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2007年02月23日
裏社会の日本史
■ 書籍情報
フィリップ ポンス (著), 安永 愛 (翻訳)
価格: ¥4515 (税込)
筑摩書房(2006/03)
本書は、「犯罪や社会の底辺での営みの諸現象を歴史の厚みの中に位置づけ、社会の暗部の所掌を把握し、現代日本の周縁的空間の形成の経緯に光を当てること」を目的とした、「日本のやくざと貧苦の人々についての書」です。著者は、本書の横断的なテーマとして、「犯罪を生み出すものとしての貧困と差別。放浪への導きの道具としてのやくざ、周縁層を組織化する力、路上と下層民、黙契と共謀、個人的あるいは集団的な反抗、『拒絶の伝統』の表現、最後に、文学や社会的想像性の中で育まれる彷徨のテーマである」と述べています。
第1部「日陰の人々」では「周縁民たち」の歴史を述べ、「穢多と非人にのみ注目したのでは、差別の現象の広がりを見誤ってしまう。紀元がかなり漠としており、呪術的=宗教的次元の禁制に根ざしていた差別の現象は、16正規の尾張から、と市民のうちの『漂白層』を構成するあらゆるタイプの、貧しく、みすぼらしく、寄る辺なき人々の、社会身分の規制による制度的な隔離という形をとるようになった」ことを指摘しています。
第1章「中世における周縁民」では、中世から江戸末期にかけて、「えたと非人は二大差別カテゴリーであった」ことに関して、
(1)なぜ中性に、ある特定の集団に対する差別に見られるような、活動の機能による社会的序列化が起こったのか。
(2)その後、どのように差別が構造化され、えたや非人、その他、似たような運命を辿る身寄りのない人々に対する制度的排除のシステムへと変貌していったか。
の2点を挙げ、「明治以前の日本における周縁化=差別化には2つの起源がある」として、
(1)穢れに纏わる呪術的・宗教的水準での禁制に関わることであり、10世紀から、「穢れなさ」によって自らを他と画然と区別することにより権力を安定させようとする朝廷の価値体系の基盤となった。
(2)既存の秩序に背く活動をする社会の不安定層(貧者、放浪者、大道芸人)を統御しなければという、あらゆる権力に共通の懸念に由来するもの。
の2点を指摘しています。
また、「えた」共同体の起源に関して、その語源が、「朝廷の鷹や犬の餌を手配するのを職業とする人々を指す『餌取』に由来する」という説を紹介し、その語は江戸時代におけるほど差別的なものではなく、「中世のえたは、寺の掃除や神社の鳥居の建立といった、ある種の職業に関わるものだった」ことが述べられています。
さらに、「非人」の身分は中世においては「種々の理由から出身共同体から排除されたことに由来するもの」であったが、「いわゆるえたとはあまり区別」されず、身分が制度的に定められたのは江戸時代に入ってからであることが解説されています。
「第2章」江戸期下層のヒエラルキー」では、「奈良、京都といった日本の中枢地域に初めて出現した、賎民のメンバーである、ある種の人々に対する差別」が、「中央集権的な徳川幕府の下で強まり、制度化された」ことによって、「差別はやがて社会統制の道具となっていった」過程が解説されています。徳川幕府は社会の周縁に対し、「両面政策」を採り、「被差別共同体に対し、内部の運営に関しては前世紀から引き継がれてきた一定の自律性を残しつつ、えた、非人という二大勢力の周辺に位置する下層民の隷属の秩序を導入することで、多様な下層民の世界を支配しようとした」ことが述べられています。
著者は、「えた共同体は、一種のギルドのようなもの」として、「幕府は皮革の製造、販売、斃牛馬の解体、皮革のなめしから革製品の生産、販売に関わる活動に対し、独占権を与え」、「えた共同体の最も強力なリーダー」として、江戸に居住していた、「弾左衛門(世襲の敬称)と呼ばれた穢多(長吏)頭」が、「皮革業を行うための資格証を、納付金と引き換えに発行」していたと述べています。
