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2007年01月19日
GHQ日本占領史 (13)地方自治改革
■ 書籍情報
竹前 栄治, 中村 隆英, 天川 晃
価格: ¥6090 (税込)
日本図書センター(2000/02)
本書は、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が編纂した歴史論文「History of the Non-military Activities of the Occupation of Japan」をもとに翻訳・編集された『GHQ日本占領史』の1冊であり、明治以前の地方行政から、明治期における府県制の成立、戦時下において地方自治組織が戦争遂行のための機関に変えられていったこと、古代から末端における統治機構として機能してきた地域団体、地方自治の確立に向けた戦後の改革について解説しているものです。
第1章「明治以前の地方行政」では、徳川時代において、「40人の有給の代理人」である「代官」と、「少数の地区の補佐役」である「郡代」が江戸から藩に遣わされ、
(1)租税の査定・徴収・送付
(2)公共事業の監督・林野の管理・新田畑の開発と被災地域の復旧
(3)人口調査の実施
(4)宗教の取り締まり
(5)濫費・非行の抑制
の任務に当たり、「大名や地方の支配者である藩主とは異なり、世襲の権利を通じてその役職を得ているのではなく、将軍が能率向上を目的に選んだもの」であったことが解説されています。
また、地方の小さな区域においては、家長たちによって選任(事実上の世襲)された「名主」については、
(1)上部の機関と村との連絡
(2)証書・抵当証書その他の公文書の捺印・登記
(3)租税の査定・徴収、大名への金の発想、大名を通じての代官・郡代への報告書の発送
(4)正確な記録・報告書の保管
(5)救済金・貸付金の配分
(6)公共事業の管理
(7)濫費や非行の抑制や立派な人物の事例の設定による道徳の指導
(8)警察権の行使および私的調停による訴訟の抑制
などに任につき、その引き換えに、「村の米の収穫の0.5%を超えない量の給付」を受けたことが述べられています。
そして、人民は方への絶対的服従を教えられ、規則・勅令・布告・口頭の勧告が「絶えず反復」されたため、「行政と法の執行は日本全国を通じて似たものとなり、連帯感が強められた」が、「明治維新後の内務省の成立までは手続の完全な統一性はでき」ず、「農民が自分の地域社会の管理に何らかの形で参加することを許すために何かがなされるということはなったくなかった」と述べられています。
第2章「府県制の成立」では、1873年11月10日に設立された内務省に、「すべての地方自治の事項についての完璧な監督権が集中」され、
(1)善行の奨励
(2)地方自治体の役場の設置・改廃と一定の吏員の任免
(3)地方自治体の支出、事務所数、地方課税の増減
(4)行政区画の境界の決定
(5)町村の再編と名称変更
(6)土地の測量
(7)林野の規制
(8)金銭の貸与および寄付
(9)道路・堤防・橋梁の建設
(10)農業学校・農業団体の統制
(11)歴史的に重要な記録・遺跡・建築物の保存
(12)救貧院や病院の設置
(13)公衆衛生機関の設置
(14)人民に対して直接命令の発令
を所掌した上、設置後2ヶ月以内には司法省から警保寮が移管され、「国と地方の両方のあらゆる警察機能の統制を通じてすべての日本人の生活に対する支配権が与えられた」ことが解説されています。
また、府県の執政長官である知事は「内務大臣の推挙に基づき天皇が任命」され、「中央政府ないし地方自治体に留保されていない少数の地方的事項について権限を行使」し、「内務大臣に責任を負」い、「部下の吏員を監督し、選挙・教育・救貧・警察・公衆衛生・徴兵に関する事項を管理」したことが述べられています。市の首長である市長については、「市会が3名の候補者を指名し、それが内務大臣に伝えられ、天皇に推薦」され、「天皇は大臣を通じて3名をうちの誰かを指名することも、あるいは全員を拒否し、もう一度候補者の推挙を求めること」もでき、「間接的に選任」されたことが解説されています。
第3章「戦時下の展開」では、明治初期に確立し、1940年代まで大幅な改正もなく運営された地方自治制度が、「超国家主義哲学の影響」の下で、「保持していたわずかな独立性」も「軍国主義者や超国家主義者が望ましいと考えた『効率的政府』(streamlined government)―地方問題に対する集権的統制の増大を意味する―に対立するもの」と考えられ、公式または非公式の規制によって中央統制が強化されたことが解説されています。
東京市と東京府は廃止され、「内務大臣の直接的監督」に服する「都制」となり、その理由として、
