« 数学者の無神論―神は本当にいるのか | メイン | 番と衆―日本社会の東と西 »
2008年03月06日
宿場の日本史―街道に生きる
■ 書籍情報
【宿場の日本史―街道に生きる】(#1141)
宇佐美 ミサ子
価格: ¥1785 (税込)
吉川弘文館(2005/08)
本書は、江戸時代の「宿場」を題材に、「『宿』という都市空間の内実にかかわるさまざまな問題、具体的には、宿の機能や役割、宿駅という公のシステムを支えた民衆の負担、つまり、宿駅制度という公権力を維持していくための民衆の動向について『明』と『暗』の部分からアプローチ」したものです。
プロローグ「五街道と脇往還」では、元禄4年(1691)に、長崎の出島から江戸までの旅をしたオランダ商館付属医師のドイツ人ケンペルが見た東海道の宿場について、「街道は幅広くゆったりとしている」ことや、「街道には一里塚が築かれ」、「国や大・小名の領地」の境が明示されていることなどを評価している一方、「街道筋に汚物がたまっていること、旅籠屋の風呂や便所の不衛生なこと、交通を阻む関所や河川交通の不便さ、稚拙な橋梁技術」などに着眼していることを紹介しています。
第1章「宿駅と機能」では、江戸時代の宿駅が、追っていた「重要な役割」として、
(1)旅人や旅人の荷物を宿から宿へ輸送する役目で公儀役としての人足や馬が輸送業務に携わり、機能を果たすこと。
(2)公の旅行者のための宿泊機関を提供し、公家・諸大名・幕閣の役人、公用の武士の旅宿の利便に供すること。
の2点を挙げ、「各街道の宿駅には広義の輸送に必要な人足や馬が常時用意され、いつ、いかなる場合でも、公の旅行者や荷物の輸送が滞りなく行なわれていた」と述べています。
第2章「東海道小田原宿の生態」では、「宿駅の町人の役負担で最も責任ある重要な役」として、人馬役負担者を挙げ、「東海道の宿駅では100人の人足と100疋の馬をそれぞれ常備し、それを確保しなければならない」と述べています。
第3章「宿駅の財政と施設」では、「ほとんどの宿が赤字財政のため、その行き詰まりを打開する方策を試みるが、復帰は用意ではなかった」と述べ、幕府も、「あらゆる救済手段、宿再生の方策を講じた」と述べています。
そして、「過酷な人馬継立の負担に耐え切れず、宿方では、たびたび、宿経営の疲弊を訴える嘆願書を提出している」ことを紹介しています。
また、「公家や幕閣の重要な地位にある高貴の人びと、いわゆる支配層の人びとが休・宿泊するために設けられた施設」である本陣や、規模ははるかに小さいが、本人と同様の機能を持つ脇本陣について解説しています。そして、「格式が高いだけに営業状態は必ずしも良好とは言えず、次第に困窮をきわめるようになっていった」と述べています。
第4章「川留と関所」では、江戸時代の河川の架橋禁止に関して、
(1)軍事的・政治的目的によるとする見解
(2)経済的・自然的理由(地形・地質条件に対応する技術的な側面)
(3)前二説を並列的に取り上げる見解
の3つの説を紹介しています。そして、渡舟以外の河川では、「渡渉」(としょう・かちわたり)など、「川越の人足の手を借りて規定の渡し場から渡河しなければならないという原初的方法」であったと述べています。
そして、河川が増水すると、その場に留め置かれ、「川留は五月の霧雨期のことがもっとも多く、最低3日、時には1ヶ月余にも及ぶ」ため、公用旅行者やわずかな路銀で物見遊山に出かける人などの被害は甚大で、「渡河の許可がいつ下るのか一日千秋の思い」であったと述べています。
また、酒匂川の渡しから「巡礼街道」と称する脇街道を抜け、「旅人たちは、本街道を通らず、この脇道を通り茶屋でゆっくりと休泊、村民の手を借りて、小船で酒匂川を越した」ため、酒匂川の川越業務に携わっている村々が、道中奉行所に「厳重な取締りを要請」したが、この「廻り越し」は増える一方であったと述べています。
さらに、交通を阻害するもう一つの要因である「関所」について、その設置目的は「江戸の防衛」にあり、「入鉄砲に出女」といわれ、武器の持込とともに、「諸藩の大名の江戸在府にあたり、人質として江戸に居住することを強いられていた大名の妻たちの江戸出府」であったと述べています。
第5章「宿場の風景」では、享保期ごろから急速に発展した「旅行ブーム」により、「克明の道中の風景や、地方で遭遇した出来事、見知らぬ人との出会い、宿の食事、風習、行事など、微に入り、細に入りメモし日記に残す人も少なくなかった」として、これらの道中日記の中には女性の書いた日記も多く、「とくに江戸時代の女性の旅は『怖い』というイメージを払拭させた」として、「女たちのたびが、自らの意思で楽しみつつ名所や旧跡を巡り、貪欲に知識を得ようと書き記したとも言われる」と述べています。
