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2007年07月28日

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

■ 書籍情報

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影   【謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影】(#919)

  中野 晴行
  価格: ¥1995 (税込)
  筑摩書房(2007/02)

 本書は、1947年に出版された「日本の戦後マンガ史を語る上でエポック・メイキングな作品」である『新寶島』(作画:手塚治虫)の原作・構成を担当した、「当時関西マンガ界のベテラン」であった酒井七馬の評伝です。酒井七馬の名前は、「マンガ史からも欠落しつつある」だけではなく、「不遇な晩年を送り、最後は餓死した」と信じられ、通説では、「手塚は『新寶島』の奥付に自分の名前がないことに憤慨して酒井と決別。その後、手塚がめきめきと売り出したのに対して、酒井は作品も売れず、やがて紙芝居に転向。晩年は食べるものもなく、コーラで飢えをしのぎ、裸電球を布団に引き込んで暖をとり、とうとう最後には餓死した」とされていることが紹介されています。しかし、著者は、七馬が、「大阪日赤病院で姪や関西の漫画家たちに看取られながら死んだこと、葬儀は大阪・天王寺の一心寺で行われ、京都にある酒井家の菩提寺に納骨されたこと」などを確認し、「こんなにも事実と違う話が巷間流布されて、誰も信じて疑わなかった、という部分に酒井の存在の希薄さを感じてしまう」と述べています。
 第1部「生い立ち・マンガ・アニメ・終戦」では、1905(明治38)年4月26日に大阪市南区で生まれた酒井弥之助が、大正12年に雑誌『大阪パック』に入社し、マンガ家生活の出発点となったこと、家族ぐるみで交際のあった銀幕の大スター、大河内伝次郎の紹介で日活京都漫画部に入社し、アニメーターとして草創期のアニメ作成に携わった後、再びマンガ家の道に入り、戦地への慰問袋用マンガ単行本を描き、日本マンガ奉公会関西支部の代表として活動したほか、日本映画科学研究所で戦争プロパガンダアニメの作成に携わったことなどが紹介されています。
 第2部「焼け跡・『まんがマン』・『新寶島』・赤本ブーム」では、敗戦後の七馬が、「進駐軍のキャンプや接収されたホテルを回って、GI達の似顔絵を描く」ようになったことで俄然忙しくなり、キャンプ回りでアメリカマンガに触れ、「いつかアメリカマンガのようなものを描いてみたい」という思いを強くしていったことが語られています。
 1946年7月8日には、大阪大学医学専門部に通う学生だった手塚治虫と会い、すっかり話し込んでしまったことが紹介されています。そして、手塚が、全集版『新宝島』の「『新宝島』改訂のいきさつ」の中で、250ページの下書きを七馬に190ページに削られたため、筋の構成に無理が生じた上、「文体がむずかしい」という理由で、「相談なくセリフを変えられ」たり、「色々な字や絵を書き加えられ」たと語っていることを紹介しています。一方で、「酒井七馬サイドの見解」としては、1969年の『ジュンマンガ』に西上ハルオが書いた「「新宝島」研究」から、「酒井七馬先生が、各場面のコマ割(プロット)までを考え、手塚治虫氏にバトンタッチし、できあがったものに、表紙・口絵を酒井七馬先生がつけ、まとまったのである。だから、「新宝島」にかんしては酒井七馬先生が生みの親ということになる」と語っていることを紹介しています。
 著者は、七馬自身も200ページ近い長編マンガを描いた経験がなかったため、「アニメーションの経験からあらすじを立てて絵コンテをつくることはできる」、「初めはペン入れまで自分ひとりでやるつもりだったろう」が、「そこに手塚治虫という若い才能が現れた」ため、「アニメーションの分業の要領でマンガ単行本ができる、と考えたのではないか」と述べ、スチーブンソンの「宝島」をベースに、ターザンやロビンソン・クルーソーを「ごった煮」的に詰め込むという手法が、「戦前の短編アニメーションにはよく見られるもので珍しいものではない」と解説しています。そして、なぜ「宝島」か、という問題については、手塚がデビュー前に描いたとされる『オヤヂの宝島』を七馬に見せていて、七馬がこの作品をベースにして『新寶島』のあらすじを立てたのではないか、と推測しています。
 また、七馬の没後、姪の元に届いた手塚治虫の母からの手紙の中で、「『デッサン一つ習ったことのない息子』にとって『新寶島』の合作がよい勉強となり、何度も七馬の指導を仰いだことに感謝」しており、「再販又再販この感激は生涯忘れることができない」と語っていることを紹介し、「『新寶島』の原稿はある程度まとまったところで七馬の元に届けられ、その都度にダメ出しがあり、手塚は描き直したものをまた届けていたと考えられる」と述べています。