(1)東京は国の人口の少なくとも10%を擁し、政治的・財政的・文化的に非常に重要となったため、東京の問題は地方的ではなく国家的な問題であること。
(2)市と府の2重の政府は能率的行政を妨げ、管轄権をめぐる紛争を生むこと。
の2点が挙げられてことが述べられています。
また、府県会は多くの財政上権限を喪失し、「比較的重要でない問題に関して、要求された予算を減額ないし削除することができた」だけであり、財務監査権も内務省が掌握したことが述べられています。
さらに、自由選挙は存在しなくなり、「不必要な競争や選挙運動」の排除のために、「候補者は空席の議席数に限られ」、市会の管轄権は、「予算、料金、租税の議決」に限定され、町村会は、「校長、篤農家、退職警官」などの「学識経験者」から選ばれた「参与」の意見を聞くことが求められたことが解説されています。
1943年6月28日には、中央集権化はさらに進められ、
(1)地方行政協議会:全国を9ブロックに分け、知事が会長となり、財務、税関、専売、営林、鉱山、燃料、逓信、鉄道、技術、労政、海運に関する長で構成された。
(2)地方参事官臨時設置要綱の布告:徳川時代の代官の機能を復活させるために内務大臣によって、準公務員9人が任命された。
(3)戦時行政職特例:地方行政協議会の所在地である府県の知事が、地方行政を調整し服従を要求することを認めた。
の3点によって強化されたことが解説されています。
第4章「地域団体」では、徳川時代に「隣保団体に割り当てられた多くの義務」が、「村・町・市・郡あるいは府県のようなより大きな機能単位に移された」が、「隣保団体の概念は生き残」り、1884の町村制の改正時の提案には「五人組を正式に存続させるための規定」が含まれていたことが述べられています。
地域団体が正式の法制化されるのは、1937年の勅令で創設された地方制度研究所が立案し、棚上げになっていた法案を、当時の内務大臣安井英二が復活させ、「大政翼賛会が隣組を『取り込む』ことを防ぎ、それを『自治的互助団体』として維持するため」、1940年9月11日に全府県知事に発令され、「市町村を可能なかぎり広域的利益に対応して補助的付属的組織としての部落会や町内会にふさわしい地域に区分けするように命じた」ことが述べられています。しかし、「部落会と町内会の立法化が翼賛会の政策にとり不可欠なことは、明白だった」ため、その計画は大政翼賛会のものとほとんど同様のものであり、その目的は、
(1)町村の活動を協同隣保の精神に基づいて再編すること。
(2)町村の活動を大政翼賛会の原則に従って規制すること。
(3)国民道徳と協同を促進すること。
(4)国策を浸透を図り、国の行政を改善すること。
(5)経済を統制し、国民生活を安定させること。
の5点であり、「隣組を町内会・部落界の下部の執行団体として全国に設置し、全成員が出席する常会を月1回開催すること」が求められたことが述べられ、これによって、「総計19万9700の町内会および部落会と、112万の隣組の機関が創出された」とされています。
その常会は、「調和的関係を推進するために計画され、出席は強制的」であり、その目的は、「国策の従順な執行機関」として、「全人民間の完全な共同を保つこと」であり、そのために効果的とされた活動は、
(1)善行者をほめ、不平を訴えず、悪口をいわないこと。
(2)意見を交換し、1人だけから聞かないこと。
(3)町をより住みよい場所にすること。
の3点であり、(2)の「最も効果的な宣伝媒体」が組長が管理する「回覧板」であり、「平易な言葉で大きな字で書かれ、訓戒やしばしば小さな組に関心のあるニュース事項とともに、あらゆる重要な公的な必要事項が含まれていた」ことが述べられています。
第5章「最初の諸改革」では、1945年9月28日に、戦時中の地方行政協議会が廃止され地方行政事務局に代え、「地方自治体改革に関する最初のプログラムの推進」が、第90回国会に提出するために起草された4法案となったことを述べ、1946年9月20日に発効した新法によって、
(1)内務省の権限縮小による地方自治の増大。
(2)知事・市長・町村長・区長を含む首長の普通選挙。
(3)首長からの議会の独立を保証することによる議会権限の拡大。
(4)地方公務員の給与。
(5)イニシアチブ〔住民発案〕とリコールの導入。
(6)選挙の実施権を現職公務員から選挙管理委員会に移管することによる公明な選挙の保障。
(7)議会ないし執行機関の要求に基づく、あるいは調査委員会自身の主体性による、調査委員会を通じての地方自治体の公正な監査・監察。
などが定められてことが述べられています。
