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2007年01月18日

GHQ日本占領史 (12) 公務員制度の改革

■ 書籍情報

GHQ日本占領史 (12) 公務員制度の改革   【GHQ日本占領史 (12) 公務員制度の改革】

  天川 晃
  価格: ¥6090 (税込)
  日本図書センター(1996/12)

 本書は、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が編纂した歴史論文「History of the Non-military Activities of the Occupation of Japan」をもとに翻訳・編集された『GHQ日本占領史』の1冊であり、GHQ民生局公務員課による「公務員制度改革」の「具体的な活動報告」です。
 「解説」では、この「改革」が、「占領改革全体の流れの中では『遅れた改革』であり、『間接統治』とのジレンマの中から萌芽したことにその限界を示している」ことを指摘しています。この「改革」は、1945年11月に開始されたミルトン・J・エスマン中尉のヒアリングに端を発し、1946年4月のSCAPIN(占領軍総司令部の日本政府への命令)ドラフトにおいて、「政府に管理制度研究のための委員会を設置し、90日以内に近代的民主的な改革案を提出させる」ことが盛り込まれ、そのガイドラインとして、
(1)中央人事行政機関の設置
(2)公開競争試験の実施
(3)職階制の確立
(4)研修制度の確立
等が示され、「自主的な改革の意思のないことからGHQによる圧力で、改革の実施を迫ろうとしていた」ことが述べられています。
 また、フーバー顧問団に関しては、米本国政府から派遣された数多くのミッションの中で、「極めて特異なケース」であったとされ、「レポートで具体的な法律案(国家公務員法)を提示、その法制化を迫ったこと」や、「GHQ民生局に新たにこれを所管する公務員課の設置を勧告し、自ら課長に就任してレポートの徹底的な推進を図った」ことが挙げられています。そして、1947年6月に提出されたフーバー勧告については、
(1)法律と同一の効力を有する命令制定権や独立予算等を有する強力な中央人事行政機関の設置
(2)職階制と職責に応じた給与原則の確立
(3)政治的行為の制限
(4)争議行為の禁止
等を骨子とするものであり、日本側にとっては、「暗闇から牛を引き出したようなもの」である、「国家公務員特別色の筆頭に天皇を掲げていた」ことが含まれていたことが述べられています。GHQ民生局の同僚からのフーバーに対する評価は厳しく、コーエン労働課長は、「患者の病名に関係なく、立った1つの治療法しか用意せずに病床にやってきた医者のようなもの」とみなし、「連中は北極へいったとしても、エスキモーやアザラシやシロクマのために同じ計画を作るのではないか」と酷評していることが紹介されています。著者は、フーバーが、「法律の専門知識に欠け、『役人や議員の助言に耳を貸さず』、マッカーサーの支持だけを唯一の頼りに、彼の理念の具体化に邁進したことが、逆に講話後に、人事院の改組・廃止論を浮上させることにも」なったことを指摘しています。
 第1章「降伏前の状況」では、1938年の時点での政府職員の在籍者数は、「陸海軍両省を除く各省および専売事業の職員の総計」が85万8543人のうち、高等官(2.2%)と判任官(17.3%)を除くおよそ80%がの政府職員が、「管理の地位も身分の保障も与えられてはいなかった」ことが述べられています。また、内務省に属する約1万2000人の判任官のうち、1万600人以上が府県ないし地方行政に従事していたことが述べられています。給与政策に関しては、「管理の地位を比べる標準的な俸給表は定められて」おらず、「給与政策は、国会の立法よりも勅令が左右し」、「当時の基本給は相対的に低かったが、諸手当を合算すると、産業界の給与に匹敵し、ことによると実質的にはこれよりも良好なものであった」ことが解説されています。また、休職の規程は、「一時的には反抗的な官僚、過度に野心的な、あるいは評判のよすぎる官僚を解任させるために活用された」ことが述べられています。
 第2章「占領初期の活動」では、「日本には軍政を敷かずに既存の政府機構を温存させ、これを最高司令官の指令のもとに従属させ、予定した変革および改革の遂行に当たらせる」という政策が、「日本軍国主義の公然かつ明白な一部分ではなかった官僚制に対して、軍国主義者や財閥とは異なったアプローチ」を必要とさせ、「好戦的な超国家主義を理由に追放された者を除き、官僚は占領管理の下でさえその勢力を保持し」、この日本の政府機構の利用が、「既存の組織なくしては不可能であり、この決定は効果的な占領行政を保障した一方で、官僚自身を介しての官僚制内部の改革を達成するという長期的課題」を課すものであったことが解説されています。そして、「降伏前の軍国主義者や財閥の利害と協力すること」の危険性に気づいていた官僚は、「占領が公式に開始される数週間前」には、人事記録を破棄し、高級官吏の大規模な移動を行うことで、「侵略的な帝国主義が極めて顕著な部分を行政機関から切り離」し、「既存の政府機構を利用するという決定」によって、「占領軍に対する官僚の役務の提供」が容認されたことが解説されています。
