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2006年07月27日
東京の下層社会―明治から終戦まで
■ 書籍情報
紀田 順一郎
価格: ¥1223 (税込)
新潮社(1990/05)
本書は、明治から戦前の昭和にかけての東京のスラムに暮らす人々や娼婦、工場労働者らの姿を描いたものです。本書は、四谷鮫ヶ橋、芝新網町とを合わせて三大スラムと称された現在の上野駅前に広がる下谷万年町をはじめ、明治中葉の東京には実に70数箇所、「下町から山手まで満遍なくスラムが見うけられた」という事実を紹介しています。本書は、そんな明治期の貧民街を描いたルポルタージュの原典ともいうべき『最暗黒の東京』の文庫化(1988)等、古いルポが脚光を浴びている理由を、「大都市のスラム現象は、今日ドヤ街問題を除けばほとんど後を絶ちつつあるが、むしろ一般住宅の狭小スペースやミニ開発による環境悪化、さらには高層住宅の老朽化などという新たなスラム化現象も生じつつある」現代の状況に重なり合う部分が多いことを挙げています。
この『最暗黒の東京』を著した、当時25歳の「国民新聞」の記者、松原岩五郎は、明治25年の9月下旬に、浮浪者を装い下谷万年町のスラム街に潜入します。民権運動の壮士たちによって、貧富の格差の拡大が叫ばれていた当時、反体制的な新聞各社は相次いでスラム探訪記事を連載し、ライバル紙を抜くためには、「より果敢な突撃レポートを試みる」他はなかったのか、事前の準備として、数日間の絶食、上野の山で浮浪者に混じっての野宿などのトレーニングに明け暮れます。その決死の決意にもかかわらず、彼を迎えた町外れの木賃宿では、着物から悪臭を放ち、虱を噛み殺す飴売りの老人と同室になります。狭い蚊帳の中で、老人から伝染した虱が膝のあたりで血を吸って麦粒のように肥っているのを気持ち悪くてつぶすことができなかった松原は、事前の準備にもかかわらず、いざとなると虫一匹始末できない自分に対する不甲斐なさを書き残しています。
松原は、鮫ヶ橋の残飯屋に就職し、士官学校の厨房から残飯を仕入れては、丼や桶を抱えた老若男女に売りさばく体験をします。ここでは、残飯の種類を、
・株切:沢庵などの株のついた頭部の切れ端
・アライ:飯の洗い流したもの
・土竃:パンの切れ端
・虎の皮:お焦げ
などの独自の名称で呼んでいることが紹介されています。また、残飯がまったくでない日は、「飢饉」と呼ばれ、飢饉が続いたときには、豚の餌としてゴミに出そうとしていた餡殻や味噌汁の滓、饐えた飯などをもらいうけ、それに群がる人々を見た松原は、「もしもあなた方が注意して見るならば、世の貧民救済を目的に道徳を語り慈善を説く者の、それが必ずしも道徳、慈善ではないことに気がつくであろう」という痛哭の反省に導かれます。
著者は、スラム住宅が不衛生に陥る原因として、「住民にとってスラムが一刻も早く脱出したい"仮住まい"であると言うこと」を、「本来『宿屋住まい』であろうが『長屋住まい』であろうが、住民はひとしなみに"流民"であり、棟割長屋も"作業用の仮小屋"にすぎないはずだ。じつはこの点にこそ、スラム化現象をめぐる今日的な回答が隠されている」と指摘しています。そして、現代の建築家や建築学者が、「この小屋~長屋の伝統が公営団地や木賃アパートに直結している」と考えていることを挙げ、「都市の地価に追いつかない低収入と貧弱な都市対策。その究極の位置に発生したのがスラムだった」と述べています。著者はこの"流民の伝統"によって、現代の高層住宅の共用部分や公衆トイレの汚れを説明できるとしています。
本書はまた、スラム探訪記事として、桜田文吾の『貧天地饑寒窟探検記』の紹介の中で、東京以上に衛生状態が悪く排他的であった「人間生活最後の墜落」の地、大阪名護町への潜入記事を紹介しています。ここで採集された隠語としては、
・サツケイ:警察の倒語。
・シケ:所得のないこと。この逆は「テンカツ」
・夜商:夜中に人家に忍び入ること。
・空巣狙い:留守宅を窺い忍び入ること。
などがあり、現在では一般的になった「空巣狙い」という言葉が当時は一般的ではなかったとしています。
