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2006年11月20日

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡

■ 書籍情報

ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡   【ビューティフル・マインド 天才数学者の絶望と奇跡】

  シルヴィア ナサー (著), 塩川 優 (翻訳)
  価格: ¥2,730 (税込)
  新潮社(2002/3/15)

 本書は、ゲーム理論に多大な貢献をした数学者にして1994年のノーベル経済学賞受賞者であるジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアの評伝です。2001年には映画化もされています。
 著者はナッシュを、「科学というよりはむしろ音楽や絵画の世界の住人がそうであるような、不思議な才能をもつ天才」と表し、「理性に先立って、まず直感がひらめくのだ」と述べています。そして、「ナッシュほど独創性に固執し、既成の権威を蔑視し、自立心を保とうと心を砕いた者はいない」と述べる一方で、「真に科学的才能を持つ人は、どれほど奇怪な行動をとっているように見えても、現実に精神病におちいることはまずない」にもかかわらず、「ナッシュは悲劇的な例外であった」と述べています。また、「精神分裂病にかかりやすい傾向が、数学者としては異質なナッシュの思考様式の、一要素をなしていたのは間違いない」と指摘し、ナッシュを、「天才、狂気、再生」という「三つの局面を体験した稀有な人間」と表現しています。
 第1部「ビューティフル・マインド」では、子供の頃には「成績不良児」と言われていたナッシュが数学の面白さに初めて触れたのが、13歳か14歳の頃に読んだE.T.ベルの『数学をつくった人々』であるに違いないと述べられています。またカーネギー大学進学後、プリンストン大の数学科長レフシェッツからの「将来有望な人物が、まだ若くて柔軟な心を持っているうちに来てほしいのだ」という手紙を受け、当時、「米国内でかつてないほど高い地位に昇りつめた」プリンストンの大学院に進学したことが紹介されています。そして、数学教育についてのレフシェッツの哲学は、「学生たちをできるだけ速やかに独自の研究に向かわせ、一刻も早く水準に達した博士論文を書かせること」を最大の目標にしていたことが語られています。このときナッシュは、「これほど魅力的な、数学で囲まれた小温室のような世界を初めて知った」のだと述べられています。
 大学院でのナッシュは、「人からあまり学びすぎると創造性が損なわれると考えて、意識的に本を遠ざけていた」ため、「必要な知識や情報は、主に教授や大学院生に質問することで入手した」と語られています。そして、当時、「プリンストン大学数学科の最高に輝かしい星」であった「最期の真の万能学者」ジョン・フォン・ノイマンが著した『ゲームの理論と経済行動』を紹介するとともに、ナッシュが、経済学上の重要問題である「交渉問題」に対し、「交渉する二人の人間が合理的であるなら、それぞれが相手にどのように働きかけるかを予測するという、まったく斬新なアプローチを試み」るという公理系アプローチのアイデアを、カーネギー大での経済学の講義を受けているときに、「啓示のごとく閃いた」ことが紹介されています。そして、1949年の10月に、「アイデアの嵐」に襲われたナッシュは、のちに「ナッシュ均衡」とよばれる「人間の行動に関する見事な洞察」を得ます。このアイデアを携えて、面会に来たナッシュに対し、フォン・ノイマンは、「くだらん。そんなのは、不動点定理の問題に過ぎない」と一蹴しますが、著者は、「他人の感情や動機についてとんと無頓着」なナッシュが、フォン・ノイマンの拒絶の中に、「ねたみやそねみ」を感じ取っていることに「興味深い」とコメントしています。
 後にナッシュは、ランド研究所で働き始めますが、そのアイデアは、「二人ゼロ和ゲーム理論からの解放を保証した」点がランドで働く数学者、軍事戦略家、経済学者たちにとって、最大の魅力だったと解説されています。そして、ナッシュ均衡が、「社会科学の全分野でもっとも有名な戦略ゲーム」である「囚人のジレンマ」に新たな生命を吹き込んだと述べています。著者は、ナッシュの思考パターンを、「いつも事前に解答を見いだし、そこからさかのぼってその正しさを証明するタイプの人間」と評し、「ナッシュは、幾何学的な、視覚的感覚が才能の一部をなしているタイプの人間」であり、「数学の世界を目に見える絵として把握する」というある数学者のコメントを紹介しています。
 23歳の時にナッシュは、MITの講師の職を得ますが、多くの大学院生よりも年下だったナッシュは、「がき教授(キッド・プロフェサー)」というあだ名を付けられています。
