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2007年03月07日
地域から見直す占領改革―戦後地方政治の連続と非連続
■ 書籍情報
【地域から見直す占領改革―戦後地方政治の連続と非連続】(#776)
天川 晃, 増田 弘
価格: ¥2625 (税込)
山川出版社(2001/03)
本書は、1970年代以降に、主としてアメリカで公開された公文書を利用した染料改革の研究が進められ、これらの研究によって明らかになった「占領改革の背景と改革過程の細部」に関する研究成果を元にした、「占領改革は実際にそれまでの日本の政治や社会をどのように変えた」のか、「占領改革はその後の日本の政治の発展にいかなる影響を与えた」という問題に関して、
(1)占領政策に対する日本側の対応の側面をより掘り下げて検討し、
(2)占領改革をそれ以前とそれ以後の日本の政治と社会の歴史の中で位置づける、
ことを目的としたものです。
序論「地域から見直す占領改革」では、占領時代に軍政部から各府県に、最大時には2400人の軍政官が置かれ、「各府県の行政に口を挟んだ」ことが述べられ、「軍政部に配属された軍政官は軍服は着てはいても職業軍人では」なく、「民間人出身でアメリカで日本の軍政のために特別の訓練を受けてきたインテリ将校も多く、こうした軍政官は概して改革の理想に燃え」、「個別の軍政担当間の熱意に応じて各府県に与える影響にも差異が出たと考えられる」と述べられています。なかでも、山梨県軍政部の教育担当官、ブラバンディ大尉は、「いつも公僕のサービス精神の徹底を強調し『県庁の役人は「県民のサーバント」であることを信条とすべきである』と説き、「うるさい大尉」という評価と「有能の士」であったとの評価があったことが述べられています。
第1部「1945年:地域社会の連続と非連続」には、「沖縄:戦中・戦後の政治社会の変容」と「地域の戦時・戦後と占領――茨城県を中心として」の2編の論文が収められています。
「沖縄:戦中・戦後の政治社会の変容」では、1945年3月に、北部地区の国頭地方で「各町村の有力者、実力者、学校長、翼賛会員などを集めて結成」された、「宣伝、諜報、防諜、謀略を任務とする秘密機関」である「国士隊」の活動について解説されています。
また、1945年1月に沖縄県知事に島田叡が就任すると、沖縄県庁の行政は戦時行政に切り替えられ、部課長会議において、
(1)芋の生産に重点を置くが、消費の現状から大家畜をつぶして食料に充てる一方、家畜の減少によって浮く量を、人間の食料にふりむける。
(2)雑穀類も極力確保して、主食に充てる。
(3)北部地区を始め全島に渡って、できるだけ蘇鉄を採取して備蓄食料とする。
(4)台湾総督府との直接交渉によって、相当量の台湾米を移入する。
の4点を決定し、戦時行政としての課題は、「(1)食糧問題、(2)県外引き揚げ、(3)本島北部地区への退避」などであり、「戦時の行政課題は、張りつめた緊張の中にあっても単純で明解であった」と述べられています。
さらに、それまで沖縄県に対し、「治安人事に関することを始め地方統治に対して絶大な権限を持っていた」が、戦時に入ると「県政は軍の支配下に編入され、政府内務省の力はいくぶん後退」し、それまで内務省が人事権を握り、任命された部長が沖縄県庁に赴任していたが、「『玉砕』の雰囲気が立ち込めてくると、出張と称して沖縄を出、病気療養を理由にそのまま帰らぬ人や転任者もいたりして、空白の行政部署も生じた」ことが述べられています。
沖縄戦の末期に起きた、「友軍」である日本軍による沖縄住民の虐殺事件に関しては、その原因として、
(1)防諜(スパイ嫌疑)
(2)捕虜に対する報復
(3)陣地暴露の防止(幼児殺害など)
(4)食糧確保
(5)壕確保
の5点が挙げられ、これらの事件の特徴として「すべて郡の命令のもとに行われており、そのすべてが、防諜、諜報に関係している」ことが述べられています。