第6章「公職追放」では、1946年10月22日に連合国最高司令官に報告され、一般に発表された「地方自治体公職者に対してパージを適用するための計画」が、「すべての公選および任命の自治体公職者を審査の対象とした」こと、かつてそれらの職位にあった者も含まれる可能性があったこと、「中央と地方を問わず、公職・公務に共通に適用された」ことなどが述べられています。
第7章「地域団体」では、1947年1月22日に、内務省が「地域団体制度を廃止し、政府機能をそれにふさわしい機関に戻し、非政府的活動を個人や私的任意集団の活動に委ねた」ことが述べられています。その後、「政府権力を私的ないし準政府的機関に委譲することを特に禁じた地方自治法の制定」にともなって、「隣組の機能を地方自治体機関に移管すること」が明らかにされ、法の外に置かれた「隣組とその連合組織である町内会と部落会」が、「かつての首長の式の下で見せかけの任意の組織として復活されつつある」との情報を得た政府は、
(1)かつての部落会の長・副会長の地位にあった者の市町村の職からの排除
(2)政府公職者が地域組織・類似団体に指令を発することの禁止
(3)町内会、部落会、隣組の廃止以降に結成された隣組類似組織の解散
の措置をとったことが述べられています。
第8章「地方自治法」では、1946年10月5日に内務省が設立した、委員54名、臨時委員30名、幹事34名からなる「地方制度調査会」が、「東京・府県、その他の地方団体の政府について検討」と勧告を行い、これに基づいた包括的な地方自治法が、1947年4月17日に公布され、憲法と同時に発効したことが述べられています。同法は、1946年9月20日の、都制・府県制・市制・町村制に関する4つの臨時立法の中から「望ましいとされたあらゆる点を編入」し、「地方公共団体の地方議会と地方執行機関の両方に広範な新しい権限を割り当て」、
(1)人口50万人以上の市に対する府県と同じ権利を持つ自治の保障
(2)内務大臣が府県知事を解任しあるいは彼の行為を取り消す権利の廃止等
(3)知事の中央政府からの独立(一定の法律の施行に関してその機関であるとされた)
(4)議会閉会中、地区の立法問題を管理していた参事会の廃止とそれらの権力の議会への復帰
(5)地震・洪水などの自然災害の場合を除いた労働や物資の強制的挑発の廃止。
のように規定することで、「自らの問題を管理できるように十分な権限を与えた」ことが述べられています。
また、地方立法機関として誓いは大きな権限が与えられ、
・議案を提出・可決し、執行機関の拒否権を無効にする。
・執行機関の措置を追認ないし無効にする。
・不信任投票によって首長を解職する。
等ができ、「自らの事項を規制し、議員の中から議長・副議長を選出し、議員に一定の資格を決定し、非行のかどで議員を懲罰、もしくは訴追する権限」を持ったことが述べられています。
また、「県内におけるすべて国の事務を調整するため、内務大臣の助言に基づき天皇によって任命される国の管理」であった府県知事は、「府県の行政事務を調整する公選の地方公職者」となり、
(1)特に他の機関に割り当てられているものを除く府県の諸活動を管理すること。
(2)副知事その他の行政部人事を議会の同意を得て任命すること、および、これらの公職者ならびに法律または政令で明示的に規定されていないその他の職員に対する懲戒。
(3)徴税を実施し手数料・使用料・分担金の徴収を監督すること、これらは議会の会計監査を受けなければならない。
(4)議会を召集すること。ただし議会もまた自らの意思で開会できることになった。
(5)予算を立案し、議会の上程すること。
(6)議会の審議を求める教書および議案を提出する。ただしこれは議員が知事の同意を得、あるいは得ずに、議案を提出する権利を排除するものではない。
(7)行政職員の法的権能を超えていると知事が考えた場合、その職員の行為を一時停止し、その停止について議会の承認を求めること。
(8)議会の処置に対する拒否権。ただし議会の3分の2の投票による破棄に服する。
(9)議会の解散。この場合新議員を選出するため即時の選挙が要求される。
(10)県財産の管理。ただし少なくとも年3回、財務報告を公表しなければならない。
等の権能を持つことが定められたことが述べられています。また、知事が、「以前県内の国政事務に関連する国会が制定した法令や省令の執行に対して責任を負」い、「地方自治を守るために法律によってその範囲が限定され十分に規制されていたが」、この権限内において、「中央政府の機関として存続し続けた」ことが述べられています。
第9章「新しい公職の世界」では、1947年5月3日の新憲法と地方自治法の施行に備えて、4月5日に、知事46、市長206、町村長1万210、東京区長22の首長選挙が行われ、「国民が統制する公職者を選出する最初の機会」が国民に提供されたことが述べられ、総計207の候補者が知事の席を争ったため、「8県では競争が非常に激しく、総投票の37.5%の必要最低票数を獲得した候補者が1人もなく、決戦〔投票〕が必要となった」ことが述べられています。また、3374の市町村では、「1人の立候補者しかなく、そのため選挙の必要がなかった」ことが紹介されています。
