人間と現代社会に対してこのことが及ぼしている影響」について、論じた大作(600ページ超!)です。
 第1章「エドワード・バーネーズを訪ねて」では、エドワード・バーネーズについて、「1910年代初めにアメリカの広告の最も有力な開拓者となった人」と述べた上で、ジグムント・フロイトの二重の甥に当たり、「近代的な宣伝技術の先見性に富む開拓者でもあり、1920年代初頭以来、大衆心理学諸理論と産業界・政界が必要とした大衆説得の方策との、運命的な結婚の仲人をつとめた」と述べています。
 そして、当時100歳のバーネーズの自宅を訪ねてのインタビューでは、「わたしたちはイメージを扱っているのではない……リアリティを扱っているのだ」という発言を引き出すとともに、「広告は古来からある目的のために発展してきた技術の、洗練されたもの」だという彼の考えを明らかにする一方で、「彼は自分の人生や関心領域が、ある特定の時代の刻印をもっているとは、ほとんど考えたことがないようだった」ことに、「少しがっかり」したと語っています。
 また、バーネーズが、彼が「むっつりジャック」と呼ぶ一人の運転手について、「このような運転手を雇う方が、こんにちくうこうまでのタクシー料金一回を払うよりまし」で「悪くない取引だった」が、「しかし、これもひとびとが社会意識を持つ前のことだった」と語ったことを紹介しています。
 第2章「リアリティの売買」では、バーネーズが、「その長い経歴を通じて、広告とは『状況を作り出す』科学であり、できごとを『ニュースに値する』ように計算して作り、しかもそれが作られたように見えないようにする科学だと主張し続けた」と述べています。
 そして、「広告とは、単にニュース報道を操作したり、世論に影響を与えたりする、価値とは無関係なテクニックのことだと、単純に理解するわけには行かない。わたしたちの世界における広告の成立とそれがもたらす結果は、まさに権力そのものの動機や仮定や歴史との関連で語られなければならない」と述べています。
 また、「デモクラシーの社会においては、権力者の利害と公衆の利害とは、しばしば矛盾対立する」として、「広告は、20世紀の全期間を通じて、制度化された既得権益が、その利益を公共の利益の名を借りて正当化する必要が生じた事実を雄弁に告白するものである」と述べています。
 第3章「真理は生成する」では、「20世紀の幕開けと前後して、不安のとりことなった中産階級の立場を代弁し、また彼等のために発言する著述家やジャーナリストのサークルが、拡大していった」として、「事実探求型のジャーナリズムが、批判的で問題提起的で改革志向の世論の奔流を形づくり、民衆生活における言論のあり方を形づくり始めた」と述べています。
 しかし、「力強く社会と噛み合おうとする公衆の存在を考えることが出来なくなった進歩派出版人たち」が、「曇りない事実の力と公衆の理性に対する自分たちの信仰を、疑い始めることとなった」として、「大衆ジャーナリズムと、原子化した不安な中産階級との、この運命的な交差点において、合理的な公衆の対話に基礎づけられた真理という概念の代わり」に、「個人の感情に対して、図式化して訴えかける真理概念」が現れることになった、と述べています。
 第4章「混沌のコントロール」では、「20世紀初期の改革派たちの第一世代にとっては、科学的な経験的データの収集、言い換えると社会調査こそ、社会改革の万能薬だと考えられた」が、傑出した進歩派知識人であったウォルター・リップマンたちにとっては、「社会科学の理性的な公衆を作り出す能力より、社会統制を実現する能力の方に、より魅力を感じるようになってきた」として、「グループ・ダイナミクス研究や、人々の主観的生活を背後から支える客観的土台の究明の試みが、しだいに社会分析の内容を形づくるようになっていた」として、この傾向の中心となっていたフランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンを取り上げています。
 そして、「アメリカ企業広告史の最初期を担うこととなったジャーナリスト」であるアイヴィー・リーが、ル・ボンを引用しつつ、「現代は民衆が支配する時代だ。王達の神権が多数者の神権に取って代わられたのだ」と結論付けたことについて、「この状況下では、企業家たちは彼等の利益と口うるさい民衆の利益との共同戦線をつくって群衆に対抗することがぜひとも必要だ」と主張したことを紹介しています。
 第5章「『民衆を教育せよ!』」では、AT&T社の広告部門を担当する重役に就任したセオドア・ニュートン・ヴェイルを取り上げ、「ヴェイルの広告戦略に基本要素を提供したのは、変化に神経質になっている民衆の姿であった」と述べ、「人々に進歩の方向にむかって進んでいるのだというイメージを与え、彼らを安心させることがヴェイルの広告の計算であった」と解説しています。
 著者は、「ヴェイルが見抜いた現代の民衆に独特の構造と、その構造を前提にした広告の重要性とは、現代の社会思想家、ジャーナリストなど、新しい消費者という生活様式の展開を認識できた位置にいたものたちの共通認識を反映していた」として、「ヴェイルがこの新たなパブリックの存在と、彼らが知識を獲得する手段について認識したとき、どうすればこの情報手段を操作できるかについても彼は認識した」と述べています。
 第6章「真理の館」では、1918年9月27日の夜8時に、メイン州ポートランドの映画館の休憩時間に、地元の地方銀行頭取ヴァージル・ウィリアムズが、約150人の地域住民に対して始めた短い演説について、「周到に計画され、全国各地で同時に実行された特殊任務の一環だった」として、「全米各地の映画館にいた何万ものひとびとが、同じ警告を聞かされていた」として、ウィリアムズが、「フォー・ミニットメン」という名で知られる、団員7万50000人を要する全国的民兵組織の支部長であり、「米国の第一次世界大戦参戦に際して、国内で臨戦態勢を作るために動員されたものたちであった」と述べ、「毎週15万回近いペースで、ウィリアムズのような団員たちが、アメリカの戦争努力の高邁さについて、反戦思想の誤りについて、それぞれの地域のひとびとに向けて説教していた」と解説しています。
 その上で、この活動は、「氷山の一角」にすぎず、「連邦広報委員会(CPI)の指揮の下に展開された、前代未聞の広告・広報作戦の一側面に過ぎなかった」として、CPIが、1917年4月、米国がドイツに宣戦布告してからちょうど一週間後にウィルソン大統領によって設立された巨大な宣伝機関であったと述べています。
 そして、「中産階級民衆の世論が極めて移ろいやすく、大衆の反逆の可能性があると考えた多くの著名な社会分析家たちが、ウィルソン大統領にロビー活動を開始し、戦争の大義を体系的に宣伝するイデオロギー装置を作ることを要求し始めた」結果、ウィルソン大統領が、1917年4月14日、「国内の防衛線を固める」ため、CPI(米国広報委員会)の設立を明治、「消息通の進歩派ジャーナリスト、ジョージ・クリールを文民CPI議長に任命した」と述べ、「クリールは全国の進歩派ジャーナスとたちと親交を保っていたので、ウィルソンは彼がこれらの潜在的な『オピニオン・リーダーたち』を取り込み、彼等のリベラルな理想と政府の戦争政策との間の橋渡し役になってくれることを期待した」として、「大局的に、ウィルソンのこの目論見は図に当たった」と述べています。
 著者は、「ある意味では、CPIは19世紀末から米国において進化し、進歩派の時代になって明確に姿を現した広告戦略を基盤にしてつくられたものである」と述べています。
 また、CPIのこの活動が、「どの週にも影響力ある人々が、同じ話題で全国中で一斉に規格化された演説と同じ話題を隣人に向かって演説し、熱狂に自発的に参加するように計算されていた」ものであり、その使命は、「映画の観衆が思想や話題をコミュニティ全体に持ち帰り、『広報』のある号の表現を借りると『会話の無限連鎖』を誘発するようにさせることにあった」と解説しています。
 さらに、クリールが否認したが、「『真理の館』は事実という基礎の上ではなく、感情という沼地の上に建造されていた」として、「CPIは、世論の製造の実験を行う巨大研究所として、初期の合理主義的な、主にジャーナリズムの中で形成された理性に働きかけようとするコミュにケーション戦略とは、まったく別の方向へと変化していった」と述べています。
 そして、「20年代にも批判的なインテリはいたが、広告思想のその後の発達を方向づけたのは、新思想を身につけたインテリたちであった」として、「彼等の視座を特徴づけたのは、民衆とは誰であり、その民衆に最も効果的に影響を与えるにはどうすればよいかという問題であった」と解説しています。
 著者は、「CPIの活動を通して得られた知識と、民衆の心の領域の管理にかんする教訓は、次に来る広告専門家たちによって受け継がれ、のちのアメリカ文化の輪郭に深い影響を与えることになった」と述べています。
 また、「全体として、20世紀に広告が発達する過程の中でCPIは、かつてなかった仕方でマスメディアを捉え、動員した。各部局の活動を織りあわせてみると、マスメディアを人々の近くを取り巻く環境として捉える思想が浮かび上がる。近くのありとあらゆる領域に戦争遂行のためのメッセージを植えつけることが、CPIの至上の目標であった」と述べています。
 第7章「社会心理学と民衆心理の探求」では、「戦争とCPIは、まぎれもなくアメリカのインテリ世代に対して説得における心理学的要素の重要性を強調した」として、「『民衆精神』というものは生来、理性的な訴えよりも感情的な哀願の方に影響されやすい」という思想が、インテリの思想の中に出現したと述べています。
 そして、「かつて『公衆』と『群衆』の間にもうけられた区別は、ほとんど感情のみによって駆り立てられる観客としての大衆という、すべてを包括する概念によって取って代わられた」と述べています。
 また、1920年代に、「民衆心理に内在する非合理性を誘導するために社会科学を道具として使用すべきだとする」傾向が広がった背景として、
(1)非合理性は人間性という最も一般的な存在を見るときにさえ習慣的に援用されるフィルターになっていた。
(2)民衆とは本能によって、駆り立てられるものだとする見方が、刺激的なシンボルが説得の手段として与えられる劇場こそ相応しいと考えた。
の2つの重大な変化を挙げています。
 第8章「姿なき技術者」では、「1920年代初頭までに、戦争がもたらした実際的な教訓と、広く普及し続ける社会心理学の知識が結合」して、アメリカのインテリたちを、
(1)合衆国のような大規模な近代社会は、世論の分析と管理を専門とする専門家集団による助けを必要としているという信条。
(2)これら「姿なき技術者」は、民衆の態度と思考に最も強い影響を及ぼすことができるコミュニケーション技術は何かを学習し、それに習熟しなければならないという信念。
の2つの結論へと誘導することになった、と述べています。
 そして、「広告専門家とは、個々のクライアントからの狭い要請にこたえるばかりでなく、『民衆の心を操縦する糸』を手繰ってプロパガンダを行うことを専門とする人間であった」として、バーネーズが、「広告・広報顧問を、擬似環境を想像する達人として記述した」と述べ、広告・広報の専門家が、「状況の創造者になる」ための訓練方法として、
(1)広告・広報専門家は、大多数の人間が世界全般について彼らなりの「構図」を体得するために通過するメディアや組織化されたコミュニケーション・ネットワークの、注意深い研究家でなければならない。
(2)世論形成に関わる人間は社会学や人類学を学ぶべきであり、世論が個人間でつくられることに影響する社会構造や文化的慣習について、詳しく学ぶ必要がある。
(3)広告・広報顧問は民衆心理の注意深い研究家でなければならない。