この徳川時代の末期には、「ひとつの身分に固定されていない個人の割合」が江戸、大阪や京都で上昇し、「このような下層民」が、「都市へと追われた農民とともに、明治期の産業プロレタリアートを成すことになった」ことが解説されています。著者は、これを含めたさまざまな要因が、「明治の『大変革』の急速だった理由」であると述べ、江戸時代に新たに「土地の仕事から解放され、自らの労働力を自由にできる都市のプロレタリアート」が「階級」として誕生したと述べています。
第3章「国民国家の周縁で」では、1860年代の政治的・社会的混乱により、身分制度が衰退し、1866年に長州藩が「えたを奇兵隊に組織し」た際には、徳川慶喜は「関東地方のえた頭である弾左衛門」からの「身分引上(醜名除去)の請願書」を受け入れ、明治維新の志士たちが政権を握った後には、「弾左衛門は江戸と静岡を結ぶ長い街道の安全管理を請負い、報酬を得た」ことが述べられています。
また、1870~71年に行われた初の全国人口統計によれば、「えたの人口は28万311人、非人の人口は2万3480人」であったが、関山直太郎の推計では、「実際にはえた44万3000人、非人7万7358人と推定」され、「これによれば、えた・非人の人口は全人口(3千万人)の2パーセントにあたる」と述べられています。そして、「旧被差別民の多くは最貧層であった」が、「『新平民』を恵まれない人々と同一視するのは単純化しすぎである」として、「江戸時代と同様に、明治の(20世紀末にいたっても)旧被差別民は、支配権を他の弱き者たちにふるう富裕なエリートを擁していた」として、「旧被差別民のリーダーのうちには、事情に通じている分野(皮革業、精肉業)で再び企業経営者となるものもあり、相変わらず仕事を手配し、彼らの回りには、庇護を求めて、最も弱い立場の人びとが集まってきた」として、「末代の弾左衛門は今戸地区を去り、荒川に軍靴製造工場を建設し、弾左衛門の配下たちは、浅草に神輿製造会社を興し、成功を収めた」と述べられています。
著者は、「日本近代における被差別民の差別を、変化の観点から捉えなければならない」として、「1990年代の半ばにおいて、差別は、戦後直後から1970年代初頭にかけてと比べると潜在化し、より巧妙で陰険、かつ見えにくいものになっているように思われる」と述べています。そして、「広島と長崎で、被差別民は、肉体的な苦しみにおいては他の人々と同様であったが、他者との『違い』についての痛ましい経験をした」として、広島では「原爆投下後、差別は激しくなって」いき、「被差別部落民として、また被爆者として、二重の差別を受けた」ことや、長崎では、迫害されたキリシタンが流刑となり「賎民の監視下に置かれた」ことに関して、「賎民の務めた役割についての記憶は殆ど薄れておらず、被爆した被差別民に対する差別は強まるばかりであったようだ」と述べ、「被差別地区の旧住民に対して、原爆は全てを消し去ったが、差別は長い間、地を這うように残った」と語られています。一方で、その50年後に起きた阪神大震災直後の状況は、「広島や長崎とは異なっていた」として、「一部の新聞・雑誌で繰り広げられた風評に反し、被災者の救助や援助において、番町の住民に対する差別はなかった」ことが述べられ、「長田区の例は、日本近代における恵まれない人々の状況の、逆説的だが示唆的なケースである」として、「被差別民や在日韓国・朝鮮人には、背景に強力な組織」があり、「市当局の気まぐれの犠牲となった何の保護もない他の低所得者たちよりも、震災直後には、よりよい待遇を受けることができた」ことが解説されています。
