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2007年12月09日

ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝

■ 書籍情報

ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝   【ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝】(#1053)

  松岡 正剛
  価格: ¥1680 (税込)
  求龍堂(2007/06)

 本書は、ウェブサイト「松岡正剛の千夜千冊」をもとに、すべて並べ替え、「半分ほど文章に手を入れ、ヘッドラインなどもつけて」仕上がった全集『松岡正剛 千夜千冊』の「いくつかの特徴を語りおろしてみたもの」であり、「全集が入手できていない読者のための、未知の世界への書物案内」です。著者は、「あとがき」で、全集はとても分厚く、入手には10万円近くかかるので、「せめて本書によってそのアウトラインを高速ツーリングしていただきたい。題して『ちょっと本気な虎の巻』。全集を第1巻から順に俯瞰できるようになっています」と語っています。また、「いったい読書によって何を経験したのかと問われてみると、案外わかりにくい印象がある」のは、「読書しているという行為がどういうことをしているのか、さっぱりわかっていない」からであると述べた上で、読書は「著者と読者の相互編集であり、著者と読者と版元とブックデザイナーたちとの相互編集」であること、すなわち、「読書行為そのものは一人が体験していることが多いけれど、そこで起こっていることはもっと相互的であり、多層的なのではないか」ということを感得したと語っています。
 序「『千夜千冊』の誕生」では、「そんなに本って読めるものですか」との質問に対し、「そもそも本はリセプタクル(容器)であって、ヴィークル(乗物)なんです。本には古代でも宇宙でもシェイクスピアでもラーメンでも何でも入るし、どこにでも行ける。それはいつ行ったっていいんです。乗船自由」と答えています。そして、「本はどんな情報も知識も食べつくす貪欲な怪物であり、どんな出来事も意外性も入れられる無限の容器であり、どんな遠い場所にも連れて行ってくれる魔法の絨毯なのです」と語っています。
 また、書物とのつきあいかたについて、「本を読むとは、その本を通して未知の世界や未知の人間に接触したということ。また、その本の書き手やその本の写真家の思索や感覚といっとき交わったということです。読書は交際なんです。行きずりの恋かもしれないし、一期一会の出会いだったかもしれない。そういうことを、ぼくは『かけがいのないもの』だと見ているんです」と語り、だからこそ「読んだ本についてもちょっとお返しをしたい」と語っています。そして、つまらない本は無理に読む必要はなく、「世の中にいろいろな人物がいるぶん、書物にもいろんな個性がある」、「書物は共感を起こすとともに、われわれへの背信でもあるのです」と語っています。
 さらに、本の読み方については、「絶対に再読すること。これは絶必。そこに読書の醍醐味がいくらでもひそんでいますね」と述べ、初読と再読では見え方が違ってくることを解説しています。そして、「本をノートにする」ことが「極意のひとつ」であるとして、「もともと一冊の本は一冊のノートなんですよ。著者がそこに最初に書き込んだノートです。そこにぼくがマーキングを加えながらまた書き込んでいく。それがぼくの読書法のひとつです」と語っています。
 この他、全集の中で一番分厚い第7巻<男と女の資本主義>は、「東京中の製本屋の、どの製本機械にもはまらなかった」というエピソードを紹介しています。
 第1章「遠くからとどく声―少年少女のころの本がセピア色にいまよみがえる」(第1巻)では、巻名について、「ふだんは忘れているような世界のどこかから、名状しがたい『ささやき』や『ざわめき』が聞こえてくるというような意味」であると述べ、構成的には、
(1)少年少女がかつて出会ったであろう本。
(2)そういう世界を、のちに作家たちが新しい感覚や新しい表現にしていったもの。いわば大人になって聞こえてきた遠い声。
(3)その作品の世界そのものが遠くの世界になっていて、ハイパー・ノスタルジアともいうべきものを感じさせる作品。
の3つのグループがあると語っています。
