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2007年11月02日
戦闘美少女の精神分析
■ 書籍情報
【戦闘美少女の精神分析】(#1016)
斎藤 環
価格: ¥840 (税込)
筑摩書房(2006/05)
本書は、「わが国固有の表現ジャンル」である「戦う少女」の系譜を追う中で、欧米型の「戦う女」たちとの区別に際して、「ファリック・ガール」という鍵概念を用いた精神分析の文脈を適用したものです。
第1章「おたくの精神病理」では、「オタク」について、「オタキング」こと岡田斗司夫氏による定義として、
(1)進化した視覚を持つ
(2)高性能のレファレンス能力を持つ
(3)あくなき向上心と自己顕示欲
の3項目を紹介しています。
また、社会学者・大澤真幸氏によるおたくという現象の定義として、
「おたくにおいては、自己同一性を規定する二種類の他者、すなわち超越的な他社と内在的な他者が極度に近接している」
という結論を紹介しています。
その上で、著者自身によるおたくの特徴の記述として、
・虚構コンテクストに親和性が高い人
・愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人
・二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人
・虚構それ自体に性的対象を見出すことができる人
の4点を挙げています。そして、彼らが、虚構を実体化するのではなく、また現実と虚構を混同することでもなく、「彼らはひたすら、ありものの虚構をさらに『自分だけの虚構』へとレヴェルアップすることだけを目指す」と解説しています。また、「みずからの趣味の領域に性生活の全部または一部を確保しているとき、その人は『おたく』なのではないか」と述べ、「戦闘美少女という、これ以上ないほどの虚構的存在が愛好され、真剣な欲望の対象とされること」から、「おたくの本質的特徴の一つは、虚構コンテクストへの高度な親和性である」と解説しています。そして、おたく人生の「上がり」が「異性のおたくパートナーとの結婚」とみなされていることから、「おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における『健常な』セクシュアリティとの乖離ではないか」と述べています。
第2章「『おたく』からの手紙」では、実際におたくとの意見交換を通して、「おたくの特性としての『虚構への欲情』『虚構としての倒錯』と平行する『健全な性生活』」に注目し、「性という根源的なものの、とりわけその想像的成分との向かい合い方において、おたくの特性が最も顕在化する。彼らはいわば、主体的に乖離を生きている。そしてここに示されるのは、戦闘美少女と『乖離あるいは媒介されたセクシュアリティ』との生成的な関係ではないだろうか」と述べています。
第3章「海外戦闘美少女事情」では、欧米圏の「オタク」との対話を通じて、「日本のおたくの共同体性」を再認識したと述べ、「そこに見られる奇妙な雑食性と演技性は、結果として、多様性よりは一種の単調さをもたらしてはいないだろうか」と指摘しています。
第4章「ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国」では、一般には「精神病患者の作品」を指すことが多い「アウトサイダー・アート」の中で注目を集めているヘンリー・ダーガーを取り上げ、彼の物語に、7人の「ヴィヴィアン・ガールズ」と呼ばれるヒロインが登場し、「邪悪な大人の支配から子供奴隷を解放すべく、銃をとって果敢に戦う。その戦いはしばしば、血なまぐさく、残酷きわまりないものとなる。ダーガーの絵の印象は、少女らのあどけないエロスと、こうした血みどろの残虐性との対比によって決定的なものとなる。とりわけ奇妙なことに、少女たちはみな、少年のようなペニスを持っている。この描写をどのように受け止めるかが、ダーガーという作家との出会いの質を決めるといってよい」と解説しています。
著者は、「ダーガーを精神病とみなさず、あくまでもわれわれに等しく神経症者であったとする立場」から、「彼の思春期的な心性と、メディア環境の生産的なカップリングをみてとらないわけにはいかない」と述べ、「ここにおいて、ダーガーと現代日本の『おたく』とを結びつける問題意識が、はじめて根拠づけられてくる」と解説しています。
第5章「戦闘美少女の系譜」では、宮崎駿が高校3年のときに見たという『白蛇伝』に始まる戦闘美少女の系譜を年代ごとに追っています。
1960年代には、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』を「前駆作品」として取り上げ、「セクシュアリティとヴァイオレンスの特異的結合を『発見』したという点で、重要な作家のひとりである」と指摘しています。また、横山光輝の『魔法使いサリー』について、「戦闘美少女であると同時に魔法少女でもある」クロスオーヴァー作品である『美少女戦士セーラームーン』に連なるという点で、「戦闘美少女のもうひとつの原点」に挙げています。さらに、石ノ森とともに重視されるべき作家として、「セクシュアリティの対象としての『戦闘美少女』を発明し、同時に巨大ロボットもの(『マジンガーZ』)の始祖の一人」である永井豪を挙げています。
1970年代については、実写TVドラマ『好き! すき!! 魔女先生』を取り上げ、非アニメ作品であるが、「ヒロインとして『戦闘美少女』が始めて登場した作品である」と述べています。また、70年代の「もっとも重要な歴史的転回」として、「おたくマーケット」の誕生とその急速な拡大を指摘しています。
