« 地方財政改革の政治経済学―相互扶助の精神を生かした制度設計 | メイン | 算法少女 »

2008年04月05日

新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩

■ 書籍情報

新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩   【新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩】(#1171)

  今西 光男
  価格: ¥1470 (税込)
  朝日新聞社(2007/6/20)

 本書は、「新聞の隆盛期といわれた20世紀前半の大正時代から昭和戦前期にかけて、『大日本帝国』の膨張による日中戦争の長期化と戦時体制の強化によって、新聞の自由が次第に奪われ、新聞統制の結果、ついに国策新聞化してしまった『新聞の屈服』を、新聞経営の視点から改めて検証」を試みているものです。
 第1章「新聞はいかにして一大敵国となったか」では、第一次大戦中にわが国最大の産業都市となった大阪を舞台に、「大阪朝日新聞(大朝)と大阪毎日新聞(大毎)」が、「特ダネや速報で激しくしのぎを削っ」ていたことを紹介し、懸賞投票や連載小説「虞美人草」など、イベントの開催が、「新聞販売の拡張手段になり、その知名度の上昇は広告媒体としての価値を高め」、「商業新聞」と呼ばれるようになったと述べています。
 そして、戦争、スポーツ、航空ショーといった大ニュースやイベントが、国民を熱狂させ、「新聞読者を激増させた」ため、「1895年から1901年にかけては、半期ごとに2万~4万円もの純益を上げ、繰越金も雪だるま式に増えていた」として、中でも朝日は、「きわめて高率な出資者(株主)への配当」を誇り、1907(明治40)年上半期には「14割8分」という、「出資金を上回る驚異的な配当を記録した」と述べています。
 また、大朝が、その「自由な論調」により、「読者の知的欲求を満たすとともに、世界の動向や政治問題に目覚めさせた。大正デモクラシーという言われた社会意識の高まりは、新聞を通じて、さらに各階層、地方へと広がろうとしていた」と述べ、「大朝は時の権力から『一大敵国』と名指しされる、権力批判の牙城となっていた」ため、「朝日新聞、とりわけ大朝が、言論弾圧の標的とされたのは、当然ともいえる成り行きだった」と解説しています。
 そして、1918(大正7)年8月に起きた「白虹(はっこう)事件」について、「白い虹が太陽を貫くように見えるのはその国にとって兵乱の兆しである」という故事に基づく表現である「白虹日を貫けり」という言葉を内務省・警察当局に見咎められ、「権力の転覆、あるいは『皇室の尊厳』を冒す疑いがある」として告発されたと解説しています。
 この事件で朝日新聞は大きな打撃を受け、「全面降伏」を余儀なくされた裏の事情として、朝日新聞は、創業期に「政府の機密費からの融資を受けていた」という過去があったことが紹介されています。
 さらに、有山照雄・東京経済大教授の「白虹事件は、日本のジャーナリズムにとって最大の転換点であり、現在のジャーナリズムをも根幹のところから緊縛している」という言葉を紹介した上で、朝日新聞が、「その内部では、経営者と資本家である社主家との間で、激しい暗闘が何度も繰り返され」、その中心となっていたのが緒方竹虎であったと述べています。
 第2章「『筆致』緒方の誕生」では、「筆致」という「正式の役職名ではない」が、「その権威と実力を表現する呼称として、あるいはその体制をさして使われた」言葉について、「新聞者の編集部門・方針を掌握することであり、その最高責任者をさす言葉でもある」と解説しています。
 そして、緒方竹虎が、1912(明治45)年7月30日に、明治天皇が崩御、大正天皇が即位した際、入社1年足らずで、「政治記者にとって最大の取材対象」である「新しい元号はどうなるのか」という大スクープを物にした経緯を述べています。
 緒方は、1925(大正14)年2月に、編集局長に就き、満37歳、政治部長、支那部長を兼務したまま、東朝の筆致を担うことになり、ここに「緒方筆致」が誕生したと述べています。"
 第3章「軍部に抗することはできたか」では、大朝が、「ワシントン会議で示された主力艦対英米6割案に賛同する社説を掲げ、対英米7割を主張する海軍などの姿勢を批判した」こと等を挙げ、「普選運動、軍縮問題とも、大学、新聞が一体となって世論の盛り上げが大きな力になった」と述べています。
 しかし、「大朝の期待とは裏腹に、『武力がオールマイティの時代』がまさに日本を多い、その武力による『猪突主義による顛落』が現実になろうとしていた」として、「その弾圧の嵐は、朝日とりわけ大朝に向っていた」と述べています。