 1946年4月1日の勅令による改革では、
(1)従前の管理の職階制を廃止し、これにかえて3階級とすることで、官等の叙級体系を簡素化する。
(2)複雑な俸給、手当表の簡素化。
(3)技官の任用と昇進に関する統一的な規則および手続きの制定。
(4)女性の高級官吏への任用に対する非合法的な禁止をほぼ完全にもたらしてきた慣行を解くこと。
(5)法理論重視を軽減するよう試験問題を改め、文官試験委員がこれを統括すること。
の5点が規定され、これらの勅令は、「革命的ないしは根本的な変革をもたらすものではない」ものの、「伝統的な慣行を壊す第1歩のものであり、より抜本的な改革へ向けてのさきがけとして役立つもの」となると主張されたことが解説されています。
 第3章「国家公務員法の制定」では、「憲法の規定を補完する法律の制定」が、「公務員の新しい身分を明らかにし、いくつかの官僚制の拠点にとどめの一撃を加えた」として、憲法と同日に施行された地方自治法によって、「すでに縮小された内務省から地方自治体に多くの権限および管理と職員を移管」させ、「内務省は従前の機能の骨組みのみを残すばかりとなった」ことが解説されています。
 また、賃上げ要求の運動が、「あらゆる組合によって絶え間なく行われ」たため、「行政活動が絶えず分断され、しかも公務員法改正の合意に至らないという政府と国会の怠慢な結果」が、1948年7月22日のマッカーサー書簡の、「国家公務員法の全面的改正を直ちに行うよう勧告」へと結びついたことが解説されています。
 さらに、「地方自治体の職員を対象とした法律は未制定であった」ものの、「教員を含むそれまでの中央政府に雇用されていた多数の職員」が、「地方自治法によって自治体に身分が移管」され、1950年12月の地方公務員法の制定までは、「労働組合法および労働関係調整法の規定が準用」され、この間は、「7月31日のポツダム政令によって自治体職員の組織活動や労働組合の権利は制限され、そのうえ職員の利益を保護する人事機関による保障給付の適用は否認されてきた」と述べられています。
 第4章「人事院」では、人事院規則の中で、「職員の政治的活動に関する規則」がもっとも関心を呼び、国家公務員法が当初、「職員が政党または政治目的のために利益を求め、もしくは受領することを禁止したが、あいまいな表現でその定義づけを容易なものとはさせなかった」ため、1948年の同法改正において、「『政治活動』を禁止し、禁止されるべき個別の政治活動の種類については人事院が責任を持ってその規則で定めることとなった」ことが解説されています。1949年9月19日付けで定められた人事院規則14-7(政治的行為)では、禁止されるべき活動を、「全体主義や軍国主義の復活を意図するように、憲法で規定された民主政治の基本原理を浸食するあらゆる活動である」と規定そいたことが解説されています。そして、人事院がこの規則の基本的原則を、
(1)公務員はその影響力を選挙に利用すべきではないこと。
(2)政治的争点に対して中立を努めることが報復を回避し、公務員の立場を有利なものとすること。
の2点であるとしていることが述べられています。
 第5章「人事行政」では、制定当初の国家公務員法において、職階制の採用が規定されたものの、「国会にその承認を得るために提出する職務分類表の策定については、新たに発足する人事委員会にこれを委ねるとして、詳細な規定については次の法制化に委ねた」ため、「同法の大まかな規程を完全に実施すること」には至らなかったことが述べられています。
 また、国家公務員法が、「一般職への最初の任用とその後の昇進については、人事院が定めた資格を有するすべての志願者を対象とした公開競争試験に基づくものでなければならないと規定」し、1949年1月には、「全国10箇所で、5、6等級の職員を人事院以外の行政機関の職に任用するために最初の試験を実施」したことについて、「行政職で4314名、技術・専門職で7987名」が、第1次の任用試験を志願し、「客観的な知能検査」と「多くの専門的、技術的な分野の筆記試験と一般行政の分野の筆記試験」、「口頭試問、身体検査、それに身上調査」からなる試験の結果、行政職の概算1200名の欠員に対して2578名が、専門・技術分野の1000名の欠員に対して2079名が採用候補者名簿に登録されたことが述べられています。
 さらに、制定当初の国会公務員法が、「局長および次長を除き現に官職にあるものは、資格試験に合格したものと見なす」と定められ、「適用除外者である局長、次長については、1951年7月1日以前まで、暫定的に任命されたものと見なし、人事委員会は1950年7月1日までに官職の配置を定め、必要な『試験ないしは評価』を実施するものとされていたこと」、そして、1948年の国家公務員法の改正によって、「事務次官を含む課長補佐以上のもので、人事院の指定する官職にあるもの」が、「1951年6月末日までの間、その職に臨時的に任命されたものと見なす」と定められ、同法が、「人事院は『いかなる官職に在任する職員に対しても、適宜試験を実施し、これを転退職させることができる』と規定」したことが述べられています。
