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2008年01月12日

コミュニティ 安全と自由の戦場

■ 書籍情報

コミュニティ 安全と自由の戦場   【コミュニティ 安全と自由の戦場】(#1087)

  ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳)
  価格: ¥2730 (税込)
  筑摩書房(2008/1/8)

 本書は、「きわめて多義的な概念」であるコミュニティの「現代社会における態様をあますところなく描き出し」たものです。
 序章「ようこそ、とらえどころのないコミュニティへ」では、「コミュニティ」という言葉がよいものと感じられる理由として、「人柄や言動が信頼でき、友好的で、自分に好意を寄せてくれる人々の間で暮らすことを願わない人がいるであろうか」と述べ、「コミュニティ」は、「残念ながら目下手元にはないが、私たちがそこに住みたいと心から願い、また取り戻すことを望むような世界を現している」と述べています。
 そして、「コミュニティの一員である」という特権には、「自由という通貨」で支払うべき対価があるとして、「コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味」し、「コミュニティを得ること」は、「即座に自由を失うことを意味する」と述べています。
 第1章「タンタロスの苦悩」では、「コミュニティ」は、「『自然』で『暗黙』であるような理解の共有を意味する」ものであり、「理解が自意識過剰となり、また声高で騒々しいものになったとたん、コミュニティは存続できなくなる」と述べています。
 そして、「アイデンティティ」が「人々の中を引いたり情熱を生んだりするのは、コミュニティの代用品であるからである」と述べ、「『アイデンティティ』は際立っていること、つまりは異なること、そしてその差異が独自性を形づくっていることを意味する」ため、「アイデンティティ構築を目指す者たちは、個人的に経験する恐怖や不安を一緒に掛けることができるペグ〔くぎ〕を探し出し、その後は、自分と同じく恐怖や不安を感じる人々とともに、悪魔払いの儀式を行なうようにし向けられる」と述べ、「ペグ・コミュニティ」について解説しています。
 著者は、「安心の増進は常に自由の犠牲を求めるし、自由は安心を犠牲にすることによってしか拡張されない」と述べ、「自由のない安心は、奴隷制に等しい」が、「安心のない自由は、見捨てられ途方に暮れることに等しい」と述べています。
 第2章「引き抜いて、植え付ける」では、「大転換の時代は、関与 engagement の時代であった」と述べ、「被支配者は支配者に依存していたが、支配者もまた同じく被支配者に依存していた」と述べています。
 そして、近代資本主義につきまとう二つの傾向として、
(1)過去のコミュニティの「自然な理解」を、人工的にデザインされ、強制的に賦課され、監視されたルーティンによって置き換えようとする、首尾一貫した取り組み
(2)新しい権力構造の枠組みのなかで、無から abnihilo 「コミュニティ感情」を復興もしくは創造しようとする、はるかに一貫性のない取り組み
の2点を挙げ、「どちらが相対的に強く、また目立つかは、時を経て変化した」と述べています。
 第3章「撤退の時代――大転換第二段」では、「『大いなる関与 engagement』の時代の後には、『大いなる撤退 disengagement』の時代が到来した」と述べ、「高速、高加速の時代、不関与の時代、『弾力性(フレキシビリティ)』、『人員削減(ダウンサイジング)』、『外部委託(アウトソーシング)』の時代」であると解説しています。
 そして、かつては、「鋼鉄製の檻の中でごく普通の人生が書き綴られて」おり、「その檻の中でも断然強固なものといえば、生計の確保に関わる社会的な枠組みであった」として、「仕事は人生の基軸であって、その周りで人生のすべての要素が回転し、それに沿って人生のすべての活動が構想された」のに対し、「今日までに、この基軸は修復不可能なまでに壊されてしまった」と述べています。
 著者は、「かつては固くしっかりと埋め込まれた位置づけ(オリエンテーション)の基点が、個々の人間の寿命よりも永続性を持ち、確実で、信頼できる社会的環境を提示してくれたのであるが、そのような基点の多くはなくなった」と述べています。
 第4章「成功者の離脱」では、「親の世代の集団的・連帯的な闘争を個人的に利用して、大恐慌を切り抜けて成功を収めた子どもの世代」が、「豊かな郊外住宅地に住み、『自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことにした』」というリチャード・ローティの言葉を紹介しています。この「離脱した成功者」が、「十分な財産や名声を得たとたん、通常の都会生活の『わずらわしい親密さ』から距離を置くために、自らそのなかに住居を買い求める集合住宅地」である、「厳重に見張られ、電気的に監視されている『ゲーテッド・コミュニティ』」について、「コミュニティ」とは名前だけであり、「居住者が法外な金を払ってまでも手に入れようとするのは、侵入者を気にすることなく、平穏に生活する権利である」と述べています。
 著者は、「このコスモポリタン的な実業ならびに文化産業界のグローバル・エリートが生活の大半を送る『防御区域』は、繰り返し言うならば、コミュニティのない領域である」と述べ、「『成功者の離脱』は、まずもって、コミュニティからの闘争である」と断じています。
 第5章「コミュナリズムの二つの源泉」では、「成功者がコミュニティ的な義務の窮屈なネットワークから手にできるものはほとんどなく、このネットワークに捕まることで失うものは、すべてである」と述べ、コミュニティという概念に不可欠なものとして、「どれほど有能であるか、重要であるかとは関わりなく、メンバーの間で利益を均等に分かち合う」という「友愛的な義務」であるとして、「この特徴こそが、『コミュナリズム〔共同体主義〕』を『弱者の哲学』にする」と述べています。
 そして、「ペグ・コミュニティ」と表現することができ、「中心に位置するものが何であれ、参加者の間に生まれる絆が一時的なものであるのみならず、表面的でいい加減な性質」を持つ「美的コミュニティ」と、そのほとんどあらゆる点において対立物に当たる、「長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から組み立てられる必要」がある「倫理的なコミュニティ」の2つを挙げ、「2つのまったく異なる型のコミュニティは、目下流行中の『コミュナリズムの言説』において、あまりにもしばしば一まとめにされ、混同されている」と指摘しています。
 第6章「承認を受ける権利、再配分を受ける権利」では、「個体的 solid」な状態の近代が、「先験的に a priori『究極の状態』を想定してた」のに対し、「液状的な近代 liquid modernity」は、変化の力を解き放ったため、「液状的段階」の政治的戦略家や文化的スポークスマンは、「試行錯誤の末にたどり着くべき到達点としての社会的公正のモデル」を放棄し、変わりに「人権」の規則・基準・尺度を指示していると述べています。
 そして、「近代的な生活の2つの側面」である、
(1)人生の至高の目的が快楽あるいは幸福であると宣言し、獲得できる快楽や幸福の総量が途切れることなく絶えず増え続けることを、社会と権力の名において保証する、と約束したこと。
