« 人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ | メイン | 先進優良事例に学ぶ地産地消と地域再生 »
2008年03月10日
未完の明治維新
■ 書籍情報
【未完の明治維新】(#1145)
坂野 潤治
価格: ¥777 (税込)
筑摩書房(2007/03)
本書は、幕末維新期の「武士デモクラシー」を描いたものであり、著者は、「幕末維新期にも明治年間にも昭和初期にも、自由主義や民主主義は単なる思想ではなく、政治的実践の課題だった」と述べています。
「プロローグ」では、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の4人の明治維新の英雄間の対立を、図式化しています。
大久保利通
(殖産興業)
/ \
内地優先/ \富国強兵
/ \
/ \
木戸孝允 西郷隆盛
(憲法制定) (外征)
\ /
\ /「征韓論」
公議輿論\ /
\ /
板垣退助
(議会設立)
著者はこの図で示したいこととして、
(1)大久保と板垣、西郷と木戸とは政策的な共通点がなく、人間的にも仲がよくなかった。
(2)明治政府内の四路線の合従連衡の過程を見ていくと、「憲法制定」路線は幕末政局には存在しなかった。
の2点を挙げています。
第1章「明治維新の基本構想」では、勝や大久保を通じて幕府内の開明派や親藩の越前藩などに支持された思想家として、
・大久保忠寛の「公議会論」
・佐久間象山の「強兵論」
・横井小楠の「富国論」
の3人を挙げ、「公議会論」が、諸大名の「共和政治」の原型であり、「強兵論」と「富国論」が、「割拠」しての「富国強兵」に理論的根拠を与えるものであると述べています。
そして、幕府が、わざわざ自己の権力を削減するような「公議会=藩主議会」を創設する必要は、「欧米列強に日本の挙国一致を誇示して、『対等開国』を行うためにこそ必要だった」と述べています。しかし、日本国の「元首」である天皇と議会制度である「藩主議会」の間になくてはならない「政府」について、『薩土盟約』に基づく建白やそれを受けた『大政奉還の上表』において言及がなく、「完全に空白になっている」ことが、徳川家と薩摩・長州の対立を招き、王政復古をもたらし、鳥羽・伏見に戦いを惹き起こしたと述べています。
第2章「幕府か薩長か」では、「藩主議会」を開いて再度「政府」に返り咲きたい徳川慶喜と、「藩主議会」抜きで、朝廷の権威と自分達の武力とで申請をまず作ってしまいたい薩長とが、武力衝突の覚悟を固めていったと述べています。
第3章「大蔵官僚の誕生」では、「王政復古後に大蔵官僚の誕生が、横井小楠の『富国論』や佐久間象山の『強兵論』に待ったをかけた」として、大蔵官僚が、「まず健全な中央財政を確立することが最優先の課題」だと主張したと述べています。
著者は、「明治4年(1871)旧暦7月の廃藩置県で、中央政府が全国の歳出入を一手に収めた前後には、今日のそれと比べても遜色のない大蔵官僚がすでに誕生していた」と述べています。
また、長州の井上馨の大蔵省追放が、「緊縮財政から積極財政への転換点を示すものであった」と述べています。
第4章「三つの『官軍』と『征韓論』」では、2005年似発表された大島明子氏の「御親兵の解散と征韓論政変」を取り上げ、「この論文はこれまでの明治政治史の再考を迫る三つの重要な指摘を行なっている」として、
(1)西郷隆盛らは「征韓」より「征台」を本命としていた。
(2)御親兵が再編されていく明治4・5年の経緯を、もう一つの「官軍」である東京、大阪、仙台、熊本の四鎮台の充実過程と比較するという視点。
(3)明治4年3月から5月にかけて薩・長・土三藩兵によって東京に設立された「御親兵」の正確な数を、歩兵5649名、砲兵539名、騎兵87名、合計6275名、と特定したこと。
の3点を挙げています。
そして、明治6年の明治政府には三種類の「官軍」があったとして、
(1)御親兵から近衛兵に再編された約6300人
(2)戊辰戦争の中途から朝廷側に馳せ参じた約1万5000人の旧藩兵
(3)徴兵令施行により集められようとしていた農民約3万人
の3点を挙げています。
著者は、台湾出兵に際しての鹿児島徴募隊の参加から、「薩摩軍団が『征台論』から『征韓論』に急変したとは考えられない」として、「日露戦争から韓国併合に至る時代に『征韓論』が急に人気を集め、自由党の創設者自らが『征韓論』の第一人者であったことを誇示したり、台湾出兵論の中心的人物だった桐野利秋が、その崇拝者によって『征韓論』の代表に書き替えられたりしたのではなかろうか」と指摘しています。