 著者は、マンガ史における『新寶島』の役割を、「手塚は七馬と出合うことで手塚たりえた、どでも言おうか。アニメーターであり、アメリカ風のバタ臭いタッチに憧れた酒井七馬が目指した新時代のマンガを、若き手塚治虫の手で具現化したのが『新寶島』であり、その後、手塚はよりドラマ性を追及するようになり、七間は絵にこだわっていく。ふたりの方向性が偶然ひとつになった奇跡とも言える合作だったといえるだろう」と評しています。
 さらに、『新寶島』が部数40万部を伝えられていることについて、「描き版でそれだけすることは無理」とする証言を紹介し、「売れたことは間違いないだろう。ロングセラーになったことも間違いない累計ではもう少し下駄を履かせることができるかもしれない」としながらも、累計4万部までと試算しています。
 第3部「紙芝居・絵物語・テレビアニメ」では、赤本マンガブームの終焉後、多くの赤本マンガ家が新聞マンガや東京の雑誌に移ったの対し、七馬が「左久良五郎」のペンネームで「三邑会」で紙芝居を描く道を選んだ理由について、「画家たちの気持や考えを尊重」する経営者の考え方に惹かれたからではないか、と推測しています。
 その後、七馬は一旦、『大阪日日新聞』の連載を5年間続けた後、再び紙芝居の世界に戻っています。しかし、「高度成長によって不安定な紙芝居演者を辞めて、より高給で安定した仕事に移る人が増えた」ため、街頭紙芝居は斜陽となっていくことが語られています。
 1963(昭和38)年に、国産初の長編テレビアニメシリーズである『鉄腕アトム』の放送が始まると、「実際に絵を動かしてみたい」という思いが募り、「自分の手でプロダクションを作りたい」というものに変っていったことが紹介されています。そして、1966年からは、絵コンテ担当として『オバケのQ太郎』の製作スタッフに加わり、「脚本とオリジナルのマンガから、登場人物たちをどう動かし、どう見せるのかをカット割にする」という「お手のもの」の仕事に携わったことが紹介されています。
 1969(昭和44)年の正月には、肺結核を患った七馬は、ほとんど動けず、友人からの食べ物の差し入れにも手をつけることができず、好物のコーラだけを飲んでいた状態で病院に担ぎ込まれ、親族や大阪のマンガ界の人間が見舞いに来るなか、大阪日赤病院で亡くなったことが語られています。
 著者は、入院できるだけのお金を持っていた七馬が手遅れになるまで病院に入ろうとしなかった理由を、「ゆるやかな自殺であったように思われてならない」と述べ、「自分がマンガにおいても、アニメにおいても、もはや過去の人であることに気づいてしまった」ことで、「生きることそのものを諦めるしかなくなっていたのではないか」と語り、七馬の戒名が「慈照院諦観信士」であることについて、「これほど七馬にふさわしい戒名はない」と述べています。
 本書は、日本マンガ史において、巨大な手塚治虫の影に消えかけていた才能を紹介した貴重な一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書を読んで『新寶島』を読みたくなったのはもちろん、『鉄仮面』など当時の書き下ろし単行本を読んでみたくなりました。
 考えてみれば、小説では書き下ろしの単行本がいまだによく出ていることですし、日本のマンガシステムで失われた、書き下ろし長編単行本も読んでみたいものです。


■ どんな人にオススメ?

・手塚治虫は昔から天才だったと信じている人。


■ 関連しそうな本

 手塚 治虫 『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝』 2005年05月28日
 大塚 英志, ササキバラ ゴウ 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
 中野 晴行 『マンガ産業論』
 夏目 房之介, 宮本 大人, 鈴賀 れに, 瓜生 吉則, ヤマダトモコ 『マンガの居場所』
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日
 杉山 知之 『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』


■ 百夜百音

冷麺で恋をして【冷麺で恋をして】 小滝詠一 オリジナル盤発売: 2001

 昔、盛岡駅前のパチンコ屋の上の冷麺屋で食べた冷麺がおいしかったです。恋をするかどうかは定かではありません。

『A LONG VACATION 20th Anniversary Edition』A LONG VACATION 20th Anniversary Edition


投稿者 tozaki : 2007年07月28日 22:00

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