などの、「実用的な要綱を描き始めていた」と述べています。
 また、バーネーズが「民衆の本能を結集する広告専門家の才能」として、「民衆が進んで反応してくるシンボルを作り出す能力民衆がどのような反応を返してくるかを予知し分析する能力、好ましい反応を引き起こすであろう個人や団体のステレオタイプを見つける能力、聴衆にわかる言葉で話し好感を持って受け入れさせる能力、などにかかっている。本能と、誰にもある欲望への訴求こそ、彼が好む結果を引き出す基本的な方法である」と語っていることを紹介しています。
 第9章「近代の民衆説得パイプライン」では、「巨大な経済的発展と、それにともなう経済破綻をふくんでいた1920年代から1930年代という時代」に「広告・広報が、もっと広義には宣伝キャンペーン計画が、飛躍的に成長」し、「アメリカの社会構造に基本的変化が起きた」と述べています。
 そして、第一次世界大戦前に、「ビジネス分析家が、社会調査を商業的に友好的な手段と考えはじめ」、「20年代の末になると、民衆の態度研究は広告やマーケティングそれ自体の関心をこえて、企業思想により包括的な展望を与えようとするものに変化した」と述べています。
 また、著名なアメリカの社会学者、ロバート・リンドが、「世論調査そのものがニュースとして扱われることに、懸念を表明」し、「新聞紙上で報道されたりラジオで引用されたりする場合、世論調査あg党系による喝采のBGMとなって中立の立場のひとびとを群衆に巻き込む『宣伝のための効率よい操作手段』になっている」と指摘したことを紹介しています。
 第10章「視覚的な錯覚」では、社会調査ニュースクールの著名な社会心理学者のハリー・オーバーストリートが、「学生が通暁すべき2つのイメージ」として、
(1)模倣的映像:目に見える「リアリティ」が複製されたもの、もしくは複製しようとつくられたもの
(2)選択的映像:見ている人間の注意を、邪魔なものを排除しながらリアリティの特定の部分に焦点を合わさせることにより、見るものに特定の心理的経験を歓喜させることができるもの。
の2つを挙げたことを解説しています。
 第11章「銀の鎖と友好的な巨人たち」では、「1920年代後半までには、ビジネス社会は民衆の不信感という足かせを振り払ったという確信が広まった」として、「『友好的な巨人』としての企業というイメージが、多くの会社の広告活動の中心にすえられていた」と述べています。
 しかし、1929年10月の暴落によって、「何百万人にとって、反映のイメージはほぼ一瞬のうちに洗い流された。彼らは、もともと経済にずっと内在していたが効果的に視界から隠蔽されていたものを、力ずくで認識させられた」結果、「友好的な巨人たち」は、「一気に人食い鬼に戻った」と述べています。
 第12章「公益をめざして」では、ニューディール計画の立案者たちに影響したのは、ケインズ学派経済学者だけではなく、「進歩派時代の記憶によって描かれた、よりアメリカ的な思想にも刺激を受けていた」として、「消費志向の『よい生活』像が、新しいアメリカ人の生得権の核心として提案され、人々の希望を刺激しようとしていた」と述べています。
 そして、フランクリン・D・ルーズベルトが、ルイス・マックヘンリー・ハウの「専門知識を通して事実やできごとや状況からどのように『ニュース』と呼ばれるものが出現してゆくかにかんする、実際的な理解を獲得しつづけた」として、「知事の政策計画表を記者たちに公表するときはそれをひとつひとつ練って、数日から数週間かけて整理しやすいような形態で配付していった」として、「このテクニックは、政策を簡単に報道しやすくし、報道される期間を長くし、最も重要なことには読者がより簡単に理解できるものにした」と述べています。
 また、「ハウの指導が、『言葉』を通した広報家としてのルーズベルトを誕生させた鍵であったとすれば、ポリオに罹患するという生活史上の危機は、彼のイメージの作り手としての技量を鍛錬させるものであった」として、39歳のとき以来、闘病にもかかわらず、「両足は永久に麻痺した」が、「記者団から精力的な協力を得ることができた」ため、「彼が車に乗せられたり、運ばれたり、車椅子を押されたりする」映像を撮らないことは、「ホワイトハウスの写真記者団によっても守られる暗黙の掟」となり、「記者団の誰かが約束を破って写真を盗み撮りしようとすると……別の古参の記者の誰かが『偶然に』カメラを地面に叩き落したり、撮影の妨害をしたりした」として、この「自主的な検閲システムは滅多に破られること」はなかったと述べています。
 著者は、「およそ25年に及んで発揮された、活動的な人間というスペクタクルを作り上げることにかけてのルーズベルトの天才ぶりは、彼の政治的優越の本質をなし、不朽の個人的な強靭さの証明であった。自分の体力を万全に見せかける彼の能力は、身体の麻痺を重要ではない些細な問題にしてしまい、彼の政府を、ひいてはニューディール全体を広く特徴づける、はるかに有意義で包括的な政治的宣伝広報キャンペーンを彼が展開する道を開いた」と述べています。
 第13章「ニューディールと社会事業の広報」では、ニューディール政権が、「世論に直接影響を及ぼす時間外業務もこなす、精巧な広報機関の機能を備えていた」として、「その最も顕著なひとつ」は、「新たにラジオを利用すること」であり、「広報手段としては新聞より優る」とされ、「メッセージ伝達では範囲がはるかに広いし同時放送できる」とされたと述べています。
 そして、ルーズベルトのラジオ使用が、「慈愛にあふれたスタイルで聴衆とのスタイルで聴衆とのあいだに親密な関係を樹立させただけでなく、彼自身のジェファーソン主義の信念を裏付けるものでもあった」と述べています。
 また、ニューディールを、「単に一連の政策やこの目的に向う個人の集合であっただけでなく、規模において巨大であり、またはるかに効果的で、しかも支持された広報機関であった」と述べています。
 さらに、タグウィルとストライカーが「『記述的経済学』に使用した広報の手法」が、「アメリカの政治文化のあり方そのものに影響を及ぼし始めた」とした上で、「企業上層部の多くや政治的右派にとって、ニューディール政策の広報の複合的影響は恐るべきものであり、進歩派時代のその前兆異常に憂慮すべきものだった」と述べています。
 第14章「金にものをいわせる」では、「企業からなる顧客に大衆の心理をより良く理解させる目的で、それまでは小さな存在であった世論調査産業が発達しはじめ、やがてアメリカ人の生活を診断する装置であるかのような状態になりはじめた」と述べています。
 そして、「中産階級の企業に対する批判の成長を和らげるため、」に、全米製造業者協会(NAM)が広報活動でまず行ったこととして、「アメリカの企業社会と普通のアメリカ人大多数とのあいだには、利害関係の調和があるという宣伝」を挙げ、この中で、「『自由企業』という経済原則と『デモクラシー』という政治原則とが『たがいに関連し不可分だ』という観念連合を作り出し、広告テクニックを駆使して人々の中に心理的に固定させること」が鍵となったと述べています。
 また、「アメリカン・ウェーほどいい生活はない」「産業によいことはあなたによいこと」というテーマ・スローガンを掲げて展開されたNAMの全国的広告キャンペーンについて、「2つの点で示唆的なものだった」として、
(1)NAMの広告キャンペーンは、この協会だけの活動ではなく、さらに協会の各種業種別構成団体の中でも、協会を事実上取り仕切っていたのは、アメリカの巨大企業の指導者たちであった。
(2)キャンペーン活動が、大衆の意識を変化させることに成功したといえるかどうかには議論の余地があるとしても、この中で展開された企業中心主義の社会観が、第二次世界大戦後のアメリカで次第に拡大していった。
の2点を挙げています。
 第15章「公衆の究極決断」では、戦時の広告において、消費物資は戦時統制のために不足していたが、「企業は、会社がどれほど戦争努力に貢献しているかという『広報広告』を作成し、同時に戦争後のアメリカについて、ありとあらゆる素晴らしい新消費財(たとえばテレビ、皿洗い機、その他のモダンな機器類)を持つことがアメリカ人の生まれながらの権利であるかのような社会として描いていた」と述べています。
 また、「ビジネスマンにとって最も手強い政治上の障碍」として、ゼネラル・フード社長のハワード・チェースが、「恐慌の時代を通じて、民衆が社会的・経済的問題について次第に知識を持つようになった」と分析していることを紹介しています。
 第16章「世論操作の技術」では、「デモクラシーの価値を肯定することと、民衆の感情を捜査するといういまわしい思想の間にある緊張は、広告マンたちが視覚イメージを、大戦直後の時期にどのように扱ったかという問題にも、反映していた」として、FSA(農業安定局)の使用した写真などの、ニューディールの使用した文書が、「きわめて効果的」であったため、「企業の広告映像は、あたかもニューディールの手法を直接模倣しているかのようであった」と述べています。
 そして、広告専門家の中に、「テレビ戦略が、人を集める能力が必須の資格になる政治の世界で、とくに有効だと確信するものが出てきた」として、ジェームズ・ケラーが、「これからは政治家のプレゼンテーションは意図的に『全体にわたって概括的なイメージを作ることであり、特定の問題点を力説することではない』と公言した」ことについて、「すくなくとも一人の人物が、一連の専門家のチームに支えられながら、企業広告の中で造成されたケラーのいうような理論を現実政治において実行に移そうとしていた」とロナルド・レーガンを取り上げ、「レーガンの政治経歴は、1920年代から発展した企業広告の思想を体現したものであった」と述べています。
 著者は、「レーガンが政治の舞台に登場したことは、端的に彼の時代を象徴するものであった」として、「彼は、広告が不可欠になり、ますます普及し、権力の手段となった社会に固有の事件であった」と述べ、「デモクラシーと、その対立物である富裕なエリートによる公領域の支配とが、こうしてひとつの妥協へと融合した」と解説しています。
 終結「現代の公衆にとっての問題」では、「1990年秋にバーネーズを訪問したとき、わたしはに種類の異なった人物に出会った」として、「『公衆の領域』とは、意識が次第に高い水準になり、要求を主張するようになった批判的公衆が、その声を上げている現場」だと考えるバーネーズと、「公衆とはどのようにでも加工できる原形質の塊のようなものであり、熟練した世論捜査の手にかかれば思いのままに加工することができる原料にすぎない」とみるバーネーズの両方を挙げた上で、「こうした矛盾を、彼だけに特有の問題とするのは誤りである」として、この「分裂的な暗い不協和音は、20世紀を通じて広告史全体を特徴づけるものであった」と述べています。
 著者は、「他のあらゆる変化の前提条件として、われわれは社会統計的なアイデンティティの枠組みに疑義をさしはさむ必要がある」として、「社会統計という手段で武装したコンセンサスの製造屋が、公衆の行動計画支配し続けている」と述べ、「区別の意識が共通性の意識とバランスを取り戻さなければ、デモクラシーのための公衆は出現できないだろう。より大きな善が実現されるためには、われわれ自身がより大きな公衆であることを思うべきである」と主張しています。
 本書は、広告やPRという言葉が、単に商品の売り込みのためにあるものではなく、権力そのものの在り方であることを再認識させてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 PRというと、一般的な「売り込み」というイメージがありますが、それがいかに人間の心理や政治と深く関わり、確立されつつある科学であるということが、本書を読むとわかるのではないかと思います。それにしても何しろ厚いですが。


