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2007年08月21日
廃藩置県―「明治国家」が生まれた日
■ 書籍情報
【廃藩置県―「明治国家」が生まれた日】(#943)
勝田 政治
価格: ¥1680 (税込)
講談社(2000/07)
本書は、明治維新史研究の最前線で大きな問題となり、「近年さまざまな学説が提出されている」廃藩置県について、「ひとつの廃藩置県像の提示を試みた」ものです。
序章「藩が消えた日」では、廃藩置県が、「極秘のうちに短期間で計画が進められ、天皇による一方的な電光石火の早業として断行された」ものであり、「261の藩が廃され、そのまま県となり、江戸幕府滅亡後、新政府の直轄地に置かれていた府・県と合わせて3府302県となった。知藩事は罷免され、旧藩地を離れて東京への転居を命じられる」というものであったことが述べられています。
また、明治政府は、明治4年11月に、3府72県に統廃合し、「新たに設置した府県に、明確な序列をもうけ」、「第1位東京府、第2位京都府、第3位大阪府、第4位神奈川県、第5位兵庫県、第6位長崎県、第7位新潟県」と、「地域とは結びつかない序列」に続き、「第8位の埼玉県以下はおおむね地域単位に関東、近畿、東海、東北、北陸、山陰、山陽、四国、九州地方の諸県が続く」ものであったことが解説されています。そして、長崎と新潟が上位にあることについて、「現代から見ると意外な序列になっている」、「特に、新潟県は明治中期の日清戦争後、"裏日本"として差別され、経済的・社会的・文化的に遅れた地域となった」が、「長崎と新潟は、神奈川(横浜)・兵庫(神戸)とともに開港地であり、明治政府は3府とともに開港地を重視していた」ことが解説されています。
さらに、県名のつけ方について、「廃藩置県後は藩名がそのまま用いられたが、明治4年11月の統廃合に伴ない、変更」されたが、明治期から昭和期にかけての代表的ジャーナリスト宮武外骨が、「維新政権は『忠勤藩』と『朝的藩』を区別し、『忠勤藩』の大半の県名にはそのまま藩名を用い、『朝的藩』や『日和見の曖昧な態度であった』大藩の県名には、藩名を使わせずに郡名または山川名をつけている」と指摘していることを種お買いしています。
著者は、廃藩置県を、「江戸時代の幕藩体制に終止符を打ち、真の意味での『明治国家』を誕生させたという重要な意義を有するものである」と述べ、本書の課題として、
(1)維新政権内部で藩体制はどのように考えられていたのか。
(2)廃藩置県断行の要因を維新政権の内部に探ること。
の2点を挙げています。
第1章「維新政権が誕生したとき」では、地方行政区画としての「藩」が、「政体書」において、「官制上はじめて登場」し、「地方を府・藩・県」と3区分し、「政府の直轄地を府・県とし、その他の大名領を藩とする」もので、「府には『知府事』、藩には『諸侯』、県には『知県事』を置いている」ことを解説しています。著者は、「維新政権が自らの統治体制として、初めて藩を位置づけたのが政体書」であり、「それは、藩を否定するのではなく、藩を自己の統制下に置きながら直轄地である府と県と並存させること」であり、「府藩県三治体制とは、あくまでも藩体制を温存させるもの」であり、「維新政権は、決して成立当初から藩体制の消滅を意図していたわけではなかった」と解説しています。
第2章「版籍奉還と藩体制」では、明治2年6月25日、維新政権が、「諸藩に対し11か条にわたる指令、いわゆる『諸務変革令』を出し」、「拡販の石高・物産・税高・職制・職員・藩士・兵員・人口・戸数などを調査し、10月までに報告せよ」としたことが、「統一的な政策を実施するため、基礎的データの収集を意図したものである」と解説しています。そして、この指示の中に、
(1)家老以下の藩士をすべて士族とした。
(2)知藩事の家禄を歳入の1割にし、藩庁経費との分離を図った。
の重要な点が含まれていたことを解説しています。