 第2部「離れゆく生」では、ナッシュが24歳から29歳にいたる5年間に、「
少なくとも3人の男性と深い情緒的な関わりを持ち、自分の子どもを生む秘密の愛人をもうけ、やがて捨て去り、さらに自分の妻となる女性に求愛する――むしろ求愛される――ようになる」ことが述べられています。著者はナッシュが、「人を自分に尽くさせようと熱心に務めはしたが、自分が人に尽くすことにはほとんど無関心だった」だけでなく、「そういう感情を理解することすらできなかった」と述べ、「私は、自分をそれだけのすぐれた数学者だと考えていた」という後年のナッシュの言葉を紹介しています。
 ナッシュの最初の子どもを産むことになるエレノア・スタイアーは、病院で働く看護婦をしていた当時29歳の「なかなか人目を引く顔立ちをした、働き者で、心の優しい女性」であり、ナッシュが入院した際に知り合っています。ナッシュの25回目の誕生日から6日後に、ジョン・デヴィッド・スタイアーが生まれますが、ナッシュは「出産証明書の父親欄に自分の名前を書くことは拒否し、出産費用も出そうとはしなかった」と述べられています。ナッシュは、子どもができたときに若い男がする二つの反応、ショットガン・ウェディングも逃げ出すこともしない代わりに、「息子を貧困から守ることもせず、断続的ではあれ母親から引き離すに任せながら、自分が父親であることだけは主張して、いつまでもつながりを維持しよう」とする、「どこから見ても利己的で、冷酷とさえ言える道」を選んだと述べられています。
 1954年、ナッシュはサンタモニカ海岸の同性愛者が集まる「マッスル・ビーチ」で、サンタモニカ警察のおとり捜査にはまって逮捕され、ランド研究所を追われることになります。著者は、この事件について、「この逮捕劇はナッシュの人生に一大転機をもたらした」と述べ、ナッシュが精神分裂病を発症する「促進役」となったことを指摘しています。また、当時の当局の「卑劣で陰湿な行為の犠牲」となった他の数学者として、1953年に自殺を図ったJ.C.C.マッキンジーや、1954年に青酸入りのリンゴを食べた天才数学者アラン・チューリングを紹介しています。
 この後ナッシュは、当時のMITでは珍しかった女子学生であったアリシア・ラルデと出会います。「高名な科学者になりたい」という夢をMITの厳しい試験に打ち砕かれた彼女は、「すぐれた男と結婚すれば自分の野心もかなえられる」ことに気づき、ナッシュに接近していきます。
 第3部「ゆるゆると燃え出す火」では、ナッシュが同僚から、「ナッシュはさながら作曲家で、音を正しく聴き取ることは得意でも、楽器や声を通してそれを適切に表現してまとめ上げるのは苦手でした」と評されていたことや、30歳になったナッシュが、「この時期に急に不安になって、創造力のピークが過ぎ去る『恐怖』に襲われた」ことなどが述べられています。そして、1958年12月31日から翌年2月末の間に、「数学科の同僚たちを困惑させるほどの不可解で恐ろしい変貌」を遂げ、「すでに目に見えない境界線を越えていた」と述べられています。ナッシュは「ニューヨーク・タイムズ」を手に、「地球の外からの目に見えない力が、あるいは外国政府が、『タイムズ』を通して自分に連絡をとってきた。メッセージは自分だけに向けられたもので、暗号になっているから解読には慎重を要する。解読のしかたも自分しか知らない。自分だけが世界の秘密に関与することを許されているのだ」と話し出しています。その年の4月、ナッシュはマクリーン病院に入院し、5月にアリシアは、ナッシュが「ベビー・イプシロン」と呼んでいたジョン・チャールズを出産しています。
 第4部「失われた歳月」では、ナッシュがヨーロッパに渡り、アメリカ国籍を放棄し、「NATOに加盟するあらゆる国から離脱した亡命者になる」ことを希望して画策したことや、1961年にトレントン州立病院に強制収容され、「まるで捕虜ででもあるかのように通し番号をあてがわれた」こと、1962年の夏にプリンストンに戻ったナッシュの状態が「すっかり悪化し」、「3年間の不安と苦悩にくたびれはて、気力も失せて、ナッシュの将来はどう見ても希望が持てないという結論」に達したアリシアが離婚訴訟に踏み切ったことなどが述べられています。そして、「ナッシュがますます混乱状態意に陥り、しかも離婚直前であるという噂」を聞きつけた多くの数学者は、「ナッシュをすぐにも治療しなければならない」と資金集めをし、キャリア・クリニックでの治療を受けられるように取り計らっています。