第5章「大日本を支えた労働者たち」では、「日本において、鉱山での労働は常に厳しく、また下層のものであると考えられてきた」として、「生活条件は劣悪を極め、炭鉱の家族たちには寝具さえなかった」ことや、北海道において炭鉱労働者が、「炭鉱労働者は囚人が務め」、「タコ部屋」と呼ばれる小部屋に住み、「自分の足を貪って死んでいく囚われのタコさながら、生きて炭鉱を後にすることはできなかった」ことや刑に服してないものでも、「とりわけ朝鮮人は『タコ部屋』に住んでいた」と述べられ、「日本の炭鉱労働者の3分の1を朝鮮人が占めていた」ことや、西表島(沖縄)や花岡(秋田県)では、「台湾や福建省出身の中国人が多かった」ことが述べられています。そして、「親方の大半はやくざと結び」つき、「石炭生産量全国1位を誇る遠賀川流域の筑豊炭田」や「平底船(五平太船)で石炭が運ばれていた若松港の輸送会社」をその例として挙げ、「現在もなお、筑豊地域の公共工事を請負う企業や輸送業はやくざと結びついており、九州北部はやくざの拠点として知られている」と述べられています。
第6章「どんづまりの街」では、「万人に開かれていながら、誰にも期待などは寄せはせぬ」世界を、「ヤミの界隈たる、都市の只中にある流刑の地の多くは、差別や苦痛、市の歴史の痕跡を留めている」として、「こうした場所は、盛り場・遊郭・貧民街からなる三角形の極の一つとなっている」として、日本の都会の地勢の一つの特色をなしているこの「三位一体」が、「東京の山谷、大阪の釜ヶ崎(現あいりん地区)」に見られ、一方で「歴史の浅い横浜の寿町」では、不完全な形でしか表れていないと述べられています。
「往時の一大歓楽街であった旧浅草と、旧『不夜城』吉原に隣接する山谷」については、「壁なきゲットーとなる以前から、呪われた界隈であった」として、「浅草磔場」として知られていた小塚原刑場などについて解説し、「山谷周辺は苦痛と死が刻み込まれた場所である」と述べ、「この地は、ある意味で堕落者や敗者、零落者の場所であったし、その面影をなお残している」としています。
また、釜ヶ崎についても「山谷と似た歴史を持っている」として、「江戸末期に泥棒、賭博師、屑拾い、日雇労働者が集まっていた、今は無き名護町の最下層社会を継承するもの」であり、1885年に蔓延したコレラを契機に、当局は「名護町を無くし、住民を入船町に移住させた」ことが述べられています。
一方、「横浜の寿町は戦後になって発展した貧困の新ゲットーである」として、終戦後に占領軍の物資置き場となった地域が、朝鮮戦争時の労働市場の非常な活況によって発展し、占領軍が引上げ、「野毛や桜木町から寿町に移ってきていた日雇い労働者のために、平壌出身の在日朝鮮人が、寿町に初めてドヤを」作り、「日本で第三位の規模の寄場が誕生した」経緯が解説されています。著者は寿町の特徴として、「界隈を支配するのは在日韓国・朝鮮人であり」、彼らが「ハングルを掲げた数多くの居酒屋を所有している」こと、「1980年代末に来日した非合法の移民が多いこと」の2点を挙げています。
著者は、伝統的なスラムと日本の貧困のゲットーを区別する要素として、「日本の貧困ゲットーにおける社会関係は、家庭に依拠するものではない」ことを挙げ、「ドヤ街は男社会であり、多くは血縁を断ち切り、労働力以外売るものの無い、孤独な個人の集まる世界である」と述べています。
著者は、「1945年の敗戦直後は、廃墟と窮乏の中で、貧民と労働階級は再び混じり合った」が、「60年代の経済成長により、労働者と下層階級との一体性は断ち切られ、貧困と犯罪の世界に関する解釈は、それにより画されることになった」と述べています。
第2部「やくざ」では、無法者とテキヤの世界を取り上げています。著者は、「やくざ性」を、「その社会的出自がどのようなものであろうとも、周縁性の一つの象徴であり、社会の暗部で生きる一つの方法なのである」と述べ、やくざと貧民との違いを、「特殊な世界への所属要求を持ち、法に対して不服従である点」としながらも、「貧民からやくざへの移行がどこで生じているのかを見定めるのは困難であることが多い」理由として、やくざと貧民が、「往々にして社会の下層階級の生活スタイルを共有している」ことを挙げています。