また、版籍奉還により天皇へ領有権が一元化されたことによって、中央集権化政策に拍車がかかったとして、民部省と大蔵省が、「長官以下の官員が兼任するという実質的な合併を行い」、「府藩県に対する統制強化を意図した地方行政」を進めたとして、
・「府県施政順序」の布告、:府県事務の大綱を上げ、それぞれの土地風俗を考慮し、漸進的に実施するように指示した。
・「府県奉職規則」と「県官人員並常備金規則」の制定:府県官員の服務規程であり、府県行政は民部省・大蔵省・兵部省などに必ず伺いを立てて指示を受けて行うように地方官の先決を戒めるとともに、県の官員と常備金について石高に応じた定員と定額を定めた。
・藩に対しても「府藩県同一治の御趣意」を守り「彼我の別無く」取り扱うよう指示。
・開港所などで「商会所」を設けて商業活動を行うことの「廃絶」を命じる。
等の中央集権化政策を行ったことを紹介しています。
著者は、「版籍奉還により藩主の領有権が否認され、版画府県と同じ地方行政単位となって、ようやく府藩県三治体勢が制度的に確立した意義は大きい」と述べています。
第3章「中央集権化への道」では、藩財政の逼迫について、明治3年には、諸藩の借金(藩債と藩札の合計)の平均が、「じつに収入の約3倍」に達し、「大・中藩に比べ小藩の財政はより逼迫しており、藩体制は財政面から維持できない状態となってきている」ことが解説されています。このため、小藩の自主的廃藩が見られ、「政府内では府藩県三治体制の徹底化を意図する動きが顕著に」なり、その最たるものとして、「藩に対する統制強化による画一化を進めて、中央集権化を図ろう」とする「藩制」の制定について解説しています。
また、同じ頃、岩倉具視が、中央集権化に向けて作成した「建国策」について、著者は、「『藩制』と同様に府藩県三治体制の完成を目指す構想と位置づけるもの」であると述べ、「『藩制』が藩の職制と財政を主眼としたことに対し、『建国策』は中央政府や地方制度のあり方、家禄制改革や士族卒の帰農商化、地方行政権の中央官庁への統一等の項目を立て、全体として中央集権化の推進を図ろうとするものである」と解説しています。
さらに、「藩政改革の中心は家禄の削減を種とする禄制改革であり、一部には士族の解体を含むものも」あり、「とくに、下級士族卒を犠牲にすることによって、それは進められた」と述べ、「戊辰戦争で奮戦した彼ら」が、「今や藩首脳部からは無用であり邪魔者扱いされる存在になってしまっていた」ため、「彼らが、改革を強行した藩庁ならびにそれを指示した中央政府に対し、激しい不満を持つのは当然のことであろう」と解説しています。
第4章「一大飛躍としての廃藩置県」では、西郷隆盛が、「薩摩藩内で政府協力体制をまとめることに尽力し、さらに三藩提携論による親兵創設をも提起した」ことについて、「当時の西郷意見書」を取り上げ、それが、「具体的な政府改革案であり、中央集権化に向けた提言となっている。政府改革では、制度や機構をいじることよりも人事問題を重視し、政府官員の政治倫理・姿勢を厳しく問い、その一新を主張」したものであったと述べています。そして、「地方制度に関しては、集権化の一層の推進を主張」し、具体策として、
(1)制度・法制・礼節・刑法・軍制などを府藩県同一にして、独自の改変を禁止すること。
(2)中央政府の政令が府藩県に貫徹するようにすること。
(3)中央政府は府藩県を同一に扱い「愛憎」があってはならないこと。
の3点を提起しています。
また、廃藩論が政府内部で公然と提起されたのは、長州藩の鳥尾小弥太と野村靖が、山県有朋を訪ね、時事を論じた際に「郡県の治」(廃藩)を実施すべきであるという意見を山形にぶつけ、翌日には井上馨を訪ね、「今晩は『真面目な話』で『国家』のために来たのであり、あなたがもし同意しないというならば『刺し違えるか首をもらうかする』と迫った」ところ、「これに対し井上は、『国家のために俺と刺し違えるか首を斬るかと言うならば今日のところ、廃藩立県の事より外にあるまい』と、両名の言いたいことをズバリと指摘」したというエピソードが紹介されています。