 そして、「大朝がひとり、集中砲火を浴びることになった」理由として、「普選問題、軍縮問題でこれまで共闘してきた東朝が、実は満州事変の直前に『変節』していたから」であったと述べています。
 さらに、「新聞経営にとっては追い風が吹いていた」として、「地方の読者獲得のために、地方版の拡充が行われ、1930(昭和5)年までに一県一版の地方版が完成」し、「出兵している地元紙団の動向などが掲載され、それが大きな目玉になった。従軍している兵士の留守宅では、新聞は不可欠の情報源になった。肉親の安否を知るには現地の特報が載る新聞しかなかった」と述べています。
 第4章「二・二六事件の仁王立ち」では、緒方が「政府に協力的な姿勢をとるようになった」理由として、「首相に就任した先輩の広田や、懇意だった米内光政が、新聞界の代表として、されに個人的相談相手として、緒方を指名した」ことや、「日増しに強まる軍部の構成、軍国主義化の情勢をみて」、「これに歯止めをかけるには、新聞紙上における言論活動だけではもはや難しくなっていると判断し、政府中枢に直接、発言力、政治力を発揮しうる立場に自らを置こうと」したという「計算」があったと述べ、「そのことは、『新聞人』としての緒方の限界を示すとともに、緒方のその後の人生を大きく変えることにつながることになった」と述べています。
 第5章「日米開戦への道」では、日本の前途を憂慮した緒方が、「密かに中国との『和平工作』に取り組んでいた」ことを、「新聞記者本来の職分を逸脱するものであったが、三国同盟の締結、日米開戦の危機という非常時に、このまま、手をこまねいているわけにはいかないと判断した」ためであると述べています。
 第6章「ゾルゲ事件と中野正剛の憤死」では、1941(昭和16)年10月15日朝、「元朝日新聞上海特派員で満鉄嘱託、尾崎秀実が検察当局にスパイ容疑で逮捕され」、「3日後の18日にはドイツ人新聞記者リヒアルト・ゾルゲが、同容疑で捕まった」事件について述べ、「緒方や編集局長の野村秀雄らは尾崎逮捕の極秘情報をつかむや、ただちに事件の朝日への波及を懸念したと思われる」が、「厳しい緘口令がしかれ、朝日新聞にはなかなか情報が集まらなかったであろう」と述べています。
 また、12月8日朝、毎日新聞が、日米開戦の歴史的スクープを掲載した経緯について、東日政治部黒潮クラブ(海軍省担当)記者後藤基治記者らの徹底取材があったとして、ある海軍提督(のちに米内光政だったことが明らかにされる)の私邸に招かれた記者が、提督がトイレに立った隙に、鞄の中の「対米英作戦要項」に「開戦時期は12月1日から10日までのX日」とあったことを覗き見し、提督から、「このカバンの中には、君が見たがっている書類がある。だがこれを見せたら、僕は銃殺される。重臣、大臣でも銃殺だ」と言われたことが述べられています。
 そして、「日米開戦」という新聞にとって歴史的大事件の日に、「朝日新聞は完敗していた」と述べています。
 第7章「『反緒方』のクーデター」では、「東条英機内閣による『ゾルゲ』と『中野正剛』の二つの事件は、『朝日新聞の顔』である緒方竹虎の維新とその社内体制を大きくゆるがした」として、事件の摘発が、「その標的が朝日新聞であり、とりわけ緒方に向っていることを示していた」と述べ、「これまで、緒方が朝日社内で重用され、社主家を上回る実権を振るうことができたのは、緒方の持つ政府や軍部への影響力であり、権力との調整能力があったからだ」が、「時の独裁的権力者・東条英機はその緒方を明らかに敵視していた」と述べています。そして、白虹事件の際と同様に、「権力の弾圧が加えられたときに、それに呼応するかのように、朝日新聞社では社内抗争が勃発する。そうした朝日の体質、社内風土を、政府や軍部はすでに把握していた」として、1941(昭和16)年10月4日付の内閣情報局の調査文書が、朝日新聞の経営体質を「個人商店特有の老舗思想」であり、「諂いが出世の第一」と看破していることについて、「残念ながら、現在の朝日新聞についてもそうだと肯かざるを得ない」と述べています。
 また、「『筆致』としての社論形成や対外的な影響力では緒方は自他共に認める存在だったが、車内のバランスやさまざまな思惑にも配慮しなければならない社内人事については苦手」で「人事について口を出すことも稀だった」と述べています。
 第8章「潰された和平工作」では、戦時体制下に、「統制は新聞社のみならず、取材現場である記者クラブにまで及んでいた。というより、記者クラブ制度の確立が統制の大きな柱になっていたといったほうがいいかもしれない」と述べ、「記者クラブの統制強化で、記者の意識も行動も変化していた」として、緒方が、「一連の情報公開、統制緩和に賛同すると思っていた記者の間から、『色々なことを話していただくのはありがたいが、どの程度記事にしてよいか判らなくなる」との苦情が出て驚いた。身も心も『御用クラブ』になっていた。緒方は検閲を緩和しようと務めたが、実態は変わらなかった」と述べています。