■ どんな人にオススメ?

・広告とは「売り込み」のことだと思う人。


■ 関連しそうな本

 高木 徹 『ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争』 2006年11月27日
 アンヌ・モレリ (著), 永田 千奈 (翻訳) 『戦争プロパガンダ 10の法則』 2007年11月01日
 デイヴィッド・オグルヴィ (著), 山内 あゆ子 (翻訳) 『ある広告人の告白』 2007年01月02日
 矢島 尚 『好かれる方法 戦略的PRの発想』 2006年10月25日
 ジャック・セゲラ (著), 小田切 慎平, 菊地 有子 (翻訳) 『広告に恋した男』 2007年09月20日
 G.E. ラング, K.ラング(著), 荒木 功, 小笠原 博毅, 黒田 勇, 大石 裕, 神松 一三 (翻訳) 『政治とテレビ』 2007年04月04日


■ 百夜百マンガ

とめはねっ! 鈴里高校書道部【とめはねっ! 鈴里高校書道部 】

 柔道、競艇と、他の人が扱わない題材を使って、爽やかなドラマを創ってしまう達人。ヤングサンデー休刊ということですが、引越し先は決まったのでしょうか。

投稿者 tozaki : 23:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【経営】

2008年07月17日

パックマンのゲーム学入門

■ 書籍情報

パックマンのゲーム学入門   【パックマンのゲーム学入門】(#1274)

  岩谷 徹
  価格: ¥1575 (税込)
  エンターブレイン(2005/9/17)