敗戦後については、「日本占領が現実化された時点で、沖縄占領は日本占領の中に、もしくはその一部として、包み込まれると考えられていたが、実際の政治過程では、二つの占領が別々に存在し、沖縄は、長期にわたって日本から分断されることになった」ことが述べられています。
1945年8月、米国海軍軍政府司令部が、「沖縄を統治するにあたって諮問機関とする沖縄諮詢会の設立を発表」し、「軍政府―諮詢会―住民のチャンネル」という統治構造の中で「狭い場所しか与えられなかった」が、「住民を代表するがごとき人々を沖縄人の中から集めたこと」が、「戦後社会の大きな転機であった」と述べられ、その会議の雰囲気は、「日本政府のポツダム宣言受諾という重苦しさとは対照的に、米軍の支援の下での『復興』に大きく期待していた」と述べられています。
そして、政治的な自治の活動がアメリカ軍政の元で沖縄人による政党結成活動として開始され、占領初期の政党や政治結社に共通する傾向として、
(1)沖縄の民主化
(2)占領軍への協力
(3)琉球独立論志向
の3点が挙げられています。
「地域の戦時・戦後と占領」では、茨城という地域社会にとっての染料の意味を考える上で、「民衆が占領当局と直接接触するところの実態」を明らかにする必要があるとして、「民衆と占領を、地元で実際に媒介した地域のエリートたちの行動と意図、および占領前後の実態を明らかにする」とし、「茨城県の占領時代研究会や、筆者も参加した茨城県議会史作成時に行われた官僚、県政会、財界、教育界など各領域のリーダーの聞き取り調査」を材料としています。
占領期終結の月である1952年4月から茨城県庁に勤務した石原信雄へのヒアリングでは、地方自治庁に採用された石原が、「内務省が解体され、『地方局は地方自治庁と地方財政委員会と全国選挙管理委員会の3つの役所に分解されてしまって見習いを採用する定員がない』」ため、茨城県総務課に勤務したことが述べられています。また、内務省地方局のOBたちから「君達は占領が解けてわが国が独立したら、内務省を復活させるんだからね」と言われていたことや、石原自身の視点として、「戦前・戦中の日本の地方行政は各章がそれぞれの行政分野で地方に対して、府県については直接監督する、市町村については、機関委任事務制度によって監督するという方式をとっていた……しかし、総じて各章が直接都道府県を通じて影響力を行使することについては、内務省が強力な調整権限を持っていて、言わば戦前の体制の中で、地方の立場を内務省が代弁するという役割を果たしていたんです……各省が縦系列で地方を支配していたんです。それに対して地方の立場をある程度守ったのは、内務省地方局だったんですね」「国が地方に仕事を押し付ける場合に……必ず内務大臣の了解をとらなければいけない、というような通達が明治のころから出てい」たと語っていることが紹介されています。また、内務省が持つ2つの顔として、「警保局や、社会局は、地方を支配・統制するという立場だったんですが、地方局は、地方自治を強化する方が国のためになるという思想を持っていた」とし、「戦前……各省が補助金を出すといっても、内務所がだめと言えばだめだったんですね。戦前の各省の補助金は、全部内務省の会計課が予算を組んだんです。……中央集権といいながら以外に地方の立場を強く反映していたんです。内務省がなくなったんで、各省がやりたい放題になった」という言葉を紹介しています。石原は、全国知事会の下に作られた地方制度調査委員会の委員長になった友末知事の下で、制度改革のためのデータ集め、原稿の作成など「一種の秘書官」のような仕事を県庁で行い、1年3ヵ月後に自治省に戻るまでの間、「この委員会での地方財政計画の作成、制度改正の経験はその後の石原の多くの糧」となり、「平衡交付金をめぐる大蔵省と地方財政委員会との厳しい対立を経て、定率制に基づく地方交付金制度にしたこと、その原型は、戦前の1932年に、『当時の内務省の若手官僚三好重夫』が提唱し、さらに三好が内務省財政課長のときの、戦時期の1940年に制度化した『地方配付税制度』にあったこと」などが述べられています。
