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2007年10月06日

手塚治虫とボク

■ 書籍情報

手塚治虫とボク   【手塚治虫とボク】(#989)

  うしお そうじ
  価格: ¥1890 (税込)
  草思社(2007/3/21)

 本書は、児童マンガ家にして、『風雲ライオン丸』や、『マグマ大使』等の特撮作品を世に送り出したピープロダクション社長であった「うしおそうじ」(鷺巣富雄)氏が、円谷英二、手塚治虫、山本嘉次郎の評伝三部作として構想していたうちの第二作です。著者は本書の執筆中の2004年に急逝され、本書は、残された400字詰め原稿千枚近くの原稿をもとに再構成されたものです。
 第1章「予期せぬ出会い」では、連載依頼と人物像の確認のため、編集者とともに著者の自宅を訪問してきた手塚について、「親指を直角に立て、掌を一杯に拡げ」る立ち居振る舞いを、「ディズニーマンガのキャラクターに非常によく似ている」と述べています。
 著者は、「この日を境にして、ボク、うしをそうじは子供漫画家として開眼したように思う。そして、魂を吹き込んだのが手塚治虫であると、今も固く信じている」と語っています。
 第2章「ボクの赤本デビュー」では、東宝の社員だった著者が、労働組合の争議で給与がもらえないなか、生活のために赤本マンガを描き始めた経緯や、出版社の社長から、原稿料の前渡分として、百円札を300枚で3万円受け取ったことなどを語っています。
 第4章「友情のはじまり」では、赤本や単行本の経験しかなかった著者が、手塚番の編集者たちと出会ったことで、「月刊誌の場合、作品を創造する作者と編集者のパートナーシップが大変重要な要素であると強く感じた」ことを語っています。
 また、著者が、極太、中細、極細の線を3本のペンを使い分けて描くのに対し、手塚が、「太線は力を入れて書くと太くなるし、中細は普通の書き方ですらすらと鼻歌混じりに描く。極細を要する場合は事務ペンをひっくり返してペン先の背中を用いて描く。一本のペンで三通りの絵柄を使い分けて立派に仕上げる技術には驚いた」と語っています。
 第5章「編集者たちとのつきあい」では、当時の漫画家と編集者の間柄は、「いったんペアを組むと、作品づくりに二人でともに没頭」し、「担当編集は時に厳しく仕上がりにクレームをつけ、推敲を重ね、作品の完成度を高めるためにはともに陣痛の苦しみを味わった。すぐれた編集者と組んで描かれた漫画は、ほとんど編集者との共同作品のようなもので、その編集担当はマンガ家にとってベターハーフ的存在となった」と語っています。
 第6章「福井英一との確執」では、1954年にカンヅメ仕事と朝までの酒の日々の間で、33歳の若さで狭心症で急死した『イガグリくん』『赤胴鈴之助』の作者、福井英一を取り上げ、当時の月刊少年誌の別冊漫画競争の中で、「大量のページをこなし、しかも読者が欲しがるような綺麗な表紙に仕上げられるベテラン漫画家」として、人気の高い福井英一に注文が殺到し、「徹夜、徹夜つづきの超人的な仕事を求められる」ことになったことが語られています。
 また、「どんなジャンルでも先駆者として独走し、人気の頂点に位置し、現在も圧倒的人気を得て児童漫画界に君臨しているという自負」を持っていた手塚が、『イガグリくん』の登場でその座を脅かされ、『漫画少年』に連載していた『漫画教室』の1954年2月号のなかで、「ストーリー漫画家はページを稼ぐため、無駄なコマや不必要な絵を描く」と描きながら、「悪い例」として『イガグリくん』を挙げた「事件」について、このことに烈火のごとく怒った福井が、立会人として馬場のぼるを連れて、手塚のもとに怒鳴り込んだ顛末を語っています。
 第7章「悪所追放運動」では、マスコミやPTAからのつるし上げの席に呼び出された手塚が、「憤然として、どの吊るし上げの席へも出て」いき、「怖れず臆せず、逃げも隠れもせず、堂々と相手方と渡り合った」姿を、「彼のヒーローキャラの『レオ』のごとき獅子奮迅の働きに心から拍手喝采を送った」と語っています。
 そして、「当時の子供たちは、食料飢餓と同時に娯楽飢餓の日々にさらされ、そのハングリー状態を漫画が埋めていたのである~子ども達は腑抜けた大人よりもはるかに賢い"呑舟の大魚"である。玉石を併せ呑んで、いずれが善かいずれが悪か、是非善悪の理を先刻承知して、漫画に、渇きを癒す手段を求めていたのだ」と語っています。