1947年~48年の間には、首長と議会の対立が162件のリコール活動を招き、「茨城のある村長が直面した困難」はあまりにも大きいので、1949年1月に彼が辞職した後、2月15日と4月5日に予定された2つの選挙は、「いずれも立候補者がなく、取り消しとなった」ことや、長野県の補欠選挙では、「辞職ないしリコールされた市長の後の立候補者が1人しかいなかったケースが3分の1もあった」ことが紹介されています。また、90市町村で議員が総辞職し、その理由は、
・小学校の設立に関する困難とその問題に関する対立――37
・執政長官との対立――10
・行政の改革――9
・その他――34
であり、「1948年4月1日と1949年7月1日の間に20市長と1356町村長が、ほとんどの場合、米の供出をめぐる問題あるいは学校の建設に関連した財政問題を理由に辞職」したことが紹介されています。
さらに、国の法律によって設けられた特別機関に関しては、1947年に総理庁官房に自治課が設置されたが、「地方の監督権限の多く」が依然内務省に留保され、1947年末の同省の廃止後は、地方財政問題に対する統制権が、「国務大臣1、国会代表1、地方代表3(知事1、市長1、町村長1)」からなる「地方財政委員会」に暫定的に移され、同委員会が、「国益と両立する形で地方財政自治の包括的な計画を立案しなければ」ならず、その事項は、
(1)租税の賦課および徴収
(2)借入および公債の発効
(3)予算・決算・監査手続
(4)地方行政遂行のために必要な国家資金の公平な配分
(5)地方団体の中央政府に対する財政報告
の5点であったことが述べられています。
1949年6月1日には、「国務大臣を長とする地方自治長が総理府に設置され」、総理庁自治課と地方財政委員会が廃止され、地方自治の原理は、「地方自治庁それ自体の構成に現れていた」として、構成員12人中半分は、「知事・市長・町村長および都道府県・市・町村の議会の6中央団体によって、それぞれ指名された」6人であり、残る6名は、国会議員2と首相によって選任された「学識経験」者4名からあっていたことが述べられています。
1950年5月31日には、「首相によって任命され国会の承認を得た5人の委員からなる地方財政委員会が設置」され、
(1)平衡交付金の総額とその配分について計算する
(2)税収の新税源を認可する
(3)地方財政に関して調査し助言する
ものとされ、「同委員会は地方財政のいっそうの独立性を求める勧告を公表することで、その意図が実施に移されるべきことをすみやかに明らかにした」と述べられています。
第10章「主要な問題」では、「主として財政的義務の問題で地方自治体が直面した最も困った問題」が、警察と教育に関するものであり、「かつては内務省の責任であった治安維持が、新しい警察制度の下で国と地方の行政が共同で担うべきもの」となり、農村部の国家地方警察は、「従来通り国の監督組織の下に置かれ、中央政府によって経費が支出」されたが、「人口5000人以上の自治体は、それぞれ地方の歳入でまかなわれる公安委員会と地方警察組織〔自治体警察〕を設置することが求められ」、1950年の地方税法の施行以前には、深刻な財政問題に直面し、「いくつかの村はこの責任を逃れるために自治体としての地位を放棄」し、その他、「2ないし3の村で1つの公安委員会と警察組織を作った」ことが紹介されています。また、小学校と中学校が無償の義務教育とされたため、「入学者数の増大と費用の増大をもたらし」、「かつては中央政府が地方の手数料に加味していた財政が、いまやすべて地方の責任となった」ことや、都道府県が高等学校の負担の多くを引き受け、「義務教育が要求された中学校の財政については市町村を援助することを義務づけ」られたことが解説されています。新制中学校のための施設を準備せよという勧告と、戦時中に放置・破壊された施設の修復・建替えの費用とが地方財政の負担に大きくのしかかり、「新しい施設をどこに設置するかが首長・議会・大衆の間で論争の的となり、また共同事業となった村々の間の摩擦の原因となった」ことが述べられています。中央政府による補助金は、「すべての補助金を単一の平衡交付金に代えるという圧力」によって危うくなり、地方財政委員会は、「特別補助金を地方自治を侵害するものとみなした」ことが解説されています。
また、1949年9月に発行されたアメリカの専門家集団による税制使節団の報告書が、「一般的な租税改革と向う2年間の会計年度の特定的徴税に関する詳細な勧告」を行い、