第2部「指導者交代の諸相」には、「パージの衝撃――岩手県を中心として」、「教員レッド・パージ――北海道を中心として」、「指導者の交代――衆議院総選挙結果を手掛かりに」の3編の論文が収められています。
「パージの衝撃」では、パージが、日本人を単純に、
(1)戦争推進に積極的に協力した軍国主義者・超国家主義者・全体主義者のタイプ――好ましくない淘汰されるべき日本人
(2)戦争に批判的で抵抗を示した民主主義者・自由主義者・平和主義者のタイプ――主役を演じるべき好ましい日本人
の「2つのタイプに切り分ける"道具"のような役割を果たした」ことが述べられています。
また、1946年1月にGHQ側の知事"公選"の意向を受けた内務省が都道府県知事の大量入れ替えを決定し、「1941年から45年までの翼賛会地方支部長を兼任していた官選の地方長官ないし知事150名が追放該当に指定され、岩手の宮田為益知事がこれに含まれた」上、知事の異動と相前後して「県庁職員の"整理旋風"が起こったこと」が庁内に同様の輪を広げ、「県庁職員2300余名のうち対象が2割5分、約600名もの規模に及んだため、その選抜に際して一種のパージ的処分が行われたとしても不思議ではなかったであろう」と述べられています。
さらに、1946年の総選挙の意義ないし特色として、
(1)政治的な旧基盤が完全に分解された。
(2)政党の割合については、保守側が依然有利であることでは戦前・戦後に大きな変化がなかったが、政党の立場からは、非公認者の相次ぐ当選が政党側の混乱ぶりを象徴していた。
(3)唯一の婦人候補がトップ当選を果たした。
(4)革新勢力が2議席を確保するなど奮闘した。
(5)投票率が予想以上に高く、棄権率は2割7分2厘であり、最良の愛知(1割5分1厘)、最悪の千葉(3割7分5厘)の中では良好と言えた。
の5点を挙げています。
知事公選に関しては、「官選から公選への転換は県庁内部に同様を引き起こし」、当時の状況として、「まったく天地がひっくり返ったような話でした。とにかく県庁というところは、昔から本官と地方官、この差がはっきりしていた。ある程度以上の法律上の行為になると、本官でなければ扱えない。いくら月給が高くても、地方官にはそういう権利が与えられない、というふうな時代でした。その本官というのが内務省任命の役人で、今でいう国家公務員です。それが便所まで本官と地方官に分かれていた。……私たちはそういうもんだと思い込んでいた。そのころの知事は、議会へ出ても、国防政策から何から、政府の弁解をしたもんですからね。……ところが公選、民選ということになると、自分たちの代表を自分たちで選ぶんだと、天地がひっくり返るようなことになるわけです」という吉岡誠(元県秘書課長、教育部長、盛岡市長)の言葉を紹介しています。
また、初の公選知事である国分謙吉は、「県庁内部の実態をよく把握で傷、県庁の部課長たちも地方の民主化にどう対処すればよいかが判らず、混乱状態」であったため、「ある課長のごときは、県会で答弁に立って、私らは落ちた春さんを支援したのであって、今の知事を支援した覚えはない、と答弁して平気でいる」という証言が紹介されています。しかし、「知事の考え方次第で、県庁勤務者が本省から天下っていた官僚に代わって部局長の椅子に就くことも可能」となり、「内務省の人事権はなくなり、内務完了が地方に進出することが難しくなった」とともに、同年末の内務省解体によって、「中央政府の地方行政に対する旧来の官僚的統制を瓦解させた」ことが述べられています。
「教員レッド・パージ」では、「道教育刷新」のためにとられた辞職勧告対象者が、
(1)新教育を理解せず又はその促進を阻害する行動のあるもの
(2)教育委員会及び学校長の教育方針に協力せず又は著しく生徒父兄の信用なきもの
(3)性行不良または教職員としての体面を失したもの
(4)勤務状況不良なるもの又は著しく指導力の欠如するもの
(5)教育基本法第8条2項に抵触するもの
(6)極端な反民主的思想その他により児童生徒に影響力ありと認められたもの
(7)服務規律に違反せるもの
の7項目のいずれかに抵触する者であったことが述べられています。