 第8章「手塚治虫の遺言」では、軽井沢旅行の宿で、40度の高熱を出した手塚が、うわごとで、「私がこのまま死んだら『鉄腕アトム』のあとをうしおさんに続けてもらいたい」と語ったことや、そのことを覚えていない手塚から何を言ったか聞かれてもとぼけて済ませたことを語っています。
 第9章「手塚治虫のアニメ志願」では、「自分は生粋の児童漫画家ではない」というコンプレックスに悩まされていた著者が廃業を決心し、「ピー・プロダクション」を設立して映画界にカムバックしたこと、アニメのノウハウを身につけたい手塚が芦田漫画製作所に入門を断られたことなどを語っています。
 第10章「漫画映画に殉じた人びと」では、日米開戦直前の1941年にアメリカの輸送船から押収した『ファンタジア』を見る機会に恵まれたこと、1945年の秋に復員して東宝にもどると、戦時中の作品や資料はすべて燃やされてしまっていたこと、特撮の技術を円谷英二に誉められたこと、著者が薫陶を受けた政岡憲三が、祖父の代からの不動産事業で築いた財産をアニメのためにきれいさっぱり蕩尽しつくしてしまったことなどを語っています。
 第11章「アニメーター手塚治虫」では、どう見積もって1話5百万はかかるアニメ製作費に対し、手塚が「なんとか350万円で仕上げます」と公言してしまったために、「どれだけ以後のアニメ製作者を苦しめたことか。そして、『鉄腕アトム』以後のアニメーションの質をどれほど落としてしまったことか。天才手塚治虫に功罪ありとすれば、これは明らかに罪の部分であろう」と述べ、ピープロの『0戦はやと』も「当然契約時から1話350万円であった」と語っています。
 そして、「手塚治虫はアニメーションを作ろうという情熱だけは人一倍あっても、企業人として膨大な人間を統括し、一つの仕事に集中させる才はなかった。労務管理もへったくれもなかったのである」と述べ、「アニメとは現実的な手作業と同時に芸術的な感覚を追及する仕事である」と語っています。
 第12章「マグマ大使誕生秘話」では、ピープロ生き残りのために、少数精鋭主義での「リアルアニメ」と特撮番組の企画政策に方向転換をしたことや、『マグマ大使』のテレビ化権を手塚から許諾を受ける際に、『鉄腕アトム』の実写版の失敗で懲りていた手塚が、「実写は困ります。実写で作るのなら許諾しません」と不安を示したため、パイロット版の許諾を取ったことを語っています。
 また、ピープロの社長「鷺巣富雄」が漫画家「うしおそうじ」と同一人物であることを知る人が少なかったことを語っています。
 終章「手塚治虫との訣れ」では、1989年2月9日に亡くなった手塚が、生前、レオの二世の名前を「ルネ」(寝る)と「ルッキオ」(起きる)にしようと話していたことから、「ジャングル大帝の主人公レオは、俺、すなわち手塚治虫自身のことだったのか……」と気づいたことを語っています。
 本書は、等身大の「漫画の神様」の姿を伝えてくれる貴重な一冊です。


■ 個人的な視点から

 うしおそうじ氏といえば、『新世紀エヴァンゲリオン』の音楽などで知られる鷺巣詩郎のお父さんですが、ピープロ不遇時代には交通費に事欠いて息子の貯金箱を壊した、というエピソードが伝えられています。ただし、作り話のようです。


■ どんな人にオススメ?

・友人の目から見た手塚治虫を知りたい人。


■ 関連しそうな本

 中野 晴行 『謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影』 2007年07月28日
 手塚 治虫 『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝』 2005年05月28日
 大塚 英志, ササキバラ ゴウ 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
 中野 晴行 『マンガ産業論』
 夏目 房之介, 宮本 大人, 鈴賀 れに, 瓜生 吉則, ヤマダトモコ 『マンガの居場所』
 フレデリック・L. ショット (著), 樋口 あやこ (翻訳) 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日


■ 百夜百音

With Whom?【With Whom?】 郷ひろみ オリジナル盤発売: 2001

 今聴いても「林檎殺人事件」や「お化けのロック」が素敵な樹木希林とのデュエットです。「イヒ」と言っても旭化成とは関係ないかもしれません。

投稿者 tozaki : 2007年10月06日 22:00

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