 この規定に基づき、「事務次官を含む指定の職に職員を当てるための試験を実施すること、および当該の職に臨時に任命されたものが試験の成績に基づいて任命された場合には、この規定が執行する」ことが人事院から発表され、人事院規則が、「試験による任用候補者がいない場合か、候補者以上に欠員があり、志願者の資格について人事院の審査と同意がなされた場合にのみ、無試験による在職者の任命を認め」、1950年1月に試験(いわゆる「S-1試験」)が実施されることになったことが述べられています。この人事院規則の公布は、「競争試験を経ることなく臨時的任命を恒常的任命に切り替えるための方途が見出されるものと見なしていた官僚にショックを与え」、8076名の職員が、合計1万2200通の願書を提出し、1月15日に14の都市で実施された試験は、「3時間を予定したが、受験者には希望するだけの時間延長が認められた」ため、「大半の受験者は2倍の6時間をかけ」、「中には15時間もがんばった者もいた」こと、その翌週には45の専門・技術分野の2621の職を対象とした制限時間付きの試験が実施され、8319名の受験者の任用資格が認定されたことが述べられています。
 この試験の結果、およそ25%の高級官吏が、「試験の成績がふるわず、そのために職を失うこと」となり、「在職者のうち、引き続き従前の職に任命された」者は、
・1等級:36の職のうち29
・2等級:139の職のうち108
・3等級:318の職のうち239
・4等級:1955の職のうち1473
・合計:2448の職のうち1473の職
であり、「最終的には、高級官吏のおよそ30%が職を失うという結果」となったことが述べられています。
 また、人員整理に関しては、「占領の当初から、政府職員が過剰であり、人員削減によって能率が一層増進されること」が自明であったため、「あらゆる政党と歴代内閣」が人員整理と予算削減という「殊勝な公約」を掲げたが、「実際には公約はほとんど実現されること」はなく、「むしろ官吏の数は著しく膨張した」ことや、鉄道労働者の中から始まった人員削減が、都電の職員が加盟する組合によるストが実施され、「国鉄労働組合は、大量解雇は違法である」として、「左派が優勢な国労の中央委員会」による実力阻止の扇動、そして、下山定則国鉄総裁の死を含む多数の死者を生じさせることとなった暴力の爆発を招いた「過激な指導」が「鉄道労働者の大半を遠ざけるものとなった」ことが述べられています。
 給与に関しては、「政府職員の本給の引き上げが難しいという状況に対処するため」、「ありとあらゆる目的の身代わり」として、「扶養手当の増額、臨時の地域手当、特殊勤務手当」など、「複雑な諸手当の制度が工夫」され、「列車の乗務員にはトンネル通過の運転手当が支給され、税務署員には住民にののしられることに対する不快手当が支給」されたことが紹介されています。その後、人事院によって、給与ベースの引き上げが勧告されますが、「それでも政府職員の給与は民間企業の従業員に比べると、しばらくの間はこれよりも低いものにとどまるであろうと予想」されたことや、人事院が、「政府職員の給与問題の全般的な改善」について、「著しい貢献」をなし、「生計費、消費者物価、それに民間企業の賃金調査」が「科学的に編纂」され、「信頼に足る指数」となり、給与表を10から4に削減、全職員について給与上の実際の地位を決定したことが、「それまでに全体の給与表がなかったことや数百にも及ぶ特別手当が十分に知られてきたものではなかったことを考慮すれば、価値あるもの」であると述べられています。
 労使関係については、「もっとも経済的に困窮な時代に、唐突に組合を承認したこと」が、「問題解決の手段としての"権利"を強調させることとなった」と述べ、「急進的な指導とその要求」が、「国民に対する何らかの責任感の成長」を妨げたと述べられています。
 また、戦前には、「夏期の勤務時間」が、「いわゆる半ドンが慣例となっていた」ことについて、1947年と48年にはこの慣例の再開という要求が出され、世論を背景とした政府がこれを拒絶すると、「紛争や職場放棄が発生」したことが述べられ、人事院による、「すべての政府職員の週48時間労働」の確立の勧告と、1949年1月からの実施に対し、抗議の嵐が発生したものの、職員組合の政治力・団体交渉力が減少し、「しぶしぶ従うこととなった」ことが述べられています。なお、半ドン問題は、1949年7月に「夏の間は週44時間労働」に縮減され、同年10月からは通年化されたことが述べられています。
 そして、「日本の官僚制には非民主的な活動という意味が含まれているにもかかわらず、政府を適切に機能させるためには官僚機構の整備は欠かせないものであり、真の課題は新しいタイプの管理を養成することであると理解された」とし、老練な官僚達の影響力の保持と改革への抵抗は、「改革を理解しそこなった結果」であったと総括されています。
 本書は、現在議論されている公務員制度改革を理解する上で、そのベースとして理解しておく必要がある一冊です。