また、北海道共産党がレッド・パージ闘争を効果的に組織し得なかった最大の要因として、
・北教祖のこれに対する消極的対応
・急速に進行していた労働組合運動の隊列の分裂
・産別会議の衰退と反共・民同勢力の主導権確立という状態の中で攻撃に対し統一して対抗し得ないという当時の客観的条件
などを挙げています。
「指導者の交代」では、GHQによって進められた公職追放とそれと対をなす追放解除が、議会エリートの交代にどのような影響を及ぼしたかについて、
(1)追放実施期の1946年~49年選挙と、道解除以降の52~55年選挙とに大別し、それぞれの時期における交代の諸相を検討する。
(2)これらナショナル・レベルでのマクロな分析に加え、ケース・スタディとして兵庫県を取り上げ、地域からの視点を組み入れることで、この問題に対する新たな視座を提示する。
の2つの角度から分析しています。
また、戦前(戦中)・戦後における議会エリートの交代の諸相の分析結果として、
(1)新人の議席率の変化に着目すると、46年占拠を含め、47・49年選挙においてもその比率は高かった。
(2)追放の効果を考えるとき、46年の第1次追放のみならず、47年の第2次追放も含めて考える必要がある。
(3)追放は議員の交代を促し、49年選挙においては、戦前派が全体の9.4%まで激減した。
(4)追放解除の結果見られた戦前は議員の復活は、よく参議院に限定するとその割合は大きくなかった。
(5)追放解除組の復帰と前後して、高級官僚や労組出身議員が台頭し、52年を起点として議会エリートの構成に変化が、これと比例するように政党システムの安定が見られ始め、議員の交代の度合が減退した。
の5点を指摘しています。
第3部「制度選択と地域政治」には「特別市制をめぐる大都市と県の対抗――横浜市と神奈川県を中心として」が収められ、地方自治法の「第3編 特別地方公共団体」の「第1章」にあたる第264条から280条までが、一度も実現されることなく昭和31年に「削除」され、代わりに「第2編 地方公共団体」の第252条の19から21の指定都市の制度が導入された経緯として、「特別市の指定を求める5大都市(大阪、京都、名古屋、神戸、横浜)とこれらを含む5大府県との間の対立が激化して調整が困難となったことからとられた措置」であること等が解説されています。
本書は、国家レベルの観点から捉えられがちな占領期の改革について、地方政治の観点から光を当てる貴重な一冊です。
■ 個人的な視点から
戦前と戦後の国会議員の様変わりを分析したものや、戦前戦後の官庁(中央・地方)の変化を取り扱った文献は見かけますが、終戦直後の地方政治に対する追放の影響は面白かったです。
岩手県の衆院選の話で全国各県の投票率が取り上げられていますが、戦後初の総選挙で千葉県は全国最下位だったことが(それでも6割以上ですが)紹介されています。ちなみに全国の都道府県議会議員選挙で歴代投票率が最下位も千葉県(4年前)です。4月の統一地方選ではどんな結果が出るでしょうか。
■ どんな人にオススメ?
・地方政治にとっての終戦の意味を押さえておきたい人。
■ 関連しそうな本
カール・S. シャウプ (著), 柴田 弘文, 柴田 愛子 (翻訳) 『シャウプの証言―シャウプ税制使節団の教訓』 2007年02月13日
竹前 栄治, 中村 隆英, 天川 晃 『GHQ日本占領史 (13)地方自治改革』 2007年01月19日
勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
竹前 栄治, 中村 隆英, 天川 晃 『GHQ日本占領史 (13)地方自治改革』 2007年01月19日
天川 晃 『GHQ日本占領史 (38)地方自治体財政』 2007年02月15日
■ 百夜百マンガ
アシスタントの横島くんの時給があまりにも安いのが気がかりです。自業自得なんですが。
投稿者 tozaki : 2007年03月07日 21:00
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