 そして、犀星を例に挙げ、「読書では、このように著者の異様な目に出会うこともとても大事なんです。そこでギョッとしたい。わかったフリをするのが一番つまらない読書法。読書はね、脱帽したり、投げ飛ばされるのがいいんです」と語っています。また、近代文学の名作には、「人間の精神のこわさをどう描いたか」があり、「これらは人間の精神の深さをあからさまに描いているんだけれど、それにもかかわらず心理描写が一行もない」ことを指摘しています。
 第2章「猫と量子が見ている―カンブリア紀からホーキングまで、『読書する科学』をひもといていく」(第2巻)では、「読書する科学」について、「理系の人が歴史小説やマンガに夢中になるのと同じ。書物を通して科学や科学者の考え方に興味をもった」と解説しています。
 また、「科学には大きくは2つの方向」があるとして、
(1)宇宙や物質の究極像を求めている
(2)できるだけいろいろの現象をたくさん集めてそこに共通した特徴を発見する
の2点を挙げ、「科学史ではこの二つがかわりばんこにおこっている」と語っています。
 さらに、「数学的な考え方」のすばらしさとして、「なんだか急に自由になっていくところがある」ことを挙げ、「数学的自由」、すなわち、「数学こそ思考を自由にしてくれる」という言葉を思いついたと語っています。
 第3章「脳と心の編集学校―本は記憶と再生のための編集装置である」(第3巻)では、著者にとって最大のキーワードである「編集」について、「ぼくの研究や仕事は『編集とはなんだろうか』ということを考え、それをひとつひとつ実践に移し、その応用を試みることです。そのために人間の意識や文化の歴史やメディアの将来にとって、編集とは何だろうかということを研究や仕事にしてきたんです」と語っています。
 また、「言語というのはどのような文化を築いてきたのか、『書かれた言葉』が『意味』として読めるとはどういうことなのか」という問題に関して、
(1)活版印刷が発達する以前、世界中の人々はすべからく本を声を出して"音読"していた。
(2)本を目で読む"も口説く"が広まるにつれて、意識の奥のどこかに今ではまとめて『無意識』と呼ばれている領域のようなものがだんだんできあがってしまった。
という仮説を紹介した上で、「どんどんこういう社会の拡張が加速している以上は、現在のわれわれはどのようなことを『言葉』や『テクスト』に感じるべきか。もう一度根本的に考えなおしたほうがいい」と語っています。
 そして、「読書を通して知覚したり摂取している『知の方法』を、もっともっと自覚的に交し合うべきではないか」と述べ、「実は読書って編集なんですよ。編集しながら本を読むんです。ぼくはそう確信しています」と語り、「個々のテクストの間をまたいで読む」という「間テクスト性(インターテクスチュアリティ)」に注目すべき、すなわち、「本は一冊では閉じてはいない」と述べ、そのことをヴィジュアルに表現するための、「コンピュータ・ネットワークの中に入った『書物の知密都市』」である「図書街」プロジェクトについて解説しています。
 第4章「神の戦争・仏法の鬼―ドストエフスキーとフロイトが投げかけた謎」(第4巻)では、「世界観がどのようにダイナミックの変遷してきたか」を濃厚に追えるようになっており、序文で、「世界は約定と逆上の歴史である。神と王と仏と鬼の相克である。それはオデュセイアーの記憶を持った魔の山であって、ゴドーの門とカフカの城を待つ浄土と千年王国なのである云々」と記したことを語っています。
 また、「間テクスト性」(インターテクスチュアリティ)について、「どんなテクストも、それ以前の無数の文化の中心からやってきた引用の織物」であると述べ、「この見方は、ぼくの編集的世界観にとてもよく近似しますし、また、ぼくが実践して行きたい読書という方法にひそむ『本来の読み方』にも密接に関係してくる」、「本を読むとは、結局さまざまに世界を間テクスト的に読むということなんです」と語っています。
 第5章「日本イデオロギーの森―この国の奥を見るために、七つの読書モデルをつかってみる」(第5章)では、「セイゴオ流読書法」の入門篇として、「Aの方法、Bの方法、Cの方法という3つがある」と述べています。まず、「ビタミンA読書法」は、本ごとにコンディションによって読み方を変える方法。次に、「ビタミンB読書法」は、「本を食べるように読んだり、本をワインのように嗜んだり、本を百メートルを走るアスリートのように疾駆するというふうに、読書そのものをさまざまな生活や趣味のモードに照応させるように読むという方法」であると解説した上で、「読書はリラックスするときも、忙しいときも、悲しいときも、つかれきっているときもすべてがチャンスなんです」と語り、AとBは、「環境条件や活動条件とつなげて、そこでフィードバックしてくる感じを本を読む方法にしていくということ」であると解説しています。