1980年代については、「アニメは前半にその爛熟を、後半にその衰退を経験する」と述べ、「おたくの夢がつまった名作」と評される『DAICON3』、『DAICON4』のオープニングフィルムなどを紹介しています。また、GAINAXの『オネアミスの翼』の興行的失敗が、「巨大ロボットもアニメ映えする美少女ヒロインも排除してしまった」ことにあるとする「絶望と開き直り」」が『トップをねらえ!』という「アニメの文脈を極限まで加速・凝縮したような、大変に『濃い』名作を生んだ」と解説しています。
1990年代については、「戦闘美少女史上、最重要作品のひとつ」として、1992年に放映開始した『美少女戦士セーラームーン」シリーズを紹介しています。そして、「90年代において戦闘美少女ものの増加は著しく、アニメ作品だけに限定しても網羅しきれないほど多数の作品が制作されている。新たな系列は生まれていないものの、諸系列間の組み合わせによって多様な物語が紡がれ、作品世界の設定もさらに複雑化しつつある」と述べています。
第6章「ファリック・ガールズが生成する」では、「漫画・アニメ空間の特異性」として、
(1)無時間:時間が読者の主観にしたがって伸縮するカイロス的時間である。
(2)ハイ・コンテクスト:表現形式それ自体がその表現内容を規定する度合いが高い。
(3)多重人格空間:完成度の高い漫画・アニメ作品においては、それぞれのキャラクターが部分人格化し、相互補完による総合化に成功している。
の3つのキーワードを挙げて解説しています。また、「われわれがアニメや漫画に容易に没入し、われわれは文字を読むようにしてアニメや漫画を『読む』」ことができることから、「もはや日本語表記が、象徴界と想像界との区分を曖昧化するような特性を持つと言うことはできない。それはむしり、想像的な対象物を象徴的な作動形式で処理するための、洗練された技術を提供しているのだ」と述べています。
また、「わが国の表象文化において、これほどまでに性的境界の乗り越えが一般化していることも、日本的空間のハイ・コンテクスト性という点から解釈することが可能である」と述べています。
著者は、「基本的にハイ・コンテクストせいを特質とする、わが国の表象文化の枠内において成立した漫画・アニメという表現形態は、無時間性、ユニゾン性、多重人格性などの要因をいっそう純化することできわめて伝達性の高い表象空間となり得た。こうした想像的空間は、自律的なリアリティを維持すべく、なかば必然的にセクシュアリティ表現を取り込まざるを得ない」と述べ、「漫画・アニメの多形倒錯性と、受け手の欲望の健全性というギャップは、おおむねこのような視点から整理することが可能だ」と解説しています。
また、欧米圏のタフなファイティング・ウーマンが、「ペニスを持った母親」を意味する精神分析の鍵概念である「ファリック・マザー」に当たるのに対し、戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と位置付け、「ファリック・ガールの戦闘には、十分な動機が欠けている」ことを指摘し、「『空虚であること』によって欲望やエネルギーを媒介する女性は、私を含む一部の力動精神医学者によって『ヒステリー』と呼ばれるだろう」と述べています。そして、「ファリック・ガールは、虚構の日本的空間にリアリティをもたらす欲望の結節点である。彼女に向けられた欲望こそが、その世界のリアリティを維持する基本的力動にほかならない」と指摘しています。さらに、「ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間において鏡像的に反転したもの、それがファリック・ガールの戦闘行為だ」とのべています。
著者は、「われわれはファリック・ガールの存在に『現実』を見る。なぜなら『性の現実』を知らないものには、彼女たちを愛することができないからだ」と述べ、「私はおたく的な生の形式を全面的に肯定する。私は彼らに対し『現実に還れ』などと説得を試みることは決してないだろう。彼らこそが誰よりも『現実を知る』ものであるからだ」と述べ、「ここではむしろ、アニメを愛しつつ性を排除するような態度の欺瞞性こそが告発されなければならない」と指摘しています。そして、「ファリック・ガールを愛することは、自らのセクシュアリティという『現実』に自覚的であるために、われわれ自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ」と結論づけています。
本書は、「おたく」の姿を通して、特異な文脈を持つに至った日本人の姿を映してくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
昔からアキバには色々なオタクが集まっていて、最近はアニメ系の人たちが集まってきていますが、ネット上ならともかく、現実世界でその人が何のオタクかを特定するのは結構難しいんじゃないかと思います。アキバで知らない人に急に話しかけられたらびっくりしますし。
■ どんな人にオススメ?
・オタクはみんな宮崎勤みたいな人だと思っている人。
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浜野 保樹 『模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで』
■ 百夜百マンガ
著者自身ビール会社のマーケット部門のサラリーマンをしながらマンガを描く二足の草鞋のマンガ家として有名でした。
投稿者 tozaki : 2007年11月02日 22:00
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