(2)伝統的社会からの離脱。
の2点が、「周囲の人びととの比較と言うよりも、昨日の状態との対比によって評価された」という「人類史の大半を通じて機能してきた」法則の規制力を、「完全に削ぐのに大きな役割を果たした」と述べています。
 著者は、社会的環境の変化の「最も影響力を孕んだ側面の一つ」として、「再配分の問題から『承認の問題』を解き放ってしまったこと」であると述べ、「今日では、承認の要求は、配分をめぐる公正さに何ら関わりなく表明される傾向がある」と指摘しています。
 第7章「多文化主義へ」では、「エスニック・マイノリティ」について、「エスニック・マイノリティをコミュニティとして再生産させるような選択は、選択の自由よりも、むしろ強制の産物である」と述べ、「人びとは、自らの意志などおかまいなしに、『エスニック・マイノリティ』を割り当てられ」、「囲い込みは、それに関わる『強力な集団』によって管理され、そうした管理があることで永続的なものになる」と述べています。
 そして、「近代的な国家建設の段階からポスト国民国家の局面への移行」に関して、実際の国家建設には、「ナショナリストとしての顔とリベラリストとしての顔」という2つの顔があり、コミュニティの運命にとっては、「新興の国民国家のナショナリストの顔とリベラリストの顔のどちらを選んだところでほとんど違いはなかった。ナショナリズムとリベラリズムは、戦略の好みに違いはあったかもしれないが、同じ目的を持っていた」として、国家建設プロジェクトが、民族的コミュニティに開いて見せた前途は、「同化するか、消滅するか」という選択であり、「前者は差異の全滅を意味し、後者は、異質な者の全滅を意味していたが、いずれにしても、コミュニティの存続の可能性は残されてはいなかった」と述べています。
 著者は、「差異 difference へのこの新たな無関心 indifference」が、「文化的多元主義」の承認として理論化されたと述べ、「この理論によって形成され、支持される政策こそが、『多文化主義 multiculturalism』」であり、「表向きは、広く門戸を開く寛容という前提、コミュニティが自己主張する権利への配慮、コミュニティが選んだ(もしくは引き継いだ)アイデンティティの公的な承認が、多文化主義を導いている」が、「本質的には保守的な力」として働き、「その影響によって、公的には認められそうもない不平等が、『文化的差異』――大切に育み、守るべきもの――に作り替えられてしまう」ことを指摘しています。
 そして、「文化主義的」な世界観が、「不平等がこの世界観自体の大きな根拠だということ」を語らずに済ませていることを指摘し、「不平等が生み出す分裂を、選択の自由が必然的に持たざるを得ない側面」として表現することは、「その自作自演の犯行における主要な要素の一つだ」と述べています。
 第8章「はきだめ――ゲットー――」では、かつて人びとが、「自分が属していて、保護を当てにできる(そして願わくば、実際に得られる)と信じるに足る場所を想定していたが、その全体の中で『社会』がしめていた場所に、ぽっかり穴が開いている」と述べ、かつて「社会」という語が意味していたような国家は失われ、「情容赦なく個別化され、民営化される世界にあって、安全の確保も、人間生活のあらゆる側面と同じく、『自分の手でする』ほかない仕事となる」と述べています。
 そして、「安全なコミュニティ」(安全としてのコミュニティ)に向けての長い行軍の視界」に、「自発的ゲットー voluntary ghetto」なる「奇怪な変種(ミュータント)」がぼんやり現れると述べています。
 また、「ゲットー化〔貧しい人々をゲットーに隔離すること〕は、廃棄物処理メカニズムの有機的な一部」であると述べ、貧しい人々は、「もはや『生産者の予備軍』として用済み」になり、代わりに、「欠陥をもった、それゆえに役立たずの消費者とされる」と解説するとともに、「ゲットー化は、貧困が犯罪に転嫁するのと対応して起こり、それを補完するものである」として、「ゲットーと刑務所とは、『望ましくない連中を完全に縛りつけておく』、つまりは、閉じ込め、動けなくする戦略の2つの型である」と述べ、「監獄は壁のあるゲットーであり、ゲットーは壁のない監獄である」ともいえるとしています。
 第9章「多文化の共生か、人間性の共有か」では、「近代知識人の現代的化身たる知識層が、『多文化主義』の呪文を唱えるとき」には、「申し訳ない。今の窮地からあなた方を救い出すことはできません」と言っていると述べ、現代の知識層には、「人間は本来どのような境遇にあるのが望ましいのかということについて、何ら語るべきことが」なく、彼らが「多文化主義」、かの「イデオロギーの終焉というイデオロギー」に逃げ込もうとするのは、このためとするラッセル・ジャコービィの言葉を紹介しています。
 そして、今日の知識層が経験してきた、「イデオロギーの終焉というイデオロギー」の目を見張る疾走をもっともらしく説明するものとして、
(1)権力や支配の新しい戦略としての、撤退 disengagement
(2)規範による統制に今日代わるものとしての、過剰 excess
の2点を挙げています。
 著者は、「多文化主義者の『イデオロギーの終焉というイデオロギー』は、せいぜいがところ撤退を通じての権力、過剰を通じての規制という2つの影響力の下で人びとがおかれた状況のうわべを飾る、知的虚飾として解釈すべきものである」と提案しています。
 終章「ケーキも食べればなくなる」では、「私たちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。安心は、幸福な生活を送るのになくてはならないものである。しかし、私たちが現に住んでいる世界では、ますます提供が難しく、保証をためらうものとなっている」と述べています。
 そして、「コミュニティが、真に重要な戦場において、今日の原子化した社会の病理と真っ向から対決しようとするならば、思い起こすべき課題」として、
(1)権利上(でジュール)の個人の運命を事実上(デファクト)の個人の能力に作り替えるのに必要な資源の平等化
(2)個人的な無力や不幸に対する集団的な保証の構築
の2点を挙げています。
 著者は、「もしコミュニティが、諸個人が構成する世界で存在しようとするならば、それは分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティでしかありえない(し、またそうでなければならない)。それは、人を人たら占める平等な権利や、そのような権利の上で人々が平等に行動しうることについて、関心や責任を有するコミュニティである」と述べています。
 本書は、普段、明確に意識することなく多用している「コミュニティ」の意味について、深く思考するための「潜水具」を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「コミュニティ」という言葉は、いろいろな場で多用されており、特に行政の計画などの中では気楽にたくさん使われている印象があります。そして、無条件にさも良いものであるかのように、そして、求めれば手に入るものかのように使われていますが、それが対価を、しかも自由という対価を必要とするもので、容易には手に入らないものである、ということをきちんと考えていなかったのではないでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・「コミュニティ」は求めれば手に入るものだと思っている人。