 本書は、名作ゲーム『パックマン』を世に送り出した著者が、ゲーム業界を担う次世代に向け、「ゲームはクリエイターの経験や人間性が現れるもの」という「想いやゲームづくりのノウハウを託すこと」を目的としたものです。
 第1章「パックマンズ・メソッド 1955-1980」では、東京に生まれ、幼少時を秋田で過ごした著者が、自然の中で、「落とし穴をつくったり、草を結んでおいてみんなを呼んで、引っ掛けたり」という「他愛もないイタズラ」のなかで、「ゲームデザイナーとしての原点ともいうべき『仕掛け』への愛着」が始まったことや、雪の中で「肥だめ」という「人糞の底なし沼に落ちた恐怖の経験」が、「罠(トラップ)の持つ驚きの経験」が、「ゲームのシステムを考える際に『トラップ(仕掛け)』にこだわる」ことの原体験であったと語っています。
 そして、高校、大学と「ピンボール」にはまっていた著者が、"『遊び』をクリエイトする"というナムコのキャッチフレーズに、「ここなら自分にも何かできそうだし、ピンボールをつくれるかもしれない」とひらめいたこと、入社直後に、先輩から「特許が一杯あってなかなかつくれないんだよ」とピンボールつくりの夢を一蹴されてしまったこと、ナムコのドライブゲームマシン『F-1』のデッドコピー品を訴えるために某倉庫に証拠写真を撮りに忍び込んだところで警察に通報され、建造物不法侵入で逮捕された経験などを語っています。
 また、1979年、『スペース・インベーダー』の大ヒットの影響で、各社が、「エイリアンを打ち殺す殺伐としたゲームを大量にリリースした」ため、「ゲームセンターも女性が足を踏み入れてはいけない雰囲気」になってしまったことに「危機的状況を察知」し、「女性やカップルでも楽しめるゲームを作れないか?」と考え、「一切れだけ食べた残りのピザの形が、口を開けているキャラクターに見えた」ことから『パックマン』のアイディアが誕生した瞬間を語っています。
 さらに、ナムコが「第一次黄金期」を迎えた1980年代について、当時のナムコが、「まだ上場していない会社で、予算もはっきりしないような状況」の中で開発していて、「ある意味、ゲーム制作者たちにとっては、非常に恵まれた環境」だったとして、「まさに、真っ白なキャンバスに自由に絵を描けた時代だった」と語っています。
 第2章「ゲーム学」では、「ゲームの題材やテーマのインプットの対象は、おおよそ人間が関わる広大な世界全体に及び、ゲームという媒体を用いてどんなことも表現できる可能性を秘めている」として、「あらゆる分野にもゲームの題材を求めることができる」と語っています。
 また、ゲームをプレイしたいという動機を与えるための第一の条件として、「ゲームに注目」してもらうことを挙げ、その要素として、
(1)新奇性(しばらくあるいは今までに一度も経験していない)
(2)不確定性(わからない事柄や、試行錯誤の後、疑問を解いていくもの)
(3)複雑性(構成要素の種類や数が多いほど複雑)
の3点を挙げた上で、第二の条件として、「ゲーム目的がはっきりしている」ことを挙げ、
(1)ルールとゲームクリアー(勝敗)が悩まずに分かる
(2)ひと目でそのゲームの持っている特長(遊び・奥行き)が理解できる
の2点を挙げています。
 さらに、ゲームの難易度設定について、「設定する難易度カーブの上昇具合が急すぎたり、大きな壁があったりするとプレイヤーの支持が得られず、プレイヤーの技術達成の予測を誤り、難易度カーブの飽和点を低く設定していた場合は、プレイヤーには手ごたえのないゲームになってしまう」ため、「クリアごとに徐々に難易度も上がっていくことが、プレイヤーをホットにさせ、初心者でも上級者でも、ある程度、継続したプレイに導くことが可能になる」と述べています。
 第3章「ゲーム開発の実際」では、企画担当者に求められている能力として、
(1)発想力:生まれてから、現時点に至るまでに得た後天的な知識・情報を選択し、掛け合わせて、「絶妙なもの」をつくり出す
(2)情報を収集・整理する能力
(3)関係者を動員していく能力
(4)臨機応変に問題に立ち向かい、対応する能力
の4点を挙げています。
 また、プロデューサーに求められる能力として、
(1)千差万別な問題に「気づき、分析する力」
(2)問題を解決するための「構想力」
(3)人心を動かす「説得力」
(4)対立する利害関係をまとめる「折衝・交渉力」
(5)「人情の機敏を知る力」
などを挙げ、なかでも「問題に気づく」能力について、「これが欠落していると、俗にいう『マニュアル人間』になってしまい、そうなってしまっては、自らが企画し、また問題を解決していかなければならないプロデューサーとしては失格」だと述べています。
 さらに、「ゲームソフトは、映画や書籍と同様、大衆に対するつよいメッセージ性を持ったメディアのひとつ」であるため、「その表現の方向を誤ってしまった場合、社会問題・人種問題といった重大問題にも発展しやすく、最悪の事態が起こる可能性もある」と述べ、「クリエイターは常に自らが社会の中の一員であるという意識を持ち、独りよがりな発想や自分本位に偏らないよう留意する努力が必要だ」と語っています。
 第4章「対談 宮本茂」では、宮本が、「ハッピーエンドのゲームクリアーは、たくさんの選択肢の一つでしかないけれど、バッドエンドのゲームオーバーには理由が必要」だと語っています。
 また、宮本は、いまのゲームが、「昔のゲームにあった『わかりやすく面白い』という方向性から、『複雑化し多様化したシステムでユーザーを満足させる』というものになって」きたと語っています。
 第5章「対談 小口久雄」では、『パックマン』や『リブルラブル』が、「これ以上何も足せないし消せない」ゲームだと語っています。
 本書は、本来のターゲットである、ゲームのクリエイターを目指す人はもちろん、『パックマン』を懐かしいと感じる人にとっても、お薦めの一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読んで、久しぶりにパックマンがやりたくなって、ネット上のフラッシュ版のゲームをやって見ましたが、簡単だと思ってもなかなか簡単にはクリアさせてもらえないゲームバランスは見事だと思いました。


■ どんな人にオススメ?

・パックマンに青春を思い出してしまう人。


■ 関連しそうな本

 坂村 健 『痛快!コンピュータ学』 2005年07月02日
 相田 洋 『電子立国日本の自叙伝』
 山形 浩生 『コンピュータのきもち 新教養としてのパソコン入門』 2005年07月23日
 ハワード ラインゴールド (著), 青木 真美, 栗田 昭平 (翻訳) 『思考のための道具―異端の天才たちはコンピュータに何を求めたか?』 2006年01月07日
 アラン・C. ケイ (著), 鶴岡 雄二 (翻訳) 『アラン・ケイ』
 西田 宗千佳 『美学vs.実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史』 2008年07月09日


■ 百夜百マンガ

坊主戦隊ジュゲム【坊主戦隊ジュゲム 】

 月刊誌の『アフタヌーン』の四コマで認められ(?)、よりメジャーな『モーニング』でストーリーものの連載を持つも、その設定の特異さゆえに幅広いファンをつかむことができなかった作品。超ニッチなファンの心は鷲づかみしたかもしれません。

投稿者 tozaki : 22:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【コンピュータ】

2008年07月16日

ヒトは食べられて進化した

■ 書籍情報

ヒトは食べられて進化した   【ヒトは食べられて進化した】(#1273)

  ドナ・ハート, ロバート W.サスマン (著), 伊藤 伸子 (翻訳)
  価格: ¥2310 (税込)
  化学同人(2007/6/28)