・地方歳入総額の実質的増収とそれを獲得するための明確な財源の配分
・増収分の大部分が府県よりはむしろ市町村に配されること
の2点を勧告し、後者には、
(1)府県はすでに財政的に比較的安定していること。
(2)もし地方自治が真に強化されるべきだとすればより小さな単位こそ財政援助の第1順位に値するということ。
の2重の理由があったことが述べられています。そして、主要な地方歳入減として、
(1)住民(頭割りと所得との結合)税
(2)不動産取得税
(3)事業税
の3つが継続するよう勧告され、「それぞれの税源からの徴収金は、現行の徴税額を上回らなければならなかった」ため、「住民税は2倍に、不動産税は3倍にし、以後の収入はすべて市町村の収入とされるべきもの」とされ、府県の収入とされるべき事業税―営業所得税が、「税の目的に関して、付加価値に対する税、つまり、他の企業から購入した生産財に付加された増加価値に対する税に変更されるべきもの」とされたことが述べられています。さらに使節団は、「地方団体がほぼ正確な歳入見積の基礎の上に予算を立てることができるように、国民所得税の『割り当て』に基づく国庫からの平衡交付金を、公平な、あらかじめ決められた比率に基づいて、継続するよう勧告した」ことが述べられています。また、1950年8・9月に行われたシャウプ教授らによる7週間の再調査では、
(1)国税を大幅に減額すること。
(2)平衡交付金を大幅に増額し、それによって地方税率の引き上げを回避し、特別徴収、特に「任意の寄付」を止めること。
(3)事業税に代えて付加価値税を採用すること。
の3点が勧告され、このうち平衡交付金増額の勧告が、「地方財政委員会と大蔵省との間の論争」を引き起こしたことが述べられています。
また東京都については、「地理学上、東京は市町村であるとともに県であったが、法的には件に分類」され、東京が、「人事・債権物資の配分、公債の発行ならびに平衡交付金の分配に関する法的制約により、1つの自治体として不利な立場」に置かれ、第7回国会において、「東京を国の首都として再建し、その政治的・経済的・文化的機能を全面的に果たせるよう」、都知事と建設大臣、国会の両院と都議会から各1名を選出、首相が国会の同意を得た4名の「学識経験者」の9名からなる「首都建設委員会」が設置されたことが解説されています。
さらに、財政の効率化(Streamlining Government)に関しては、1949年6月1日に発効した「新省庁設置諸法による中央政府の再組織」に伴い、「各省庁の多くの支分部局が閉鎖」され、1949年夏の中央政府の再組織と人員削減計画によって、推定1万人が影響を受け、「府県の教育および福祉部局と農林・運輸・通産・国際貿易産業の広域〔管区〕部局が閉鎖」され、「人員の削減ないしその他の部局の閉鎖」に対して、「地方吏員の反対運動」が続いたことが述べられています。また、「府県の数の削減は地方自治体のコストを削減し、能率を向上させる最大の機会を提供したであろう」として、「国の財政援助への依存度が下がり、減税ができた。より少ないがより良い教育制度を設け、中央政府の支分部局を現実的に廃止でき、地方自治体行政の簡素化を達成することができたであろう」と述べ、「地方官僚の反対と、長期間にわたり確定されていた境界線を変更することの困難さ」が、こうした提案を妨げたことが述べられています。
本書は、現在の地方自治制度や国土地法との役割分担の見直しをおこなう上で、必読書といっていい一冊です。
■ 個人的な視点から
国と地方の役割分担を見直す中で、個別事業を見ていくと、「どうしてこんなデザインになってしまったのか」という問題に突き当たりますが、その問題を解く鍵の一つが、GHQ占領時の地方自治のデザインとそれに対する抵抗だということが本書を読むとわかります。
■ どんな人にオススメ?
・国と地方の役割分担を一から見直したい人。
■ 関連しそうな本
天川 晃 『GHQ日本占領史 (12) 公務員制度の改革』 2007年01月18日
天川 晃 『GHQ日本占領史 (38)地方自治体財政』
穂坂 邦夫 『市町村崩壊 破壊と再生のシナリオ』
穂坂 邦夫 『教育委員会廃止論』 2006年01月26日
平嶋 彰英, 植田 浩 『地方債』 2006年12月14日
白川 一郎 『自治体破産―再生の鍵は何か』 2006年10月30日
■ 百夜百マンガ
平日の朝っぱらのお茶の間にNew Orderの「Age of Consent」が流れるなんて世の中まちがっちょる!!!映画「マリー・アントワネット」のCMのことですが・・・。
投稿者 tozaki : 2007年01月19日 07:00
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【ベルサイユのばら 】