第1章「江戸の犯罪」では、「徳川時代の最も意義深い現象」として、「当時の世界のどこにも見られなかったような、比類ない都市の発展」を挙げ、このような社会の進展によって、「路上を跋扈する盗賊団というのではなく、都市の浮動層を母体とする組織化された集団」という「新しいタイプの犯罪」が出現し、「貧窮と無拘束ゆえに潜在的な犯罪傾向をもち、悪党たちと同様に悲惨な生活条件のもとにある別の社会集団へと広がっていった」と述べています。そして、当局は、「都市社会の最下層の人々からなる浮動的で雑多な『乞食のような』一群に真正面から立ち向かうよりは、やくざ集団の主だったリーダーたちを間接的に支援し、最下層グループ内での支配力強化を援助することによって、最下層内部での管理方法を取ろうとした」ため、「幕府は社会の周縁的空間を統御するため、『やくざ』たちに超法規的警察の役割を与えた」ことが述べられています。
第2章「義賊』では、「やくざ(ことに博徒)」が、「任侠の規範により、不正を糾す者としてのイメージを培ってきた」ことを取り上げています。明治維新直後には、「都市のやくざの世界を形成する者たち」が、「政治的活動家に変貌し、伝統的な親分・子分関係のシステムを、自由主義的な価値の擁護運動のための動員力として利用した」ことが述べられ、「侠客の中には、1870年代から1880年代にかけて自由民権運動に参加するものもあり、歴史家が『民権侠客』と呼ぶもの」になっていったことが解説されています。
また、やくざが、19世紀末から非合法な伝統的活動に携わるとともに、「体制に仕え、生まれつつあった労働組合運動を抑圧したり、帝国主義的拡張に参加したりして、独特の『愛国主義的』暴力活動」を行い、「やくざの国家主義的で反動的な直接行動主義は、ことに危険で暴力的な反共産主義を培ってきた彼らのいわば『必然の』傾向であった」と述べ、「思想的動機というより、おそらくその組織と暴力の秘儀と、伝統に関する懐古趣味とが、やくざと完全に一致する価値システムを構成しているという理由で、極右集団はやくざを引き付けた」と解説しています。元来、極右は、「不遇のために鬱屈し、多くが職業的な扇動家になっていった旧士族たちで構成」され、「少数派の『壮士』は自由民権運動で戦ったが、多くは議会周辺に集まり、ボディーガードとして国家主義的組織に参加」したことが解説されています。そして、「やくざ、右翼の過激主義者、そして手配師の絆を示すよき例証」として、原敬内閣の内務大臣であり、鹿児島で親方を通じ炭鉱を取り仕切っていた元大物手配師の一人であった床次竹二郎の後援で結成された「大日本国粋会」が、「国会に忠誠心を持つありとあらゆる人間」として、「約6万人のやくざ、アウトロー、手配師、各種の扇動家たち」を集めたことを挙げています。そして、「内務省と警察に支持され、ムッソリーニ主義のファシストをモデルとしていた国粋会」が、60万人のメンバーを擁しているとされ、スト破りや「プロレタリアートの政党と密接な関係があった水平社の奈良における1923年の解放運動の制圧」に利用されたことが述べられています。
著者は、「右翼の過激主義者とやくざとが隣り合うこうした組織の中にはたいした重要性を持たなくとも、見過ごすことのできないものがいくつかある」として、「戦前にこうした組織の上層部にいた人間たちが、50年代初めから黒幕、すなわち政治の駆け引きの裏の勢力となっていく」と述べ、1931年に大阪で結成された「国粋大衆党の会長」の「笹川良一」やその「忠実な協力者」である「児玉誉士夫」らを挙げ、児玉について、「彼は戦後に、右翼とやくざ、正解とアメリカのロビイストたちとの間の重要なフィクサーとなる」と述べています。そして、「やくざと極右は、軍部と緊密な結びつきがあり」、「『愛国主義的ギャング』の行動(諜報活動、テロ、さまざまな取引)が頻繁になされる場所は中国や韓国であり、そこで彼らは現地のギャングと結びついていた」と述べています。著者は、「徳川時代末期の混乱の時代に、やくざは貧者に側に立つことを選ぶことができたが、その後、やくざは、権力の超法規的機関に変貌したのである」と述べています。
