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2007年08月13日
幕末維新の社会と思想
■ 書籍情報
【幕末維新の社会と思想】(#935)
田中 彰
価格: ¥8400 (税込)
吉川弘文館(1999/10)
本書は、「幕末維新」の範囲を、「ほぼ天保期から維新政府による一応の統一国家の形態が整えられた廃藩置県(明治4年=1781年)前後まで」と捉え、幕末と維新とを、「たんなる連続ではない。そこには非連続の要素もあり、その複合で」である「非連続の連続」という「複雑な維新変革の複合構造を前提」として「幕末維新」を描いた論文集です。
第1部「幕末の地域社会」の「百姓一揆の展開過程」では、「百姓一揆の蜂起から打毀しに至る展開過程について、長州藩天保一揆を素材にして考察」しています。
その組織過程は、「いったん蜂起が決断されると通常は1軒に1人の割合で動員がかけられ、地域ぐるみの参加」となり、「出ない者は打毀すという強制が行われ」、「その象徴として村名を記した昇りが用いられ」ていることが解説されています。
また、打毀しでは、「綱をつけて家を引倒す」だけでなく、「瓦を打砕く、柱・天井を壊す、戸・障子・畳などの建具、鍋・釜などの道具を徹底的に破壊」し、「帳面の破損、質物の着類の切裂が行われ、総じて不正な富に対する制裁としての意味」ともっているが、人身には危害は加えられない上、「盗みは厳禁されており、そのルールを犯したものは、藩庁側も一段重い罪に処している」ことが解説されています。
著者は、一揆蜂起のプロセスにおいて、「買喰」層=下層農・貧農が主体的な役割を果たし、その主導のもとに中農層をも含む多様な階層の参加が行われたと述べています。
「大原幽学と改心楼乱入事件」では、嘉永5年(1852)4月18日に下総国香取郡長部村で起こった、「関東取締り出役から大原幽学の探索を命ぜられた手先のものたちが性学教導所改心楼を突然訪れ、入門を請い、断られるや乱入・乱暴に及んだ事件」である「改心楼乱入事件」を「広くまた深く実証的に分析することによって、大原幽学はさることながら事件の舞台となった東総地域の時代と社会の実態に迫」っているものです。
そして、事件の影にあって重要な役割を担った人物として、「土浦町本町問屋久兵衛佐左衛門」なる人物を挙げ、町方騒擾を収拾した手腕を幕府から買われたのか、関東取締出役の「其村役人道御案内」に推挙され、彼が東総地域の博徒、飯岡助五郎の勢力一味の捕り物を現場で指揮した功績から、「油断ならない要注意の東総には頼りになる道案内」であったことが解説されています。
佐左衛門は、関東取締出役から、「近年長部村に幽学という者が滞在して性学を唱え、表向きは質素に見せながら、内実は住居を美麗につくり、暮らし方はもとより、すべてに驕りが目立って百姓のために悪い影響を与えているとの風聞があるので内々探索してほしい」との依頼を受け、二度にわたり長部村を訪れるが、関東取締出役がほしいような悪い情報は得られず、「幽学の落ち度を何が何でもつかみたい出役」は、「こうなったら幽学に入門して探索したらどうか、とその人選まで押し付け」、「くりかえし、くりかえし佐左衛門に幽学摘発の証拠になる探索を求めてくる」が、「二度の探索によって幽学を知った佐左衛門は関東取締出役のやり方に疑いを持ち、自らが手を下すことだけは回避しよう」としたのではないかと解説しています。佐左衛門は、急に剃髪して「義制悔庵」を名乗り、出家と足痛を理由に幽学探索の件から手を引き、代わりに牛渡村忠左衛門を推薦したことが述べられています。
また、改心楼乱入事件で悪役を演ずる博徒である栄助と半次について、「幽学の敵という固定観念で一方的に排除するところからは時代と社会を総体としてみることにはならない。近世後期の社会にあっては博徒・侠客のアウトローが闇部から姿を現わし、一つの役割を果たしていたと考えられる」として、彼らの実在を確認しています。
第2部「『攘夷』の諸相」の「下田渡海考」では、吉田松陰の下田事件の目的が、定説とされている「渡海」ではなく、「墨使膺懲」=ペリー視察ではなかったかという観点から考察しています。