 第9章「統制に屈服した新聞」では、大空襲などで主要交通網が寸断される事態となっても、国民が少なくとも一紙を読めるように、「中央紙と地方史との販売地域を分け、大都市部の印刷設備についても共同化を図る」とする「新聞非常態勢に関する暫定措置要項」が、1945年3月13日に閣議決定され、「この結果、東京、大阪、福岡の三大都市圏以外の道県においては、中央紙(全国紙)は配達をやめ、一県一紙の地方紙のみしか販売できなくなった」とする「持分合同」について解説し、さらに、地方紙の強化のため、中央紙から人材と資材(輪転機など)の提供が行なわれ、「この結果、地方紙の取材力、設備などは著しく強化」され、「戦争末期という非常事態かとはいえ、文字通り一県一紙の独占的支配を確立し、中央紙からの人材、機材によって、最新の技術と編集ノウハウをつかんだ県紙が、戦後、それぞれの県で圧倒的な市場支配(購読率)を確保したのは、この『持分合同』といわれる新聞統制の結果だったのである」と解説しています。
 第10章「新聞にとって『戦争』は終わっていない」では、「戦時下で進められた新聞統制の結果、新聞は大きく変容した」として、1935(昭和10)年ごろには全国で1200あった日刊紙が、統制の結果、1943年にはわずか55社に減少し、「しかも用紙配給や価格の統制、さらには共販体制移行による販売部門の共同化や持分合同によって、新聞は政府の統制下に入った」と述べています。
 そして、「かつて大正時代から、昭和初期にかけて、朝日新聞をはじめとする新聞は時の権力から『一大敵国』視され、さまざまな弾圧を受けてきた」が、「残念なことに、いまや朝日新聞も含めた日本の新聞は、『一大敵国』と呼ばれるような、権力から本当に恐れられる存在ではもはやないようだ。戦時下の新聞統制で作られた新聞業界の棲み分けと与えられた既得権の数々によって、敗戦と占領という激動を超えて、半世紀以上にわたって新聞産業を反映させてきたが、その一方で『権力』によって新聞が『馴化された』面もなしとはしないからだ」と述べています。
 本書は、朝日新聞の歴史を通じて、現在の朝日新聞と新聞産業の危機を訴えている一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書は、基本的には戦前・戦中の朝日新聞の論陣の中核にあり、時の権力に大きな影響力を持ち、それゆえに権力から追われた「筆致」緒方竹虎の評伝という体裁をとっていますが、そこかしこに、現在の新聞界、特に朝日新聞社に対するメッセージが込められています。本書が元々、「朝日総研リポートAIR21」に連載されていたものを元にしているためということもありますが、人が歴史に夢中になるのは、その中に現在のエッセンスを透かし見ることができるからなのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・なぜ各県に「県紙」が一紙だけあるのか疑問のある人。


■ 関連しそうな本

 今西 光男 『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』
 河崎 吉紀 『制度化される新聞記者―その学歴・採用・資格』 2006年11月10日
 川上 和久 『情報操作のトリック―その歴史と方法』 2007年10月12日
 小林 弘忠 『新聞報道と顔写真―写真のウソとマコト』 2008年03月28日
 原 克 『悪魔の発明と大衆操作―メディア全体主義の誕生』 2008年02月24日
 大井 浩一 『メディアは知識人をどう使ったか―戦後「論壇」の出発』 2008年03月22日


■ 百夜百音

ハチミツ【ハチミツ】 スピッツ オリジナル盤発売: 1995

 ヒット曲「ロビンソン」のタイトルは、タイのロビンソンデパートに由来しているそうですが、普通は想像するのは「ロビンソン・クルーソー」か「宇宙家族ロビンソン」なのではないかと思います。

『CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection』CYCLE HIT 1991-1997 Spitz Complete Single Collection

投稿者 tozaki : 2008年04月05日 20:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.pm-forum.org/MT3/mt-tb.cgi/1696

コメント

コメントしてください




保存しますか?