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2006年09月05日
教育改革の幻想
■ 書籍情報
苅谷 剛彦
価格: ¥735 (税込)
筑摩書房(2002/01)
本書は、「過度の受験競争」「暗記ばかりの詰め込み教育」「画一教育」から、「自ら学び、自ら考える力を育てる教育」「子どもの意欲を中心とした教育」「子どもたちが自分で学びたいことを選べる教育」へ、という「わかりきったつもりで邁進してきた教育改革を、今一度、立ち止まって考え直すための試み」として、「教育改革につきまとう『幻想』を振り払って、教育の実相を捉えなおすこと」を目的としたものです。
第1章「教育の制度疲労」では、1980年代半ばの臨時教育審議会以降、「いままでの教育ではまずい」という見方は、広く国民の支持を受けていたことを述べた上で、「教育改革屋教育問題をめぐっては、さまざまな印象論、体験論に基づく議論が広まっている」として、「現在進行中の文部科学省の教育改革に代表される教育の捉え方・問題把握の仕方、さらには改革をリードする理想の描き方を、できるだけ実証的に検証し、そこで見落とされた問題はないか、問題認識に誤りはないかを問い直そうとする試み」であるという本書の目的を述べています。
また、「教育改革のベースとなる問題把握の誤りが、実は私たちが慣れ親しんできた教育の見方、さらには私たちの教育の論じ方に由来することを解き明かすこと」をもう一つの目的としています。
著者は、1999年に、当時の文部科学省政策課長であった寺脇研氏と行った対談から、
・論点1:教育内容の削減は「全員が百点」をめざす。
・論点2:「自分で学びたい」という学習意欲を高めることをめざす。
・論点3:学習指導要領の成果は教師たちのやりかた如何による。
という3つの論点をピックアップするとともに、これまでの教育改革の成果として、「七五三」(小学校3割、中学校5割、高校7割の授業のわからない子ども)を解消するという点では意図どおりの成果を挙げていないこと、学習到達度の低下を引き起こしたこと、学習意欲の改善をもたらしていないこと、等を指摘しています。著者は、「今の日本の教育をとらえ直すためには、改革を導いている教育問題のとらえ方や教育の理想に含まれる論理を取り出し、つぶさに検討してゆくことが必要である」と述べています。
第2章「『ゆとり』と『新しい学習観』『生きる力』の教育」では、「ゆとり」教育が、
(1)「過度の受験競争」のために、現代の子供には「ゆとり」が欠如しているという問題認識があったこと。
(2)ゆとりを与えるのは、教える内容を減らすことで、どの生徒にも学力の定着が図れることが期待されていたこと。
(3)「意欲」の欠如もまた、教育の問題点押して認識されていたこと。
の3点の問題認識に基づいていたことが示されています。
第3章「『ゆとり』のゆくえ」では、学習時間の戦後の変遷に関して、
(1)ゆとり教育が推進されてきた時期に、子どもたちがどれだけ学習に追いまくられていたのかという「ゆとりの欠如」の実態を明らかにする。
(2)「過度の受験競争」によって子どもたちのゆとりが奪われているといった問題認識がどうして生まれ、広く支持を受けてきたのか。
(3)子どもたちの学習離れの実態がどのようなものか。
という3つの課題を設定しています。まず、(1)に関しては、「戦前期の『試験地獄』とは対照的に、『不勉強による学力低下』が問題に」なり、「戦後の混乱期と同じ程度あるいはより少ししか学習しなくなっている」ことを指摘しています。また、(2)に関しては、受験競争の激化が「社会問題」視された1950年代後半の「入学難の時代」に、「実態を調査してみると、思ったほどのゆがみは発見できなかった」ことや、「四当五落」は真実ではなく睡眠時間が8時間以上のものがほとんどであったことなどが述べられています。(3)に関しては、「ゆとり」教育の推進は、誰にでも均等に「ゆとり」を配分したわけではなく、「中学時代に成績が下位であった生徒たちが、高校に入学後に学習離れの拡大を引き起こしている」ことを指摘しています。
第4章「『子ども中心主義』教育の幻惑」では、総合的な学習として目指されている、「子どもの意欲や興味関心を重視し、体験を重視した学習を展開することで、問題解決能力や自ら学ぼうとする意欲が生まれる教育」に共通する理念としての「子ども中心主義(child-centered)」の教育に関して、私たちが『子どもが主人公』の教育に魅了される理由を、「児童中心主義は、むしろ、近代の大人たちが直面した絶望の産物と見るほうが、真実に近いのではあるまいか」という西洋教育史家の宮澤康人氏の言葉を引用し、どの子どもにも「内部からの自己の内的必然性にしたがって自己発展する、<有機体的発達>」が備わっているとみなす「ロマン主義」が根底にあると述べています。
第5章「教育改革の幻想を超えて」では、「『過度の受験競争』を教育問題の『現況』とみなす見方に私たちの教育認識は強く縛られてきた」として、「『学校が伝達する知識は役に立たない』という知識無用論を何の検証もなしに受け入れ」、「過度の知識軽視を生み出してきた」と指摘しています。そして、「受験を目当てにした学習を罪悪視することへの反動」から、「子ども中心主義」の教育が唱えられ、「意欲を高めるためには子どもの体験や活動が重要だとの見方に導かれ、活動主義・体験主義的な教育の試みが導入されてきた」と述べ、「理想のまばゆさを増す、背景としての過去の暗さ」のコントラストの強さが、「現実を見えにくくさせ、手段を欠いた理想を受け入れさせる基盤となっている」ことを指摘しています。
本書は、私たちが無批判に受け入れてきた、「過度の受験競争」によって、学習に追いまくられる子どもたち、という問題が、イメージ先行で実態を見ずに受け入れられてきたことを気づかせてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
高石友也の「受験生ブルース」が流行した60年代の「受験戦争」など知らない世代の身としては、「四当五落」(睡眠時間4時間なら合格し、5時間も寝ると落ちる)という言葉にもピンとこないのです。既に小林よしのりの『東大一直線』の頃には、ギャグとして使われていた「受験戦争」が、その後も長く教育関係者の頭を痛める問題として存在し続け、少子化と大学の増加で四大入学率が上がるころになって、「ゆとり教育」が出てきたわけですが、この頃には、受験戦争も下火になっていたことに気づかなかったというのが不思議です。
■ どんな人にオススメ?
・過度の受験戦争という幻想にさいなまれている人。
■ 関連しそうな本
苅谷 剛彦 『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』 2006年02月14日
橘木 俊詔, 斎藤 貴男, 苅谷 剛彦, 佐藤 俊樹 『封印される不平等』 2006年02月10日
苅谷 剛彦, 石田 浩, 菅山 真次 (編集) 『学校・職安と労働市場―戦後新規学卒市場の制度化過程』 2006年03月03日
苅谷 剛彦 『学校って何だろう―教育の社会学入門』 2006年04月03日
苅谷 剛彦, 志水 宏吉 (編集) 『学力の社会学―調査が示す学力の変化と学習の課題』 2006年07月04日
苅谷 剛彦, 西 研 『考えあう技術』 2006年06月30日
■ 百夜百マンガ
受験戦争の激化はこんな職業まで生み出してしまいました。やっぱりこの当時には、受験戦争を笑い飛ばしてやろう、というジャンルがあったことが伺えます。
投稿者 tozaki : 2006年09月05日 07:00
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