 キャリア・クリニックを退院し、1965年に、単身ボストンに戻ったナッシュは、当時「はつらつとした空気」に満ちていたブランダイス大学での新しい生活を送り始めます。「学内の空気は親しみやすくくだけたもので、ナッシュも非常に居心地がよかった」と述べられ、ナッシュが意欲と活力を取り戻したことが紹介されています。著者は、「1965年までの6年間のほとんどを精神病に冒され、深刻な記憶力の衰退に苦しんでいた人間が、数学上の新たな分野を開拓する論文を発表したことは瞠目すべきこと」であると述べ、「妄想型精神分裂病の患者は、たとえ一定の期間であれ、快復して病気前の水準まで能力が戻ることはめったにない」と信じられていることの例外がナッシュであることを指摘しています。しかし、その夏には、「正常の一線をまっすぐに通り過ぎて、ひどい興奮状態におちいり」、人と交際できる状態ではなくなっています。著者は、「精神分裂病と今日言われている症候群」に典型的な妄想が、「朦朧として、混沌として、支離滅裂というよりは、意識が委譲に研ぎ澄まされ、知覚が極端に鋭敏となり、眠れないほどの警戒心が強まり、執拗な熱中、入念な理論武装、巧妙なこじつけが支配的」となり、「どれほど融通性に欠け、脱線し、自己矛盾していようと、その考えはまったくのでたらめではなく、不可解で一般には理解不能な、固有のルールに則っている」と述べています。
 ナッシュは、1970年代にはプリンストン大学の学生の間で「ファインホールの幽霊(ファントム)」と呼ばれ、「あまり頭を使いすぎたり、人付き合いが悪かったりすると、男でも女でも『あんな風になりかねない』という」一種の警戒心号と見られたことが紹介されています。この「幽霊」は、学内のあちこちの黒板にメッセージを書き残し、ある学生と若手教授は、このメッセージを一語一語正確に書き写し、この内容が、「幽霊の偉大さを感じさせ、彼が天才であるという言い伝えが、けっしてまちがいではないことを示すものだった」と述べられています。このプリンストンでの生活は、「大学が、狂気を吐き出す受け皿になった」ことで、「治療効果のある環境の機能を果たしたのはまちがいない」と述べられています。
 第5部「もっとも価値ある存在」では、重い精神分裂病に冒されたナッシュが、1970年代から80年代にかけて奇跡的に寛解したことが述べられています。そして、1994年10月12日にナッシュがノーベル賞を受賞した裏話として、1994年が「ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンの偉大な著作の50周年記念」としてゲーム理論が対象となっていたこと、ナッシュへの受賞が検討されると、反対者からは「ナッシュは出席できるのですか?」とナッシュの病気が取りざたされたこと等が紹介されています。著者は、ゲーム理論によるナッシュのノーベル経済学賞の受賞を、「ノーベル委員会が、経済学で10年以上も前からひたひたと進行していた一大変革を、遅まきながら認めた証である」と述べ、「ゲーム理論を経済学へ適用する際に、最も多く利用されているのがナッシュ均衡という考え方であるがゆえに『ナッシュは新たな出発点』となった」と解説しています。
 本書は、人生の絶頂から突き落とされた若き天才が、数十年をかけてゆっくりと快復し、栄光を取り戻すまでの苦しい道のりを描いた稀有な一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書に収められているナッシュのエピソードは、とっぴなものばかりですが、その中でも極めつけは、「アインシュタインに面会を求め、こともあろうにこの大科学者を前に、量子論を修正する自分の意見の概要を述べた」というものです。このときにアインシュタインは、「きみはまだ若い。もう少し、物理学の勉強をしたほうがいいね」と優しくたしなめていますが、本書では、数十年後にドイツの物理学者が、発表していることを紹介しています。


■ どんな人にオススメ?

・絶望のそこから這い上がる姿を見たい人。


■ 関連しそうな本

 ウィリアム パウンドストーン 『囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論』 2006年09月11日
 ノーマン マクレイ 『フォン・ノイマンの生涯』
 ポール ホフマン (著), 平石 律子 (翻訳) 『放浪の天才数学者エルデシュ』 2005年11月06日
 E.T. ベル (著), 田中 勇 (翻訳), 銀林 浩 (翻訳) 『数学をつくった人びと』
 アビナッシュ ディキシット (著), バリー ネイルバフ (著), 菅野 隆 (翻訳), 嶋津 祐一 (翻訳) 『戦略的思考とは何か―エール大学式「ゲーム理論」の発想法』 2005年01月31日
 梶井 厚志 『戦略的思考の技術―ゲーム理論を実践する』 2005年02月20日


■ 百夜百マンガ

君の手がささやいている【君の手がささやいている 】

 テレビドラマ化されて話題になった作品。少女漫画系は比較的実写のドラマにしやすいものが多いのかもしれません。

投稿者 tozaki : 2006年11月20日 21:00

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