そして、多くの先行研究が、資料第一主義を貫くあまり、「幕府の『申渡書』および松陰が事件後に記した『回顧録』『幽囚録』『三月廿七夜記』などの記述を、ほぼ鵜呑みにしてきたところがある」と指摘しています。
「文久元・三年の佐原騒動と水戸藩攘夷派」では、文久元年(1861)正月(第1回)と文久3年(1863)9月~11月(第2回)に下総国香取郡佐原村で起こった住民と天狗党(水戸藩の尊攘激派)との抗争事件、いわゆる佐原騒動を中心に、天狗党の鹿島・香取地方での活動と地域住民との関係や幕府の対応を明らかにしています。
文久元年の佐原騒動に関しては、水戸の浪士7人が佐原村を訪れ、佐原の豪商7軒に「攘夷実行の資金」として一千両を用立てるよう申し入れ、町に繰り出して門を打ち壊すなどの傍若無人の振る舞いをして、800両の資金調達に成功したことが解説されています。
また、文久3年の第2回の佐原騒動では、浪士5人が大惣代善左衛門を捕らえ、町中で鉄砲を持った村民と対峙したところで、善左衛門が逃げ出し、その騒動の中で寺宿組頭庄左衛門が弓張堤燈を持っていた手を浪士に切り落とされ、ついには死亡し、この騒ぎの中で他の浪士を探して市中に戻ってきた2人の浪士が、屋根に登った多数の村民から瓦を投げつけられ、竹槍・鳶・六尺棒で突き殺されたことが述べられています。浪士側はこの報復に端貝村に身を隠していた善左衛門を斬殺した上、善左衛門の忰大平と手下の石屋新七を捕らえていたこの浪士拠点に連行して追及した後、佐原に戻り、「両人を縛って引き立て、咎の次第を書いた捨て札と磔の柱を持たせて、善左衛門宅まで進ませ」ています。そして、「磔だけは勘弁してほしい」と法階寺の住職が願い出たために打ち首にし、その首を佐原村の大橋の上に晒したことが述べられています。
著者は、「水戸尊攘激派の浪士たちがなぜ善左衛門とその忰および手下をこれほど憎み、斬殺に及んだのかについては、必ずしも明確ではない」として、文久3年の佐原騒動の発端に、潮来村の沢屋忠兵衛が、佐原村の後家を後妻にし、この後妻の勧めで佐原で呉服商「白木屋」を始め、自らは潮来に留まっていたが、ある日先妻を引き入れていたところを後妻に見つかり、佐原の店に寄せ付けてもらえなくなり、奉行所に訴えたが敗訴となってしまったため、忠兵衛の養子伴次が水戸天狗党に訴え出たことがあることを解説しています。このときに、佐原の伊三郎という鍛冶屋職人が、天狗党を白木屋に案内したことが判明し、善左衛門が伊三郎に出頭を命じ、善左衛門宅で縛り上げていたのを、発見した水戸天狗党が起こって善左衛門を縛って連れ出した、ということの起こりが述べられています。
著者は、補足として、
(1)騒動の舞台となった佐原の町の性格として、町場として、有力な商人の台頭が見られ、ことに水戸藩尊攘派が標的にした7件の豪商は、河岸問屋・醸造業・商品取引・金融業などで資金を蓄積するとともに、周辺農村の土地を集積し、政治的には町政を掌握するとともに、領主権力との結合も深めていた。
(2)佐原騒動を巡る幕府権力の対応と、そこに見られる幕府の地方支配の実態として、近世後期の関東農村の支配体制である、中小藩領や旗本領の入り組み支配を補完する関東取締出役―組合村体制が形骸化し、充分に機能しなくなっていた。
(3)佐原騒動に登場する尊攘派志士の性格として、彼らが、尊攘派志士の典型ともいえる出自を持ち、行動形態をとり、尊攘運動の前半で活動を終えていて、水戸藩尊攘運動の特質を把握する上でも見逃せない。
の3点を述べています。
第3部「維新政権をめぐって」の「藩体制解体と岩倉具視」では、政府内において、「諸侯版籍返上」を担当した岩倉が、「東京での『一大会議』に向けて、みずからも版籍奉還断行の原案作成を試み」、その内容は、「総じて、奉還後の地方制度を藩制から州制に改め、小藩を統合して十万石単位の州を設ける方策が特色である」と述べています。
しかし、明治2年6月の版籍奉還の内実は、「概して大久保などの漸進論が基調となり、政府内の対立もあって、岩倉の州制・知州事構想の検討や郡県制の内実についての審議は十分に行われていない」ものであったことが解説されています。