 また、著者がたくさんの本を読んでいるりゆうとして、「日々の活動のいろんな場面との関係を本たちが受け持ってくれるようにしてあるからです。ぼくが何かをしたい感じになっていること、ぼくが本を選ぶこと、ぼくがその本を読むことがいろいろの脈絡で連続的につながっている」と語っています。
 最後の「ビタミンC読書法」については、「中身をどう読むか」であり、ここに「読中(どくちゅう)モデル」というべき読書モデルがあり、「アタマの中にいくつもの読書モデルを棲息させて」おき、「そのモデルとの間でさまざまな情報交換をしながら読んでいくという方法」であると語っています。そして、読書モデルとして、
・暗号解読型の本にはその裏に典型的なモデルが潜んでいる。
・世の中の伝承には、「典型(ステレオタイプ)」、「類型(プロトタイプ)」、「原型(アーキタイプ)」の3つの「型」がある。
・目次読書法:目次をアタマに入れる
・マーキング読書法
・要約的読書法:図解しながら読む
などを示しています。そして、「そもそも読書するとはどういうことかというと、要約するということなんです」、「そもそもニュースや会話もダイジェストなんです。要約なんです。つまりようやくは編集の基本中の基本の作業なんですね」と語り、『千夜千冊』のうちの600冊くらいは、「すべて要約編集を駆使している」と述べています。
 第6章「茶碗とピアノと山水屏風―古今東西のアーティストごとに本を読む」(第6巻)では、「構成にはけっこう苦労した。でもぼくの好みが一番よく反映した一巻になっている」と語り、巻末の「あとがき」には、「数寄の芸風の一巻」と書いたと述べています。
 また、「目を鍛える」には、「たくさん見るしかない」が、「専門家や苦労との言うことをあまり聞かないほうがいい。自分で見抜けるまでとことん見ること」だと語っています。
 さらに、日本の近現代思想史が、「概してはおそろしく貧しいもの」であり、「その時代のメインアートや民衆の芸能やマイナーアートを見ていない。そのため日本の歴史的現在に関する歴史感覚が鍛えられていない」と語り、「わかりやすくいえば二・二六の青年将校が聴いていた歌謡曲や小唄など、知識人にはまったく勘定に入っていない」と述べています。
 第7章「男と女の資本主義―貫一お宮からディートリッヒまで・フェミニズムからネット市場まで」(第7巻)では、本文が1500ページ、索引が100ページになってしまったために、「最初は東京中の製本屋さんのどこにもかからないほどだった」と語っています。
 また、フローベールの『ボヴァリー夫人』や、モーパッサンの『女の一生』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に共通するものとして、「社会においては理想と欲望が全く一致しえないということを描いた」物であると述べています。さらに、「一番身につまされた本」として、大原富枝の『婉という女」を挙げています。
 本書は、本書を人生の友にしたい人にとっては、最良のガイドブックになりうる一冊です。


■ 個人的な視点から

 松岡氏の「千夜千冊」にあやかって「百夜百冊」を名乗らせていただきましたが、さすがに本家は質・量ともに圧倒されます。
 その全集『千夜千冊』の「虎の巻」として企画されたのが本書ですが、著者の読書術の一端を窺い知ることができるのが嬉しい一冊です。


■ どんな人にオススメ?

・千冊の本をネットワークにしてみたい人。


■ 関連しそうな本

 松岡正剛 『松岡正剛千夜千冊(8冊セット)』
 松岡 正剛 『フラジャイル―弱さからの出発』 2005年11月23日
 松岡 正剛 『知の編集工学』 2007年11月25日
 松岡 正剛 『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 2007年06月09日
 松岡 正剛 『花鳥風月の科学』
 金子 郁容, 松岡 正剛, 下河辺 淳 『ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ』 2005年08月29日


■ 百夜百音

GOLDEN☆BEST【GOLDEN☆BEST】 岩崎宏美 オリジナル盤発売: 2007

 歌謡曲全盛期の名曲です。ライブでこれだけ歌える新人が出てくるあたりは、下手糞なアイドル歌手が目白押しだった80年代より幸せな感じです。

投稿者 tozaki : 2007年12月09日 07:00

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