また、やくざを「都市の申し子である」として、「マフィア以上に(そうでないにしても、後に見るように、その組織、陰の文化において)、ナポリのカモッラを思わせる」として、2つの犯罪集団が、「都市」という発展環境の共通点を持ち、「ナポリでも江戸でも、社会の下層に生じる秩序が問題であり、マージナルな人びとと階級から落ちこぼれた人々は、最終的にその秩序の中で互いを知ることになった」と述べています。
第3章「敗戦期のやくざから暴力団まで」では、「やくざは、混乱、窮乏、そして仕事を求めどっとあふれた復員兵などの無秩序に乗じて、いち早く再編された社会『制度』の一つである」として、敗戦直後の混乱期に試みられたやくざの組織改革を論じ、「この時期やくざは、軍国主義時代の行動力を引き継ぐ国家主義的正統性の後光を帯び、警察自体から調整的勢力であるとみなされ」、「ことに戦後の再編の際、アメリカ占領軍の厚遇を受けた」として、「日本を安定化させ、彼らの目には脅威と映っていた左翼を阻止しようと気遣っていた」という占領軍の思惑について述べています。
そして、やくざの暴力行為が再び「愛国主義的」なものになった理由として、「自分たちの縄張りだと思われる場所の外国人を排斥することが重要となった」ことを挙げ、「日本人やくざが彼らに抗し、警察官のみを守った」例として、「山口組組員が、韓国・朝鮮人やくざによって警察署で人質に取られた警官を救った」兵庫県の事件を紹介し、「神戸の警察は山口組の恩を忘れなかった」と述べています。
また、やくざが、「アメリカ人から大いに政治的援助を受けることができた」背景として、「冷戦の始まりと中国での国家主義的勢力の後退により、日本の民主化は、アメリカ政府の目からすれば二次的なもの」となり、優先されるべき「共産主義との戦い」のために、米国が「監獄にいる戦犯や、やくざの中にそれを見出した」ことを解説しています。
さらに、1960年の日米安保条約改定時に、安保条約改定やアイゼンハワー大統領の訪日に反対する左翼の大規模デモを契機に、「やくざが再び政治の表舞台に現れた」として、日本の保守陣営が、「左翼と学生への対策に関し警察に加担してくれるよう、極右とやくざに援助を求め」、その仲介役は「児玉誉士夫が担った」と述べ、政府が、「羽田空港と東京都心との間での米大統領の警備の人材を必要としていた」ことについて、児玉がやくざと交渉し、「羽田-都心間に1万8千人のやくざと1万人のテキヤ、および、種々の極右組織のメンバー4千人を配置する用意」を整え、「アイゼンハワー大統領『歓迎委員会』」の構成メンバーには、「悪名高いやくざと並び、保守政治家たち(橋本登美三郎、自由民主党の議員で元警視総監の田中栄一、河野一郎、および元法務総裁の木村篤太郎)がいた」ことが言及されています。
この他、著者は、「終戦直後の日本のやくざの世界は、エネルギッシュな人物に事欠かない」として、「新宿の闇市という奇跡の庭の『王』である尾津喜之助、銀座に君臨したアメリカ人の手下である安藤明」を挙げた上で、戦後三十年を支配する名前として、「日本最強の暴力団である山口組三代目組長、田岡一雄」の名を挙げ、やくざが、「民衆に対し、常に魅力を放ち続けてきたし、また、大物やくざは自らのイメージを大切にしてきたので、戦後の『親分』の生涯は、格好の記述対象となっており、その伝記には事欠かない」として、戦後の「親分」たちの物語を数々紹介しています。著者は、「20世紀末の日本の『親分』たちは、魑魅魍魎の日本社会暗部の、この上なく示唆的な肖像のギャラリーをなしている」として、「これら偉大なる極道たち」は、「社会の病理的というより、生理的な要素なのである」と解説しています。