 本書は、私たちの祖先の立場が、「狩るヒト(Man the Hunter)」であったのか、「狩られるヒト(Man the Hunted)」であったのか、という問題について、「筋の通った判断」を下し、「その結論と、特異な性質をもつホモ・サピエンスが今日見せている行動様式との間」との関連性をテーマとしたものです。
 第1章「ありふれた献立の一つ」では、「700万~1000万年にわたるヒト科の進化の中で、捕食者は進化形成要因として働いていた」と考えられ、「このときの捕食者-被食者相互関係は、今の時代にも影響を残す」として、「そのたぐいの話を見聞きするたびに、何とはなしに背筋が寒くなる。この心理的な作用を引き起こしているのも、わが種の祖先が野生動物の前に屈してきたことの名残なのである」と述べています。
 第2章「『狩るヒト』の正体を暴く」では、「人は何故に人なのか」という聖書以来の課題について、1970年代に広く読まれたロバート・アードレイが、「肉食動物として進化したからだ」という答えを展開してきたことについて、「タウングチャイルド」が、「狩るヒト」説の鍵を握っているとして、レイモンド・ダートが、「初期人類はしとめた動物の骨、は、角を使ってさらなる獲物を殺していた」という「骨歯角文化」説を展開し、「キラーエイプが血なまぐさい行為を成し遂げた方法を説明した」が、初期ヒト科の頭骨化石に見られる、「ヒョウの犬歯と完璧に重なる丸い穴」から、「アウストラロピテクスはおそらく狩る側ではなく狩られる側にいたと思われる」と述べています。
 第3章「誰が誰を食べているのか」では、動物行動学者で捕食に関する第一人者であるjハンス・クルークによる、「人食いにまつわるむごい話に嫌悪や好奇心あるいは何らかの関心を示すのは、全人類にとってとても恐ろしい――社会の中にいるあからさまな殺人者よりも恐ろしいことと本能で感じるからだ」と説を紹介し、「なんといっても人間は何百万年もの間、動物に狩られ、食べられて進化した」ためであると述べています。
 そして、「人類には、格好のごちそうと舌鼓を打たれて攻撃を受けやすい存在だった何百万年があった。だがあっという間に、捕食者に対して支配を及ぼすようになった」にもかかわらず、「いまだに自分たちが被食者であるかのようにふるまったりもする」と述べています。
 第4章「ライオンにトラにクマ、なんてことだ!」では、「100万年前から比較的最近まで、ネコ科やその祖先に当たる膨大な数の動物が地球上を駆けていた」として、ヒト科を含む霊長類が、「体も歯も大きなこれほどたくさんのネコ科動物を相手にどうやって生き抜いてきたのだろうか」と述べ、「霊長類と哺乳動物捕食者との間に長期(5000万年あるいはそれ以上)にわたる共進化があったことを支持する化石証拠はめったに見つからない」が、「そのわずかな化石証拠を元に、『霊長類のルーツは肉食動物による襲撃という出来事の中に隠されている』とする仮説が十分に成り立つ」としています。
 第5章「狩りをするハイエナに腹をすかせたイヌ」では、ヨーロッパに生息するオオカミが、「雌が子供のために余分の食物を求める夏にとりわけ人間を襲う」と述べ、「過去において人間、特に小柄な子供は、オオカミにとって最も捕まえやすい手頃な獲物だった」と述べています。
 そして、「オオカミの襲撃で北アメリカではゼロ、ユーラシア大陸では無数にあるという相反するデータを説明するため」、「最初に出会ったときから北アメリカのオオカミにとって人類とは、動物の群れをめぐって競合する危険な相手だった」が、「ユーラシアでは、オオカミは最低でも170万年にわたってヒト科とかかわってきた」と述べています。
 また、中国で発見された北京原人の化石が、「頭骨の数が、全身の骨の数と同じどころか圧倒的に多かった」だけではなく、「顔の骨は取り去られ、頭骨の一番下の開口部が割広げられていた」ため、「人肉嗜食(と脳の脂肪組織に対する特異な食欲)が唯一つのもっともらしい説明と思われた」ため、「人肉嗜食、とくに仲間の脳みそを食べるという野蛮なならわしもあった」という説が出されたが、後に、「周口店のホモ・エレクトスの頭骨には、大型のハイエナが噛んで、砕いて、処理した形跡がすべて残って」いたことが明らかになり、「現生ハイエナ類の食習性に見られる、噛む、砕く、処理するという一連の段階が再現された」と解説しています。
 第6章「ヘビにのみ込まれたときの心得」では、「昔も今も変わらず人間を襲い続けている脊椎動物のグループ」として、爬虫類を挙げ、「ヘビ類は獲物を丸ごと飲み込む」ため、「今考えに入れなければならないヘビ類は、初期ヒト科ほどの食物を放り込めるような(すなわち大きく開くあごを持つ)大きさのヘビだけだ」と述べています。
 また、コモドオオトカゲについて、「何万年をかけて霊長類ヒト科の脳の中に作り上げられたと思われるおそれゆえにひるんでしまう」として、「色は灰色、長さ20センチメートルの二股に分かれた下がよだれを垂らしながら人間の臭いを嗅ぎ取り、後を追いかけ、はらわたを抜きにくる。もう死は避けられない」と述べています。
 さらに、「人間を捕食するワニ類の逸話の出所は、ほとんどがインド太平洋だ」として、「とくに身の毛がよだつ話」として、第二次世界大戦中、イギリス軍によるビルマ奪還の軍事作戦で、マングローブの沼地に一晩閉じ込められた1000人の日本兵が、ワニの襲撃を受け、「日本兵はワニのあごで押しつぶされるたびに悲鳴を上げた」として、「日が昇るころには、恐怖の一夜を語れる生存者はわずか20人しかいなかった」、「生き残った兵の話」では、「仲間の大半はワニに殺された」と伝えています。
 第7章「空からの恐怖」では、猛禽類の実質的な殺戮装置として、その足を挙げ、「その威力は並外れている」と述べ、
(1)獲物の体に食い込む
(2)縮めて閉じる
(3)圧縮圧を加える
の3つが一斉に作用する、と述べています。
 また、カンムリクマタカが、「並外れて強い力」があるため「サルを林床で殺したあと、死体をつかんだままほぼ垂直に飛び上がる」と述べています。
 第8章「私たちは食べられるのをぼうっと待っているだけではなかった」では、「霊長類は樹上性捕食者よりも大きくなることで、その多くを避けられるようになった可能性が示唆される」が、「地上性捕食者についてはそのかぎりではない」と述べています。
 そして、「人類の長い進化の歴史の中で、もし集団での防御がなかったなら、間違いなく死に絶えていただろう。よりたくさんの目と耳と鼻があったからこそ、舌なめずりしながら音もにおいも出さずに忍び寄ってくる捕食者の危険を減らせたのだ」と述べています。
 また、「二足動物になることによってはるかに安全になった」として、「二足歩行によって両手が自由になり、人類は防御者として成功した」とともに、「より大きく見えるようになったことが、戦略としても功を奏した」と述べています。
 著者は、人類進化過程の大部分で使われた防御方法として、「大型化、社会形成、発生、二足歩行、脳の複雑化、相手を混乱させるような積極的防御行動」などを挙げています。
 第9章「気高い未開人か、血に餓えた野獣か」では、「人類進化の中にアウストラロピテクスが受け入れられて以来、ほぼ十年ごとにあるテーマが現れては消え、また現れている」として、根本に「狩るヒト」説(狩猟仮説)をおいた、「凶暴性の進化とその生物学的基礎」についてのたくさんの筋書きが考え出されたと述べています。
 著者は、「彼らは社会的動物だった。霊長類だった。必ずしもあらかじめ決められた方向に進むのではなく、自分自身の能力で生きる複雑な生き物だった」として、「初期ヒト科は、大きくどう猛で腹をすかせたものすごい数の動物の餌の一つだった」と述べています。
 第10章「狩られるヒト」では、ロバート・アードレイの狩猟仮説が、「化石証拠よりも、現生人類の悲観的な見通しと、『原罪』というキリスト教の理論的枠組みを根拠にしていた」と指摘しています。
 そして、「狩るヒト」説がすんなり受け入れられた理由として、
(1)19世紀に見つかった最初のヒト科の化石が年齢にして10万歳に満たないヨーロッパの標本だったこと。
(2)動物をばらすのに使われた槍や道具などの人口遺物が一緒に発見され、しかもとても精巧に作られていたこと。
の2点を指摘しています。
 また、「疑いを挟む余地がない話」として、「火を自在に操れるようになるまでは、大がかりな狩りをするヒト科はいなかった」として、「人間は肉食動物のような歯も消化器官も持ち合わせていない」ことを強調し、「調理という技術」を手に入れるまでこの問題は解決されなかったと述べています。
 さらに、「狩られる人」とした人類が出発し、「どのような戦略で捕食から身を守っていた」のかについて、
・戦略その1:25~75個体からなる比較的大きな集団で暮らしていた。
・戦略その2:多才な移動様式を持っていた。
・戦略その3:柔軟性のある社会組織を作る。
・戦略その4:社会集団の中には間違いなく男がいる。
・戦略その5:男を見張りとして使う。
・戦略その6:泊まり場を注意深く選ぶ。
・戦略その7:賢くあれ、そして相手より一歩先んじること。
の7つの戦略を挙げています。
 本書は、我々自身を、改めて食物連鎖の中に捉えて見ることができる目を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 自分が生きたまま食べられる光景というのは想像したくないですが、ネコ科の捕食者に一撃で急所を仕留められて、絶命した後で食べられるというのは、病気で長く苦しむのよりも幸せなのかもしれません。というより、そもそも肉食動物は、逃げられない病気の個体から食べていくことを考えると、昔は、病気になったら長く苦しむよりも食べられてしまう方が当然だったのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・自分は「狩る側」だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 西田 利貞 『人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ』 2008年03月09日
 リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
 ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
 ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
 山極 寿一 『暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る』 2008年04月13日
 リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日


