« フーコーの振り子―科学を勝利に導いた世紀の大実験 | メイン | 黒川温泉 観光経営講座 »
2007年12月03日
江戸のみちはアーケード
■ 書籍情報
【江戸のみちはアーケード】(#1047)
鈴木 理生
価格: ¥2520 (税込)
青蛙房(1997/01)
本書は、江戸の町の「"みち"を適当なところで輪切りにしてその断面の有様を見よう」とするものです。
第1章「"みち"を輪切りに」では、一般的な町地の公道の構造を、
(1)公道の両側の私有地から幅3尺の土地を拠出させて、その部分を「犬走り」とした。
(2)「犬走り」の上いっぱいに、「釣庇(つりびさし)」というものが付けられた。これは町屋の軒から庇を長く張り出して、その下を通路にしたもので、道路側に庇を支える柱を付けないように命じている。
(3)庇の雨垂れが落ちるとことに公儀が管理する下水溝がある。
と解説しています。
また、江戸の「都市計画」で一番優先的に考えられたことは、下水の路線のことであるとして江戸の町の中心道路の「通り町筋」の決定に当たっては、「江戸前島」の背骨(尾根)にあたるところをうまく選んで「町割」が計画され、「中央通り」が新橋―京橋間、京橋―日本橋間、日本橋―筋違橋間で3つに折れて取り付けられたのは、「下水の排水ための勾配が取れるような場所を選んだための結果」であると解説しています。
第2章「江戸の町の構造」では、江戸時代の町人が「町」の間口にこだわる理由として、「公道に面した町人地の地所の間口は、江戸時代のすべての"税金"の課税標準としての意味を持っていたから」であると述べています。
また、江戸の「町」には、間口60間の「大町」や間口40間の「中町」、間口20間の「小町」等の違いがあった理由について、「江戸の町の並び方には二つの『向き』があったため」であるとして、
(1)「通り」:江戸城を中心として放射状に延びた道路に沿って並んだ町の列
(2)「筋」:江戸城に対して同心円状に巡る道路に沿った町の列
の2種類の向きを解説しています。
さらに、町の最小のコミュニティの「つながり」を維持するためのもっとも大きな力として、「それぞれの『向こう三軒両隣』の人々を強く規制した連座制」を挙げ、「6軒の中の1軒から、1人の法令違反者や犯罪人が出ると、最低5軒の隣り合った家の住人は、すべて違反者や犯罪人の受ける処罰に応じた罰を受けなければ」ならず、「事件によっては一つの町全体が連帯責任を負う場合も珍しくはなく、さらにその町を含めて、同じ名主の支配下にある数町から十数町といった広範囲に連帯責任が及ぶことも」あったと解説している。著者は、「現在、このような事情を全く無視した形で『下町人情』がもてはやされている傾向が強いのですが、『下町人情』の実態は相互監視が基本的なことであり、その監視を完全にするために『相互扶助』が奨励されたといえましょう」と述べています。
第3章「庇・ピロティ・アーケード」では、著者がかなり以前から、「庇――庇地の問題、いいかえると公道の一部と私有地の一部を出し合う形で、公道の一部にさらに一種の公共的空間を作り出している都市制度」に関心を持っていたと述べています。
第4章「江戸の"みち"と司法取引」では、夜の木戸だらけの地上の道を歩いていたのでは、泥棒商売もそれが発覚して逃げる場合でもどうにもならないため、「アウト・ローの紳士諸氏の"主要道路"は庇地の庇、つまりアーケードの屋根」であり、「それを伝わっていけば、軒から軒と目立たず、しかも掴まりにくいという長所がある」ため、捕方側も梯子と有力な武器にしていたと述べています。そして、「戦後は映画・テレビともに、捕物風景の中から木戸が姿を消し、したがって梯子も全く見られなくなりました」とおんべ、「依然として江戸の町は木戸のない広々とした道路の都市として取り扱われて」いると指摘しています。
また、江戸八百八町には「各1件ずつの髪結床の『株』」が制定され、「町民には理髪店を選ぶ自由がなかった」ことについて、髪結にはそれ相当の義務があったとして、
(1)「町境・往還(道路のこと)のうち、または橋台、あるいは河岸地、広場等」の見守番=見張り番。
(2)それぞれの髪結床の帳場(縄張り)の町の人々の人数の点検、その健康状態や旅行中かどうか、またよそ者の町内逗留などを、月代を剃ることを通じて見張る役割をも兼ねていた。
(3)大家の際には南北町奉行所や三ヶ所にあった町年寄の役宅に駆けつけて、重要書類を運び出す役目。
等の役を負っていたことを解説しています。
第5章「明治になって」では、東京の路上から木戸を始め自身番屋、木戸番屋などの都市施設が姿を消し始めた直接の原因として、「江戸市中の行政費用が占領軍にはうまく集められなかったため、費用節約の名目でそれらの都市の施設の取り払いが奨励された」ことを挙げるとともに、より直接的な理由として、「天皇が旧江戸城に行幸するに当たり、警備の必要から道路上に余計なものがあるのを取り払うこと」があったことを挙げています。
第6章「欧風化と便所と下水」では、「これまで多くの都市史研究者や、都市計画研究者が、例えば沽券図などを手掛かりに江戸の町割と論じたり考証して」きたが、「なぜか下水を含む庇地、つまり私有地と公儀地=公共用地の関係については、まともに取り上げたものがないのが実情」であったことを指摘し、「下水こそ都市固有の施設」であると述べています。
第7章「"みち"の舗装」では、高度成長期に協力に実施された住居表示の影響が大きかったとして、「街郭(ブロック)方式から取られた結果、"みち"を中心に成立し存続してきた町が、都心部の場合は大抵は"道"で真っ二つに分断されてしまい、新しい町名がつけられ」たと述べ、「今そうした地域にお上の主導による『まちづくり』が盛んですが、"道"をまたぐ歩道橋の見える市街地は『町』ではなくて、たんなる『市街』を見る思いがします」と述べています。
本書は、江戸の町と"みち"の構造を見ることで、現在の町の姿の原型を確認することができる一冊です。
■ 個人的な視点から
確かに昔の時代劇では屋根の上の捕り物が多かった気がしますが、いつの間にか地上で銭を投げたりしたりするようになったような気がします。昭和初期くらいだと、まだ江戸の町を知っている生き証人がいたから無理な設定はできなかったのかもしれません。
■ どんな人にオススメ?
・現在の東京が江戸を引きずっていることが実感できない人。
■ 関連しそうな本
大久保 洋子 『江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓』 2007年11月18日
岡崎 哲二 『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』 2006年01月19日
橋本 毅彦, 栗山 茂久 『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成』 2006年05月11日
倉沢 進, 秋元 律郎 『町内会と地域集団』 2007年04月20日
田中 圭一 『百姓の江戸時代』 2007年09月16日
高橋 敏 『博徒の幕末維新』 2007年10月18日
■ 百夜百マンガ
今では人気者になったレッサーパンダを見ても「腹黒い奴」という目で見てしまうのはこの作品のせいです。
投稿者 tozaki : 2007年12月03日 23:00
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.pm-forum.org/MT3/mt-tb.cgi/1571
【ナマケモノが見てた 】