第4章「やくざの組織・権威・伝統」では、「日本においては、やくざが彷徨の案内人であった」として、やくざを「封建社会の如何なるカテゴリーにも属さない人々や、どこにも登録されていない人(無宿人)のための環境システム」であると述べ、「やくざの世界は、権力と暴力の支配する世界であるが、それは、さまざまな差異を無効にするものであって、出自や過去は気にならなくなる」と述べています。
そして、やくざの世界を特徴づける「親分・子分システム」について、
(1)情動的な深い責任の感覚
(2)それに劣らず強力な求心力
の2つの特色を挙げています。
また1992年5月の暴力団対策法施行以前には、「日本のやくざは伝統的に街中に立派な建物を構え、社会に組み込まれ」、「近隣の住民から幾分かは不審の目で見られていたものの、だからといって地域社会から追放されていたわけでは」なく、「地元の祭りに参加し、神輿(住民たちが肩に担ぐ一種の祭壇)を担」ぎ、「やくざの親分は地元の『名士』であり、誕生や葬式、あるいは開店の際には陣頭に立って指揮を」とっていたことが述べられています。著者は、やくざが、「把握し難い取引がなされたり、陰の共謀が進んだりする堅気社会の周縁の『グレー・ゾーン』を仕切」り、「後ろ暗い政治的利害関係その他の理由により、正攻法で解決することができないような問題を処理」する「仲介者の役割を果たしている」と述べ、「やくざが社会に統合されている」要因として、
(1)やくざが「社会の潤滑罪」としての役割を果たしているのは、彼らが通常、一般の人々(堅気衆)の領域を侵したりせず、その安寧を尊重するからである。
(2)やくざの享受する社会的統合は、権力、すなわち政治家および警察との密かな黙認関係に基礎をおくものである。
などを挙げ、「日本社会のやくざに対する寛容性は、やくざが民衆の想像力に密かに及ぼしている魅力に由来するもの」であり、「やくざは、文化を育む土壌において、独特かつ両義的で明示しがたい位置を占めている」と述べています。
著者は、日本のやくざを、「非合法の『整然とした』諸慣行や経済的規制傾向により、シチリアのマフィアよりもはるかにしっかりと社会に組み込まれ」、「さまざまな側面から見て、ヤクザは結局、合法性の周縁で機能するメカニズムの歯車であり、システム全体の良好な運営にとって欠かすことのできないものなのである」と述べています。
第5章「あたらしいやくざ」では、1980年代末から90年代初めにかけて非常に強まった「暴力団の経済的規制傾向」について述べ、実業界の一部とやくざとの間の共謀関係として、「多数の企業の株を少量ずつ持つ個人で、小株主として総会に参加し、取締役会の意向に有利に計らい、取締役会が面倒な立場に追い込まれないようにする」総会屋のシステムを挙げています。
また、1980年代後半の投機熱を、「暴力団が合法的活動の深部にまで参与するのに有利に働いたばかり」ではなく、「やくざと極右や政界との癒着を深め、やくざの規制傾向を強めることとなった」と述べています。
さらに、1992年の暴力団対策法の主たる目的として、「やくざの市民的活動への参入阻止」を挙げ、「堅気の人びとの生活をおびやかさない」という暴力団の大原則が80年代末に大きく変化したという当時の警察長犯罪対策部長国松孝次の言葉を紹介し、「暴力団対策法適用以後、組織は姿を潜めるようになったが、実際にはすでに再編制が始まって」おり、「活動がより隠れた部分でなされるように」なり、「隠蔽活動が発展」し、商社の体裁や政治運動、宗教団体などの形をとるようになったことを述べています。著者は、暴力団対策法の「性質の異なる2つの潜在的リスク」として、
(1)市民の自由を奪うものであること
(2)従来やくざと社会との間に存在していた暗黙の均衡が破られかねないこと
の2点を挙げています。