■ 百夜百マンガ

GOLDEN BOY【GOLDEN BOY 】

 このタイトルだから、「きんたろう」という主人公の名前だというのもすごく安易に感じますが、他の作品の登場人物も「ささにしき」とか「こしひかり」とかなので、あまり違和感ないのかもしれません。

投稿者 tozaki : 21:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【その他科学】

2008年07月15日

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯

■ 書籍情報

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯   【粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯】(#1272)

  城山 三郎
  価格: ¥470 (税込)
  文藝春秋(1992/06)

 本書は、タイトルである「粗にして野だが卑ではない」という「会心のライフ・スタイル」を貫いた第5代国鉄総裁石田禮助の評伝です。
 序章では石田が、生前、「どうしてももらってもらえ」との池田総理の強い意向にもかかわらず、「おれはマンキーだよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と受け付けず、ただし、ただのマンキーではなく、国鉄総裁になって、初めて国会へ呼ばれたときには、代議士たちを前に、「粗にして野だが卑ではないつもり」という心意気を示したと述べています。
 第1章「若き兵士の如く」では、総理大臣池田勇人が、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていたが、小林一三が「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と初代総裁のポストをはねつけたように、「統率力の限界」を超えた従業員数46万人に加え、「政府の指揮監督、国会の監督と手枷足枷をはめられての仕事」であり、「経営サイドに当事者能力がまるで与えられていない」なかで、「加えて、巨大な労働組合の壁」があり、「これでは誰がなろうとうまく行くはずが」ないと考えられていたと述べています。
 しかし、第4代総裁の十河と同じ国府津の住人であり、2期に渡って国鉄監査委員長をつとめたのち、諮問委員をしていた石田は、国鉄総裁就任の依頼に、「これでパスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)を与えられた」と語り、「商売に徹して生きた後は、『パブリック・サービス』。世の中のために尽くす。そこではじめて天国へ行ける」と考えていたと述べています。
 また、初の記者会見で有名になった、「体に自信はある。気持ちはヤング・ソルジャーだ」と語ったことについて、「ソルジャー」という言葉には、「自分が犠牲になり、耐えて耐え抜く人」との意味を持っていたのではないかと述べています。
 第2章「ひとつのロマン」では、三井物産の中で石田が頭角を現したのが、「大正5年、数え31歳でシアトルの支店長(正式には出張員主席)に起用されてからである」と述べ、また、シアトルに向う太平洋の半月あまりの船旅で同質となった第一生命の石坂泰三と気が合い、「生涯の親友」となったと述べています。
 また、シアトル時代の証言として、「ミスター・イシダは本当に公平だった」という部下の女性の証言や、「きびしい人、自分にも厳しい人でした。仕事も早く、決断も早かった。たいへん威厳があり、笑顔など見たこともない」という部下の男性の証言を紹介しています。
 第3章「動くものが好き」では、「石田が目をつける部下の条件」として、
(1)ヤング
(2)アグレッシブ
(3)イクスピアリアンスト
の3点を挙げ、大連時代にラグビーの試合での「トライの仕方」を見込まれた北原一造が、ニューヨークの金物部に呼び寄せられ、「きみ、運動やってるだろうな、やめちゃいかんよ」と言われたことを紹介しています。
 さらに、「部下を評価する石田の言葉」として、「エイブル」という言葉を挙げています。
 第5章「『非戦闘員』のクラブ」では、国府津に居を構えた石田の元に、「石坂泰三、加納久朗(後の千葉県知事)、安川雄之助ら戌年同士で集まることもあり、加納がわざわざ国府津まで犬を持ってきたりした」と述べています。
 そして、昭和21年から10年間にわたる石田禮助の60歳代を、「石田は単なる『石田農園主』であって、公職を含むこれといった職に就いていない」と述べています。
 第6章「ミスター鬼瓦」では、昭和31年に、「同じ国府津の住人である十河信二国鉄総裁に頼まれ、石田が国鉄監査委員、そして初代委員長になった」ことを述べ、6年間にわたる監査委員長の期間、国府津の石田家では、養子房之助に志寿子を娶り、「室町のライオン」とも言われた石田が、孫を得たとたん、「孫を抱いたり、揺り籠の子守りをしている」ことに、石田の妻つゆの友人たちが、「想像できない。ぜひ見せて」と言ってつゆを困らせたと述べています。
 第7章「降りかかる火の粉」では、石田にとっての「人生の秋、颯爽の出番であった」国鉄総裁職への就任について、
「それまでの人生の中から、スタンスはすでに決まっていた。
 粗にして野だが卑ではない。正々堂々とやる――。
 私心といえば、そうすることで『天国への旅券(パスポート・フォア・ヘブン)』を得たいという願いだけ、こわいもの知らずでもあった」
と述べています。
 そして、石田が、通勤対策については、
「地域の問題であり、政府や地方自治体が対策を考えるべきである。
 国鉄はもともと全国を対象とし、地域と地域を結ぶなど国土の平均的開発に役立つのが使命である」
との考えを持っていたが、「朝の通勤ラッシュの新宿、赤羽、上野、さらに大阪の各駅ホーム」に立ったことで、「これまでのそうした考え方を『悔い改めた』」と語ったと述べています。
 しかし、石田の"神よ、願わくは安全を守り給え"という祈りは神に届かず、昭和38年11月9日、死者161名を出した鶴見事故が起き、葬儀では「嗚咽して、用意した弔辞をろくに読めなかった」ことが述べられています。
 第8章「人生の達人」では、鶴見事故後、「総裁職は金をもらってやるべきではない」との思いを強くした石田は、給与全額を受け取らぬことにし、「一年ブランデー一本頂戴出来レベ仕合ワセデス」と文書で申し出たと述べています。
 また、国会答弁では、離れた席とマイクとの往復をする石田を見かねた田中角栄から、「空いている総理大臣席に坐るように」と進められ、「遠慮なく、そこに腰を下した」石田が、官房長官から「低姿勢、低姿勢」というメモを渡されたが、
「私は低姿勢はきらいだなあ。低姿勢をとる必要もないもんな。私の柄に合わないですよ。へんに威張るなんということはないけれども、なにも自分を卑下して下げなくてもいいところを下げるなんてことはできませんよ」
というスタンスであったと述べています。
 さらに、昼夜なく「命を賭けて」働く運転士と専売公社の従業員の給与が変わらぬことを指摘し、「タバコ巻き」呼ばわりはけしからぬと講義してきた全専売労働組合に対しても総裁室のドアを開け放ったまま、
「だって、きみィ、タバコ巻いてるじゃないか」
「ぼくはヘビィ・スモーカーだったが、いまはやめてる。あんなに体に悪いものはない。きみらがつくったら、外国で売りたまえ。ぼくが売ってやるよ」
と抗議団を煙に巻いたと述べています。
 そして、石田が、国会議員たちに対しても臆することなく、
「国会に行くことなんか、ぜんぜん苦にならんな。よろこんで行くよ。気を使うことなんかありゃせん。ワシは国会はおもしろいし、エンジョイすることすらあるよ」
とコメントしてることを紹介しています。
 第12章「首を切られた気持ち」では、石田が、「総評傘下の巨大な戦闘集団」の順法闘争には激しい憤りを見せ、「指導した組合執行部に対して、解雇もふくめた厳しい処分」を打ち出したことに対し、組合員たちが総裁質に押しかけると、
「どうかねキミたち、首を切られた気持ちは?」
と語り、「これにはさすがの組合の猛者もグッとつまってひとこともなかった」と、その様子を紹介しています。
 そして、昭和44年5月27日、「石田はまる6年にわたる国鉄総裁職を辞し」、「その離任は国鉄の内外から惜しまれた」と述べています。
 第14章「毎日の遺言」では、病に倒れた石田が、「自分の葬儀のことを口にするように」なり、「思いついた、遺言だぞ」といって、
○死亡通知を出す必要はない。
○こちらは死んでしまったのに、第一線で働いている人がやってくる必要はない。気持はもう頂いている。
○物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用を使うなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め。
○香奠や花輪は一切断れ。
○祭壇は最高も最低もいやだ。下から二番目ぐらいにせよ。
○坊さんは一人でたくさんだ。
○戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう。
○葬式が終わった後、「内々で済ませました」との通知だけ出せ。
○ママは世間があるからと言うかも知れぬが、納骨以後もすべて家族だけだ。
○何回忌だからといって、親族を呼ぶな。通知をもらえば、先方は無理をする。
○それより、家族だけで寺へ行け。形見分けをするな。つゆが死んでも同じだ。
などの「遺言」を「毎日のように志寿子に指示して書取らせた」ことを紹介しています。
 そして、「家族に見守られて、生まれた。死ぬときも、家族に見守られて死ぬ。それがおれの希望だ」と「くり返し言った」と述べています。
 本書は、本当の意味での「パブリック」とは何かを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の表紙は、国府津駅のホームに立つ石田の写真があしらわれていますが、そう言えば、「一等車」「二等車」という呼び名を「グリーン車」「普通車」に変えさせたのは石田なのだそうです。国府津から東京までの通勤はたいへんそうですが、写真を見る感じでは、席を譲ったりすると、「年寄り扱いするな」と怒り出しそうな印象を受けます。とは言え、海外生活が長い合理主義者でもあったので、「リーズナブル」と思えばすんなり席に座りそうな気もしますが。