第5章「木戸孝允と板垣退助の対立」では、長州の木戸孝允が、「廃藩置県を断行した以上、憲法の制定なしには新政府の正統性を長期的に維持できないことを痛切に感じていた」として、そもそも「憲法調査を自己の最優先課題として、岩倉使節団の副使となったようである」と述べています。
そして、「長・土盟約」の目的が、「政府の目的を立、法を重んずるの方法」をつくりあげること、すなわち「何らかの立憲政治の樹立のために『民撰議員派』と『憲法制定派』が歩み寄ることにあった」と同時に、「木戸と大久保の会談も実現させて、大久保を薩派主流の『外征派』もしくは『旧官軍派』から切り離すことも計画されていた」と述べています。
第6章「大久保利通の『富国』路線」では、著者が、ジャーナリストの田原総一朗氏から、「熟語としての『富国強兵』という言葉は誰が、いつ使い始めたのか」と質問し、この「奇襲攻撃」に真っ当に答えられなかったことは、「今でも思い出すと顔が赤くなる」と述べています。
第7章「『維新の三傑』の死」では、「明治維新の近代化政策のすべてにおいて西郷は大きな役割を果たしたが、それは単に下の者に担がれて神輿に乗っただけではない」として、佐久間象山の近代化論を吸収し、勝から大久保忠寛の封建議会論を聞かされ、「理論や思想の面でも、彼は大久保の『富国』論、木戸の『立憲制』論ぐらいは十分に理解していた」と述べています。そして、「後世の西郷像は、彼の識見と実践を極端に矮小化したものである」と述べ、「政治家はよく、自己の評価は後世の史家に委ねるというけれど、西郷の事例は後世の史家ほど当てにならないものはないことを示している」としています。
第8章「立憲派の後退」では、「地租改正で地租を固定税としてしまったこと、西南戦争を前にして、その固定税の地租をさらに引き下げてしまったことが、不換紙幣インフレへの政府の対応を困難にしていた」と述べています。
そして、西南戦争後の財政経済の危機打開策が、
(1)外債募集
(2)増税
(3)財政緊縮化
の3つしかなかったと述べています。
また、「国際収支の悪化と財政危機のいわゆる双子の赤字の下で、大久保以来の『富国路線』を貫こうとした黒田や五代の方策は、二度にわたって天皇もしくはその側近によって拒絶された」と述べています。
「エピローグ」では、「『強兵』といい『富国』といっても、また『立憲制』といい『議会制』といっても、すべて武士=氏族の代表者が推進したもの」であったと述べています。
そして、その後、薩長藩閥政府と呼ばれた明治政府が、「『革命派武士』によってではなく、合理主義的な『文武の官僚』によって運営されるようになった」と述べています。
本書は、明治維新に対する認識を深める助けとなる一冊です。
■ 個人的な視点から
歴史者が好き、という人の中でも幕末から明治維新にかけてが好きだという人が結構な数いるわけですが、現在の政治体制にかなりつながってくるだけになかなか客観的に見ることは難しかったのではないかと思います。
「維新の志士」という一言で括られていた人たちの評価に、常に新しい息吹が吹き込まれることで激動の時代の姿がよりクリアに見えてくることを期待します。
■ どんな人にオススメ?
・明治期の姿をよりクリアに見たい人。
■ 関連しそうな本
坂野 潤治, 田原 総一朗 『大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!』 2006年11月08
坂野 潤治, 三谷 太一郎 (著), 日本の近現代史調査会 (編集), 藤井 裕久, 仙谷 由人 『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの〈上〉』
五百旗頭 真, 瀧井 一博, 伊藤 正直, 小倉 和夫 (著), 日本の近現代史調査会 (編集), 藤井 裕久, 仙谷 由人 『日本の近現代史述講 歴史をつくるもの〈下〉』
坂野 潤治 『明治デモクラシー』
坂野 潤治 『近代日本政治史』
坂野 潤治 『昭和史の決定的瞬間』
■ 百夜百マンガ
戸川万吉が自分の才覚のみでのし上がっていくのに対し、「結局は勝ち組かよ!」と諦めの気持にさせてくれる作品です。でも、読んでいる時には自分が安田グループの御曹司の気分になってしまうのですが。
それにしても現実に「安田財閥」がある中で、堂々と使ってしまって大丈夫だったのでしょうか。
投稿者 tozaki : 2008年03月10日 22:00
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.pm-forum.org/MT3/mt-tb.cgi/1670
【俺の空 】