また、幕府が、「宿駅としての規範、秩序を維持するため」、厳しく規制・統制を行い、「旅籠屋に宿泊する旅人の宿帳には、国・氏名・在所など詳細に記させることにした」と述べています。
第6章「飯盛女の設置」では、旅籠屋が逗留者の増大を図るため、「いかなる手段を講じても旅行者を滞留させる必要があった」ため、「機小屋で奉公する下女に売春を強要し、飯盛女の不足分を補うというあこぎな商売をごく当たり前のように繰り返していた」と述べています。
そして、小田原宿の『宿勘定帳』より、収入の7%が「飯盛女助成刎銭」という項目であり、「宿の収入源の一つとして、大きな役割を果たしているのではなかろうか」と述べています。
第7章「飯盛女の生活と請状」では、「飯盛女の身上書であり、身元保証書というべき性格のもの」である「請状」には、「内容も微に入り細に入り記載」され、「飯盛女個人の実態がすべて凝縮されている」と述べています。
そして、請状には必ず奉公理由が書かれ、多い理由には、
(1)年貢が納められないこと
(2)不作の年で、飢死同然となってしまったこと
(3)長期の病気療養
(4)廻国巡礼による路銀不足
などに凝縮されると述べています。
著者は、飯盛下女奉公の雇傭条件が、「厳しい制限があり拘束される」ことについて、「近世社会における男女の性差別構造の典型であったと言っても、言い過ぎではないだろう」と述べています。
第8章「宿場と助郷」では、「宿の常備人馬の補填」のため、「宿に近い近隣の村々から提供してもらう」人馬のことを「助郷(すけごう)」と読んだことを解説しています。
第9章「富士山噴火と助郷村」では、宝永4年(1707)11月23日の富士山の大噴火による小田原領内の農村の被害が甚大であり、「小田原宿の助郷役を負担する農村は、宝永6年の富士山の噴火による疲弊を理由に、次々に助郷役の軽減や免除を願い出る村が増えていった」と述べています。
第10章「助郷騒動」では、「近世中期から後期にかけて、全国的に助郷紛争が頻発した」と述べ、交通量の増加により、宿の常設されている100人と100疋の人馬では継立ができないため、助郷村の助成が必要になったが、緊急の継立のために宿では若干の人馬を「囲人馬」として温存しており、これをめぐって宿と助郷村が対立したと述べています。
第11章「朝鮮通信使の来聘」では、朝鮮通信使の来聘が、「唯一の国際交流であり、日本の維新を海外に示す最大のイベント」であったとして、「将軍の代替わりごとに400~500名余の行列をなして日本を訪れ」たことが述べられています。
第12章「村々の負担と供応」では、朝鮮通信使・琉球人・オランダの甲斐丹(かぴたん)一行などの外国人の日本訪問が、「国家の重大行事」であり、宿役人は、「人馬不足によって輸送が滞るようなことがおこる」ことを最も危惧していたと述べています。
また、朝鮮通信使一行の宿泊に際して、饗応に用いる食料品を周辺の村々から提供させていたとして、さらに、各村々で料理人や給仕人が割り当てられ、「藩内の賄所に、羽織・袴の正装で『御目見』した」ことは、「村から御公儀御用の役に個人指名されたことは、個人にとって最高の名誉ではあるが、耕作期などにおける役は、過酷な負担であっただろうと推察する」と述べています。
本書は、現在では全国で衰退し、わずかに残るのみとなった「宿場」の往時の姿を伝えてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
先日、群馬県の旧三国街道にあった須川宿跡を見てきましたが、ここは、明治に入ってから手前からバイパスする新道ができてしまい見事に寂れてしまったところで、40年くらい前の写真を見ると、朽ち果てた廃屋が物寂しい感じでしたが、現在では「たくみの里」として復活しています。
ふもとの温泉が湧く「湯宿」との客の取り合いになり、須川宿の方では飯盛女を置いていることを売りにしていたようです。
■ どんな人にオススメ?
・江戸時代の旅に思いを馳せたい人。
■ 関連しそうな本
宇佐美 ミサ子 『宿場と飯盛女』
宇佐美 ミサ子 『近世助郷制の研究―西相模地域を中心に』
児玉 幸多 『宿場と街道―五街道入門』
渡辺 和敏 『東海道の宿場と交通』
児玉 幸多 『宿場』
新人物往来社 『異国人の見た幕末・明治JAPAN』
■ 百夜百マンガ
テレビドラマ化もされて、それなりに知られている作品なのですが、どうしても中島みゆきの曲を思い出してしまうのは歳のせいでしょうか?
投稿者 tozaki : 2008年03月06日 06:00
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.pm-forum.org/MT3/mt-tb.cgi/1666
【悪女(わる) 】