■ どんな人にオススメ?

・気持ちのよい年寄になりたい人。


■ 関連しそうな本

 城山 三郎 『花失せては面白からず―山田教授の生き方・考え方』 2008年03月27日
 城山 三郎 『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界』
 城山 三郎 『落日燃ゆ』
 城山 三郎 『男子の本懐』
 城山 三郎 『雄気堂々〈上〉』
 城山 三郎 『官僚たちの夏』


■ 百夜百マンガ

究極変態仮面【究極変態仮面 】

 当時の小中学生なら誰しも、パンツをかぶって「フォオオオ!」と叫んだかどうかは定かではありません。

投稿者 tozaki : 21:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【日本人】

2008年07月14日

女子の本懐―市ヶ谷の55日

■ 書籍情報

女子の本懐―市ヶ谷の55日   【女子の本懐―市ヶ谷の55日】(#1271)

  小池 百合子
  価格: ¥788 (税込)
  文藝春秋(2007/10/17)

 本書は、2007年7月4日から8月27日までの55日間、日本初の女性防衛大臣を務めた著者の「大臣日記」です。
 第1章「いざ防衛省へ」では、「世界でも女性の防衛大臣、国防大臣」は「数少ないことも事実」だが、「誰もが記憶ことなく、女性国防大臣の務めを果たしたことだろう。女性大臣だからできること、女性、男性に限らず、なすべきことの両方をこなしている」として、「女性の側は、特に肩肘張って国防に挑むわけではない。むしろ肩肘張って女性のトップを迎え入れるのは、男性側ではないだろうか」と述べています。
 そして、着任時の記者会見場のカーテンが「くすんだ水色」だったものを、「これでは『どこの役所かも、わからない』」からと、「大臣室にかかっていた世界地図を、間に合わせに」吊るしたことなどのエピソードを述べています。
 また、天候によってヘリを飛ばすか陸路を使うかの見きわめを、海上自衛隊では「決心」という言葉を使い、陸自、空自では「決断」という言葉を使うことを紹介し、「陸海空のそれぞれの伝統と、『俺たちは、他とは違うぞ』という強い自負が存在することも、おさえておかなければいけないポイント」だと述べています。
 さらに、7月19日の第4回地震災害対策本部会議で、1973年に著者がカイロで経験した第四次中東戦争の思い出話を披露したが、「灯火管制を経験した人が誰もいないこと」に気づき、「防衛省・自衛隊の幹部が、ただ一人として有事を体験していない。決して悪いことではない。それは平和な日本の証明でもあった」と述べています。
 第2章「『ひとり二・二六』との攻防」では、8月6日に、守屋次官からの人事案が、「米軍再編、テロ特措法への対応、廃止する防衛施設庁に代わって、防衛省内に置くこととなっている新ポスト、地方協力局長の人事など、かなり大掛かりな変更とされたが、次官ポストだけはそのままという案」に、「あっ」と「この人は、ずっと居続けるつもりなのだ」ということに気づき、「このまま『はい、そうですか』と受けるつもりはなかった」と述べています。
 そして、その日の夜、著者が、「水面下で進めてきた防衛省の人事案が、もうマスコミに漏れているという情報」が入り、「情報漏洩に神経を尖らせ、そのための保全策に取り組もうというのに、新聞に抜かれては示しがつかない」として、守屋次官本人の携帯に電話したが、「待てど、暮らせど、返事はなかった」と述べ、翌8月7日の毎日新聞の3面に、「防衛省:守屋次官退任へ 後任は西川官房長」という「メガトン級の記事」が掲載されたとして、「事務次官人事をめぐり、防衛省内はマグニチュード10の地震が襲ったような騒ぎとなっていた」と述べ、「役人にとっては人事がすべてだというが、役所の仕事は国を守ることである」と述べています。
 8月9日のワシントンでのライス国務長官との面談後のCSIS(戦略国際問題研究所)での講演では、冒頭、「私を"日本のライス長官"と呼ぶ人もいる。どうぞ『マダム寿司』と呼んでください」とのジョークをはさんだことを述べています。
 事務次官人事をめぐる問題では、「肝心の塩崎官房長官とのアポがなかなかとれない」ことについて、「どうやら小池包囲網が構築されていたようだった」が、「そもそも防衛大臣である私が人事案を練り、安倍総理自信が納得したものだ。真の任免権者は誰なのか。答は一つだった」と述べています。
 そして、守屋次官が「官邸を自由に泳ぎまわり」、著者の人事案阻止を訴えていたことについて、「たとえ『人事検討会議』なる装置があるとしても、大臣である私の人事案に、法律的には自衛隊員である時間、それも本人が異を唱えるのは、シビリアン・コントロールに反しないか」として、「これでは『ひとり二・二六』である」と述べ、「そもそも大臣の人事案に、次官が反対し、阻止に躍起となるなど、考えられない」、「上官の命令に、部下が反抗し、それが成功するようでは、ヒエラルキーの典型である組織がもたないではないか。シビリアン・コントロールが破られる前例を作るわけにはいかなかった」と述べています。
 また、8月24日の記者会見では、「新しい大臣にしっかり任せていきたい」と明言しているのに、「記者たちはいまだに理解していなかった」ことにいらだち、「だから私は辞めると言っているのよ」と記者たちに解説をしたことで「はじめて記者たちがざわめいた」と述べています。
 第3章「一兵卒として」では、原油価格の高騰について、「日本というくには、二度のオイルショックで経験したように、国家的な危機意識を企業や国民が共有したときに、驚異的な力を発揮する」と述べ、「今こそ、世界をリードするためにもグランド・デザインが必要だ」として、「『不都合な真実』を直視し、『好都合な真実』に転換することこそ、日本のお家芸なのだ」と述べています。
 また、少子化問題については、「結婚、出産が、ご褒美につながるような環境を作ることが求められている」として、そのために、「社会全体の意識変革を促さなくてはいけない」と、クールビズ導入のように、「子育ての分野で、『大義』と『共感』の両方を満たすような手法がないものだろうか」と述べています。
 さらに、「国力の方程式」として、元CIA副長官でジョージタウン大学教授のレイ・クライン氏による、
「国力=(人口と領土+経済力+軍事力)×(戦略+実行する意思)」
という方程式を紹介しています。
 本書は、短いだけに濃密な大臣としての日々を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 先月、著者が千葉大で特別講義をしたときには、愛車のプリウスで千葉まで来たそうですが、日産のカルロス・ゴーン氏と対談したときに、一緒に写真を撮ろうと言ったら、それだけは勘弁してくれと言われたそうです。


■ どんな人にオススメ?