■ 関連しそうな本

 ジークムント バウマン (著), 森田 典正 (翻訳) 『リキッド・モダニティ―液状化する社会』
 ジグムント・バウマン (著), 伊藤 茂 (翻訳) 『アイデンティティ』
 ジグムント バウマン (著), 中道 寿一 (翻訳) 『政治の発見』
 ジェラード・デランティ (著), 山之内 靖, 伊藤 茂 (翻訳) 『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』 2007年07月24日
 ロバート・D. パットナム 『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』 2006年08月28日
 ウェイン ベーカー (著), 中島 豊 (翻訳) 『ソーシャル・キャピタル―人と組織の間にある「見えざる資産」を活用する』 2007年06月27日


■ 百夜百音

P.S.あなたへ・・・【P.S.あなたへ・・・】 あみん オリジナル盤発売: 1983

 代表曲「待つわ」を含むデビューアルバム。イントロからいかにもポプコン出身っぽいヤマハ色たっぷりなアレンジのように感じてしまったのは、同じ編曲者の「ひとり上手」(中嶋みゆき)を連想してしまったからでしょうか。サビではひかえめにレゲエテイストです。
 引退後の加藤晴子が、昔歌手だったことを子供に秘密にしていた、というエピソードはなんだかドラマや漫画みたいでおもしろいです。「流星課長」のマリリン伝次郎みたいな。

投稿者 tozaki : 2008年01月12日 07:00

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