第6章「露天商」では、「それなしには祭りが真に存在することはありえない」祭りの立役者である行商人について論じています。そして、行商人が「自身を好んで香具師(やし)と呼ぶ」ことについて、「香具師は薬師(薬の専門家)、すなわち、薬売りの縮約に由来する」という説などを紹介しています。
第7章「路上の花火師たち」では、江戸時代のテキヤが「不動的、不安定で、士農工商のいずれにも属さず、それゆえ、より周縁へ追いやられた人々から成り立っている」と述べています。
第8章「テキヤ――帰属と拒否」では、「やくざの基層文化とさまざまな点で近いテキヤの基層文化にも独自性はある」として、「テキヤには口上の大いなる伝統がある上に、その隠語や習慣はやくざとは異なっている」として、テキヤが天照大神ではなく神農を崇拝していることを指摘しています。また、テキヤの伝統がやくざと異なる点として、
(1)独特の「隠語」
(2)洗練された口上の「芸」
の2点を挙げ、テキヤの隠語が、「一定の『威厳のライン』以下の周縁の人々によって使われ、いくつかの職業集団の無数の言い回しの中に入り込んでいる」と述べ、「テキヤの隠語は認知のしるしであると同時に、外部に対する防衛でも」あり、「共同体として形成されるための手段でもある」と述べています。
また、祭りの際に地元商店街組合にとって、「テキヤとうまく折り合いをつけていくのは、すべて利益につながること」であり、「テキヤがいなければ『祭りは葬式になってしまう』」として、1980年に秩父市の商工会議所がテキヤの人数縮減を要求し、秩父の夜祭からテキヤが撤退した際には、「事態はあまりに壊滅的であったので、秩父市はテキヤの翌年の祭りへの参加要求をすぐさま受け入れた」例を紹介しています。
本書は、歴史の教科書には表面的な事件、制度しか登場しないさまざまな出来事の水面下で脈々とつむがれてきた「裏社会の日本史」をつないでくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
本書の著者は、実在する『ル・モンド』東京支局長のフランス人だということです。現代の日本の裏社会を描いた『ヤクザ・リセッション』の著者も元『フォーブス』のアジア太平洋支局長でしたが、こういうテーマの本の場合、身元が割れることを恐れて日本人なのに外国人風のペンネームを使う人も多いようです。
身の安全を恐れてということではないですが、『反社会学講座』のパオロ・マッツァリーノ氏は、「イタリア生まれの30代。天然パーマでひげもじゃです。父は寡黙な九州男児、母は陽気な花売り娘」という幕張在住の大学講師とされています。
■ どんな人にオススメ?
・歴史の教科書のページの裏側を覗いてみたい人。
■ 関連しそうな本
ベンジャミン・フルフォード 『ヤクザ・リセッション さらに失われる10年』 2006年02月18日
松原 岩五郎 『最暗黒の東京』 2006年07月31日
紀田 順一郎 『東京の下層社会―明治から終戦まで』 2006年07月27日
横山 源之助 『日本の下層社会』 2006年08月11日
山本 雅基 『東京のドヤ街・山谷でホスピス始めました。―「きぼうのいえ」の無謀な試み』 2007年01月25日
パオロ・マッツァリーノ 『反社会学講座』 2006年03月11日
■ 百夜百マンガ
「地上に落ちた天使のコメディ」という設定が日本で受けず、10週打ち切りを食らった前作の設定を変え、学園不良ものとしてヒットした作品です。
知らない人はなんで「2」なのかが分からないことでしょう。そういえば、『代紋 TAKE-2』には「TAKE-1」はあるのでしょうか。それとも人生の2テイク目と言うことなのか
投稿者 tozaki : 2007年02月23日 07:00
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【BOY―Hareluya II 】