・初の女性防衛相の目から見た「市ヶ谷」を見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 小池 百合子 『小池式コンセプト・ノート―プロジェクトは「大義と共感」で決まる!』
 ワンガリ・マータイ (著), 小池 百合子 (翻訳) 『UNBOWEDへこたれない ~ワンガリ・マータイ自伝』
 飯島 勲 『小泉官邸秘録』 2008年01月30日
 竹中 治堅 『首相支配-日本政治の変貌』 2006年12月26日
 読売新聞政治部 『自民党を壊した男小泉政権1500日の真実』 2006年03月14日
 清水 真人 『官邸主導―小泉純一郎の革命』 2007年03月19日


■ 百夜百マンガ

百鬼夜行抄【百鬼夜行抄 】

 ホラー名作品の割にはペンネームはふざけているのですが、そういえば、現在は日光市になっている旧今市市で起きた殺人事件について、和歌山市長が「イマイチなまち」と発言して問題になったことがありました。

投稿者 tozaki : 06:00 | コメント (0) | トラックバック (0) 【行政その他】

2008年07月13日

江戸の宿―三都・街道宿泊事情

■ 書籍情報

江戸の宿―三都・街道宿泊事情   【江戸の宿―三都・街道宿泊事情】(#1270)

  深井 甚三
  価格: ¥756 (税込)
  平凡社(2000/08)

 本書は、「町人・農民など庶民の宿である旅籠屋を中心にしてさまざまな宿について」解説したもので、「今日の日本旅館の始まりとなる、朝夕の食事も提供し、風呂も用意し、床の間つきの座敷をもつ旗小屋が成立したのは江戸時代のこと」であるとして、これらのやども、「大名に参勤交代をさせ、その宿を沿道の宿屋につとめさせた江戸時代の社会の支配のあり方や、またこの社会の文化に規定されて」成立し、発展したと述べています。
 第1章「三都と城下町、街道の宿をみる」では、「特定の町への旅籠屋集中」が、「17世紀中頃に城下町反映策としてとられたことが豊田武氏により指摘されている」ことを紹介しています。
 第2章「貴人の宿ともてなし」では、本陣を利用する大名が、「自身の賄いを家臣にさせる木賃方式での宿利用のため、座敷利用代にあたる、下され物・宿入りなどといわれる宿料を支払った」が、「別に家臣らへの食事を依頼すれば旅籠代を支払うこと」になり、また、本人は、宿泊する大名に「献上品を差し上げていた」と述べています。
 また、貿易のみ関係を持ったオランダの長崎出島商館の館長、カピタンたちが、宿を利用する際には、「ベッドはともかく、寝具も旅に持参していた」として、「オランダ商館の名誉を汚さぬように、絢爛豪華なものを選んだ」と解説しています。
 第3章「庶民の宿泊事情」では、17世紀後期のいわゆる元禄時代に、商用のための旅のほか、「商品経済の展開を基礎にして、農民も町人も遠方の自社へ参詣に出かけるゆとりも生まれてきた」と述べています。
 そして、江戸時代の庶民の宿を代表する旅籠屋と木賃宿について、
・旅籠屋:朝・夕の食事を提供し、「旅籠」は食事自体も意味して使用された。
・木賃宿:宿泊客が持参した食料を煮炊きするために薪を提供したことから名付けられた。
と解説し、「江戸時代の初めには木賃宿が宿屋の主流であり、旅籠屋が一般化するのは遅」かったとする説もあったが、「旅籠屋の一般的成立については今のところ定説がない」と述べています。
 また、幕府がたびたび宿場町に遊女を置くことを厳禁したが、「宿泊客に食事を提供するだけでは旅籠屋の収入は限られ、また伝馬役・御用宿の負担が宿場町の住民にはある」ため、「飯盛女・飯売女として抱えた下女に売女をさせる動きは止められなかった」と述べています。
 第4章「江戸の宿さまざま」では、「本陣その他の領主の宿や、商人のための商人宿」、庶民の旅である旅籠屋などのほか、「行き暮れた旅人や僧侶・巡礼・廻国修行者などに提供される善根宿をはじめとして各種の宿を取り上げ」ています。
 また、武者修行者の宿は「修行人宿・修行者宿・修行人定宿などとよばれていた」と述べ、「江戸など三都以外となると武者修行の場は、当然ながら城下町となった」として、その宿として旅籠のほか、本陣が指定されていたことを紹介しています。
 第5章「旅人から見た旅籠屋」では、「さまざまな身分の人々の宿泊を受け入れなければならない旅籠屋」が、「相宿利用をその特徴としていた」上、「壁ではなく、ふすまや障子だけで隣室を仕切る旅籠屋では、他の客と相宿になるといっても、厳密にはともかく、プライバシーが保てないことではそう差があるものではなかった」が、「当時の人といえども相宿の相手については不安に思うものである」と述べています。
 第6章「旅籠屋の施設・経営とサービス」では、旅籠屋の建築に地打て、建築史家大熊喜邦氏による、「旅籠屋の構造はどれも大同小異で、表間口の真ん中に一間(約1.8メートル)の入口をとり、その左右のどちらかに駕籠・長持その他の荷物などを置く大きな板の間と家族の住居の間を置いた。この板の間の通りに面したところにはめた障子には屋号が筆太に書き付けられ、家内の大黒柱には家の名前を書いた看板をかけていた。二回のある家は雨戸の戸袋に屋号の看板を出し、あるいは漆喰で屋号を塗りだしたものもあるという。部屋は板の間の奥に数室から、大きいところは十数室の座敷が建具仕切りで配置されたものである」という指摘を紹介しています。
 また、旅籠屋の看板のマークが、「人目で判別できるように、簡略なマークや文字一字を図案化したものが用いられた」と解説しています。
 第7章「旅籠屋に生きる人びと」では、「旅籠屋など宿屋とのかかわりで暮らしを立てている人々も多い」として、「按摩、髪結、そして商人などの物売りや、また『損料屋』など旅籠屋が必要とする物品その他を提供する商売の人たちもいた」と述べ、「損料屋」については、「御用通行などのときに宿つとめに必要となる諸道具を貸す商売」だと解説しています。
 また、盗難事件が珍しくなかったとして、「関東の治安の悪化していた天保頃にやはり盗難の記録が多い」ことや、「宿屋の出来事として盗難などとともに見落とせない」こととして、「奉公人の下女に対する夜ばい」を挙げ、『東海道中膝栗毛』や『成田道中膝栗毛』でも「ともに夜ばいで恥をかく弥次・喜多を登場させて笑いを誘っている」と述べ、「旅籠屋が夜ばいの起きやすい場としての条件を持っていたために生じたといえよう」と解説しています。
 本書は、江戸の昔に思いを馳せるとともに、現在の日本旅館のサービスの原型を見ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔、彦一ばなしか吉四六ばはしなにかの昔話で、「ごまのはい」の話があり、旅籠で相宿した「ごまのはい」(泥棒)をやりこめる話があったのを憶えています。子供の頃なので、相宿とかにリアリティはなく、そんなもんなんだぐらいに思ってましたが。


■ どんな人にオススメ?

・江戸時代の旅に関心がある人。


■ 関連しそうな本

 金森 敦子 『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』
 高橋 千劔破 『江戸の旅人―大名から逃亡者まで30人の旅』
 神崎 宣武 『江戸の旅文化』
 金森 敦子 『伊勢詣と江戸の旅』
  『旅篭に泊まる』 2007年10月08日
 宇佐美 ミサ子 『宿場の日本史―街道に生きる』 2008年03月06日


■ 百夜百音

そんなヒロシに騙されて/潮騒のメロディー【そんなヒロシに騙されて/潮騒のメロディー】 高田みづえ オリジナル盤発売: 1983

 個人的には競作したジューシーフルーツの方がなじみがあります。ちなみに「ヒロシ」はサザンのメンバーの松田弘からとっていますが、騙したわけではないそうです。

『THE BEST』THE BEST

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