そして、岩倉が、明治3年(1870)6月頃から、「建国策」の作成に着手し、政府内で審議が進められていた「藩制」と比較して、「政治体制のあり方から訴訟・教育まで、まさに『施政の基礎』を確定しようとした国家構想であった」と述べ、「建国策」が、「政府内の大久保・副島らの現実的な見通しに配慮していたが、それでも『藩制』に比較してより積極的な改革構想であった」ため、「尾大の弊」が無視できない段階においては、一般に公布されることはなかったことが解説されています。
第4部「明治維新と歴史認識」の「アメリカから見た日本の南北戦争」では、明治維新に関して、「これまでほとんど関心が向けられることなかった分野」として、「明治維新が外国人にどのように理解されたのかということ、いうなれば外国人の明治維新像」を挙げ、「ほんの数年前まで南北戦争という内戦を経験していたアメリカ人は、興味深いことに、自身の内戦経験を通して明治維新を見ていた」として、「北と南の軋轢として、あるいは、伝統(への執着)と変革(への執心)の間の軋轢として明治維新を注視していた」と述べています。
そして、1866年に在日アメリカ公使に任命されたヴァン・ヴォールクンバーグが、将軍慶喜を「日本の進歩勢力とみなし」、この段階では、「日本が平和に向けて前進していると見ていた」ことが述べられています。
また、1867年初頭、徳川軍に合衆国政府から強力な鋼鉄艦ストーンウォール号を売却したことに関して、「ストーンウォール号を徳川軍に引き渡せば、戦争を長引かせ、その結果通商が妨げられるということが分かっていた」ため、「局外中立布告の県治から、ストーンウォール号をタイクンに引き渡さないように指示した」ため、横浜についたストーンウォール号は、交戦団体のいずれにも引き渡されなかったことが解説されています。
著者は、「ヴァン・ヴォールクンバーグの日本の内戦についての見方には非常に興味深いものがある」と述べ、彼(およびアメリカの新聞)の視点が、「日本史に興味を抱いているわれわれが普段馴染んでいるものとは極端に異なっている」ものであり、
(1)年表が異なっていて、局外中立布告(1868年2月18日)とそのほぼ1年後の解除(1869年2月11日)に特別の注意が寄せられている。
(2)それぞれの立場に対して与えられた役回りが異なっている。
の2点を挙げ、「このようなアメリカ人の見方を鵜呑みにする必要はない」が、「日本史上の重要な事件を別の視点から語っているからこそ、興味深い」として、「限られた情報と偏見の上に建てられた現在の明治維新の諸通説の再検討が以下に必要かを示している」と述べています。
本書は、幕末維新の時期の歴史を捉える新しい視点を提供してくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
たまたま今日、本書の「下田渡海考」を執筆した川口雅昭の講義を含む2泊3日の研修の案内をいただきました。現代の日本で、吉田松陰の思想を学ぶ集まりがあるというのは、なんだか象徴的な感じがしますが、振り子の振れ方として面白いものではないかとも思います。
■ どんな人にオススメ?
・「幕末好き」の人たちが好きな有名人ではなく庶民の姿を知りたい人。
■ 関連しそうな本
松尾 正人 『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』 2007年07月05日
勝田 政治 『廃藩置県―「明治国家」が生まれた日』
渡辺 隆喜 『明治国家形成と地方自治』 2007年03月26日
田中 圭一 『百姓の江戸時代』
竹前 栄治, 中村 隆英, 天川 晃 『GHQ日本占領史 (13)地方自治改革』 2007年01月19日
勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
■ 百夜百マンガ
連載デビュー作がヒットしてそのまま巨匠の手で映画化までされてしまった人なので、初期の作品は現在と毛色が違うようですが、それを含めて楽しめるようになりたいです。
投稿者 tozaki : 2007年08月13日 22:00
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【フィラメント―漆原友紀作品集 】