また、貧民外を象徴する商売として、「小さな熊手と目漉し笊を持って下水や溝泥の中から古釘や空き瓶、金物類を拾い出す」仕事である「ヨナゲ」(選り放る)という職業が紹介されています。この商売も、ゴミの埋め立てが始まると業態が変化し、埋立地の塵芥の山から金目のものを掘り出す仕事に変化します。中でも凄まじいのは、灼熱の埋立地で激しく喉が渇いたときには、発酵した塵芥の山の中から蜜柑や林檎のドロドロに腐敗したものを掘り出し、「それをいきなり、ガブリとかぶりついて頬張っているのだが、その味たるや甘露以上であるということだ」という記述です。
本書は、明治半ば頃の東京の三大スラム街のうち、繁華街に隣接した浅草万年町以外の芝新網町と四谷鮫ヶ橋が生まれた理由として、そこに陸軍士官学校と海軍兵学校があったこと、すなわち軍隊の残飯であった「鎮台飯」の存在を指摘しています。鎮台飯は「良質の上、好不況に無関係な安定的供給源」として、「軍隊から味噌汁のさめない距離を保つことは、福祉なき時代の極貧階級にとって生存のための必要条件」であったとしています。この、スラムと残飯源の関係に着目した草間八十雄によれば、残飯の値段は、当時の米相場の3分の1程度であったことが紹介されています。また、「残飯の残飯」の行方については、売れ残った残飯は糒(ほしい)にして菓子問屋に卸され、「おこし」や大福餅に用いる細粉として和菓子屋に卸されていたことが記されています。
この他食事に関しては、『最暗黒の東京』で「車夫の食物」として、
・丸三蕎麦:小麦の二番粉と蕎麦の三番粉で打った粗製の蕎麦。
・深川飯:バカ貝の剥き身に刻んだ葱を混ぜよく煮て飯にかけたもの。
・馬肉飯:馬肉の骨付きを煮て飯にかけたもの。
・煮込:牛の臓物を切り、串に刺し味噌醤油で煮込んだもの。
・焼鳥:鶏の臓物を蒲焼にしたもの。
・田舎団子:うどん粉を捏ねて蒸し焼きにし、蜜や黄な粉をまぶしたもの。
等が紹介されています。中には、現代では家庭料理としてよく食べられるものも多くあります。
本書はこの他、スラムの大火を契機として行われた、本邦初のスラムクリアランス事業である神田の橋本町の再開発に関して、町に規制していた悪徳差配人が、再開発によって利権を失うことを恐れ、「これまでの利得行為や悪行を反省し」、「町内に住民を世話する組織を設け、今後は下水屎尿処理から健康管理まで意を用いる決意なので、引き続き差配人に任命して」という嘆願書を提出したことが紹介されています。
また、新吉原から死を賭して脱出に成功し、『光明に芽ぐむ』という告発の手記を出版した森光子という娼妓の体験談の紹介では、復讐を決意した彼女が、
「もう泣くまい。悲しむまい。
(中略)
復讐の第一歩として、人知れず日記を書かう。
それは今の慰めの唯一であると共に、又彼等への復讐の宣言である。(後略)」
と決意した下りが引用されている他、昭和の初期に自由廃業に成功した娼妓は全廃業者のわずか0.5%にすぎなかったことが紹介されています。
最終章では、『女工哀史』で知られる女工たちの生活を「吉原娼妓よりも悲惨な運命」として、女工に対する虐待の実態が収められています。
本書は、明治~昭和の貧民の生活を知る上での資料というだけでなく、現代の都市の問題を理解する上で重要になる"流民の伝統"を知るという点でも貴重な一冊ではないかと思います。
■ 個人的な視点から
本書では、当時のスラムが今日の想像を絶していた要素として、当時の住居の多くが無灯火の上に窓もなかったこと、日光が差さないために結核菌が蔓延し、入居者が次々に斃れると、幽霊のせいにして家賃が下がり、入居者が後を絶たない、という劣悪な住環境を紹介しています。
現代でも、周辺の相場より格段に安い部屋などもありますが、実は衛生状態などの理由があるのかもしれません。
■ どんな人にオススメ?
・現代都市住民が持つ"流民の伝統"に興味を惹かれる人。
■ 関連しそうな本
松原 岩五郎 『最暗黒の東京』
横山 源之助 『日本の下層社会』
小板橋 二郎 『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』
大山 史朗 『山谷崖っぷち日記』
西井 一夫 『新編「昭和二十年」東京地図』
吾妻 ひでお 『失踪日記』
■ 百夜百マンガ
タイトルはオヤジギャグそのものですが、いつもトラブルを起こす猫の名前は、「マハトマ・モハンダス・カラマチャンド・エルキュールド・サブヴィニアン・レオポール・クレティアン・フレデリック・タコベール・アレクサンダー3世」というそうです。
投稿者 tozaki : 2006年07月27日 07:00
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