著者は、廃藩置県が、「薩摩・長州両藩のみの決定により、両藩でも西郷・大久保・木戸の三名の主導により断行されたものである。三条・岩倉はもとより、他の諸藩は全く計画に関与していない。府藩県三治体制による中央集権化の途を断念した時点で、藩に依拠する公論体制は脱ぎ捨てられ、権力のさらなる集中が図られることになった」と述べています。
第5章「廃藩置県の衝撃」では、「一方的な知藩事の罷免」である廃藩置県に対して、「藩独自の軍事力を有する知藩事が素直に同意するのか」が焦点となり、「廃藩断行を計画したメンバーの間では、反乱者には武力行使も辞さないことが確認されていた」と述べられ、「もっとも懸念された薩摩藩」では、知藩事の父島津久光が、西郷には、「決して藩を廃止するような政策に同意してはならないと念を押していた」にもかかわらず、この約束が完全に裏切られたことから、「久光は怒り心頭に発した」あまり、「急報が届くと、これはすべて西郷や大久保の専断に出たことであるとし、邸内で花火を打ち上げて鬱憤を晴らした」という話を紹介しています。
著者は、反乱がおきなかった理由として、
(1)版籍奉還の規制力
(2)親兵(政府直轄郡)の威圧力
(3)知藩事および士族に対する優遇策
(4)知藩事自身の反乱防止策
の4点を挙げています。
一方で、西日本の各地で農民一揆が頻発したことを取り上げ、「廃藩置県に対し蜂起したのは、武士ではなく農民であった」と述べ、農民らが、「廃藩置県に伴なう旧藩主の状況に反対して蜂起」し、その原因の一つには「異人」に関するデマが広まっており、「廃藩置県以前から進められていた急激な開化政策に戸惑い、反発を感じ始めてきた農民は、その政策と『異人』にたいする恐怖感を結びつけ」ていたと解説しています。デマの内容は、「中央政府の役所は『異人』が政治を行う場所であり、『異人』は女性の血を絞って飲み、牛肉を食べ『猿』のような着物を着ているようだが、すでに『異人』が血を飲んでいるところを見た者がいる。中央政府は人や牛を外国に渡そうとしている。今の皇后は毎日生血を飲んでおり、これに供するために近々われわれの生年月日を調べようとしている」というものであったことが紹介されています。
著者は、「流言」に見られる農民の意識を、
(1)村役人への不信感であり、その不信感は村役人を、開化政策を進める中央政府の官員とみなす意識を連なっている。
(2)年貢を増徴するのではないかという疑念であり、これは農民の生活を直撃するのはやはり租税であることを物語っている。
(3)「異人」にたいする恐怖感であり、その恐怖感が中央政府への不信感と結びついている。
の3点にまとめています。
本書は、歴史の教科書では、年号と結果のみしか教えられない「廃藩置県」について、明治政府の内部関係からの理解を促してくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
明治政府による府県の序列の中で、新潟県が7位に入っていることが目を引きます。これは、海外への開港地を明治政府が重視していたことの表れでもあるのですが、残念ながら新潟港は水深が浅く、日本海側ということもあり、外国船は寄り付かなかったそうです。
■ どんな人にオススメ?
・県がどのようにできたかを知りたい人。
■ 関連しそうな本
松尾 正人 『廃藩置県―近代統一国家への苦悶』 2007年07月05日
阿部 恒久 『「裏日本」はいかにつくられたか』 2007年07月31日
大石 嘉一郎 『近代日本地方自治の歩み』 2007年06月12日
勝田 政治 『内務省と明治国家形成』 2007年02月16日
渡辺 隆喜 『明治国家形成と地方自治』 2007年03月26日
田中 彰 『幕末維新の社会と思想』 2007年08月13日
■ 百夜百マンガ
SFといえばSFなのですが、かわいい絵だけに余計にシリアス感が増して感じられます。表紙からは想像つかないくらい恐いですし。
投稿者 tozaki : 2007年08月21日 22:00
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