■ 個人的な視点から

 今年の1月から、日経の「ゼミナール」で、「公務員制度を変える」と題した連載が掲載されています。これは30回まで続くそうですが、公務員制度改革を議論するうえでは、現在の制度が混乱の中からスタートした占領期について理解する必要があると考えられます。
 例えば、長い間当たり前だと思っていた土曜日の「半ドン」が、戦前の「夏期半ドン」の制度を引きずった労使交渉の結果であることや、いったんは土曜もフルタイムとなったことは、本書を読むまで知りませんでした(なお、半ドンの勤務時間は、幕末の藩庁の勤務時間、すなわち、「武士の勤務時間」に類似しており、明治19年頃までには9時から5~6時の勤務時間が一般化しますが、夏期半ドン制度は継続し、大正11年の閣令で定められた官公庁の勤務時間の規定でも「7月21日から8月31日までは、午前8時から正午まで」とされています)。
 また、問題になっている特殊勤務手当のルーツが、人事院勧告の制度が整備される以前の給与決定システムの不備に対する応急策にルーツを持つことなども、本書から知ることができます。


■ どんな人にオススメ?

・今の公務員制度のルーツを知りたい人。


■ 関連しそうな本

 川手 摂 『戦後日本の公務員制度史 「キャリア」システムの成立と展開』 2005年12月29日
 早川 征一郎 『国家公務員の昇進・キャリア形成』 2006年04月20日
 稲継 裕昭 『人事・給与と地方自治』 2005年12月09日
 稲継 裕昭 『日本の官僚人事システム』 2005年02月10日
 稲継 裕昭 『公務員給与序説―給与体系の歴史的変遷』
 山中 俊之 『公務員人事の研究―非効率部門脱却の処方箋』 2006年06月08日


■ 百夜百マンガ

テニスボーイ【テニスボーイ 】

 「デカラケ」ということばとその解説を初めて知ったのはこの作品だったのではないかと思います。ジャンプ→ヤングジャンプ→スーパージャンプと読者とともに着実に成長(老化?)している漫画家です。

投稿者 tozaki : 2007年01月18日 07:00

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