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2008年06月08日

日本人の脳に主語はいらない

■ 書籍情報

日本人の脳に主語はいらない   【日本人の脳に主語はいらない】(#1235)

  月本 洋
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2008/4/10)

 本書は、日本語の主語不要派と主語擁護派の論争を、「脳科学の知見で解決できること」を説明しようとするものです。本書の知見を簡単に言うと、日本語と対極にある英語の場合、
・イギリス人は、母音を右脳で聴く。
・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
というものであり、「まとめると、「イギリス人は自他を識別する右脳を刺激しながら、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れを伴いながら、言葉を処理する」となり、「その刺激と時間遅れが、英語が主語や人称代名詞を必要とする原因となる」となるのに対し、日本人の場合は、
・日本人は母音を左脳で聴く。・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
ということから、「日本人は自他と識別する右脳を刺激せずに、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れなしに、言葉を処理する」となり、「このことが、日本語が主語や人称代名詞をあまり必要としない原因となる」と述べています。
 著者は、本書を、「『私』すなわち自己もしくは自己意識に関する、心理学と言語学と脳科学にまたがる議論を、一貫して仮想的身体運動をいう視点から説明している」という側面をもっていると述べています。
 第1章「人は言葉をどのように理解しているか」では、「理解」と呼ばれる言葉に、「異なる2つの意味があることを指摘」するとして、
「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた」
という例文を挙げ、「その言葉を聞いてイメージを作れれば、理解できる」という理解を「想像可能性」と呼ぶとともに、理解のもう一つの側面として、「記号を形式的に処理できる」という意味の「記号操作可能性」について解説し、これを「理解の二重性」と呼んでいます。
 第2章「仮想的身体運動としての想像」では、身体運動と脳について、「想像で活動する神経回路と、身体運動で活動する神経回路は多くの部分を共有している」として、それらの違いについて、
(1)想像の場合には、筋肉からのフィードバック信号がない。
(2)想像の場合には、脳から神経を通して筋肉に送られるパルス数がかなり少ない。
(3)感覚(知覚)は最近の研究で能動的であることが分かってきて、運動と見なせる部分が多い。
の3点を挙げています。
 そして、「従来から、スポーツでイメージトレーニングが重要であると言われてきた」ことについて、「想像が仮想的身体運動であるということは、まさに、これを裏付けている。ある運動のイメージをすることで、その運動で使われる筋肉を仮想的に動かしているのである。その運動のときに使われる神経系を実際に使うことができるから、イメージトレーニングが効果的なのである」と述べています。
 第3章「仮想的身体運動による言葉の理解――身体運動意味論」では、「言葉の意味」について、
(1)言葉の意味とはその指示対象である。(指示対象意味論)
(2)言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
(3)言葉の意味とはその用法である(用法意味論)
の3つの意味論を挙げ、それぞれについて、「どのようにして身体運動に基礎づけられるのか」を論じています。
 そして、「イメージは会話で修正されていくもの」であるとし、「イメージが用法で修正されていくことであり、仮想的身体運動的意味が用法的意味で修正されていくということである」と述べています。
 また、「内観を用いずに、心理学の実験をしよう」とする「行動主義」に対する不満を持った研究者が、「心は記号を計算する機械である」ということを前提とした「認知主義」を提唱し始めたことについて、「認知主義は、記号処理が特異で、刺激反射反応が不得手である。これに対して行動主義は、刺激反射反応が得意で、記号処理が不得手である」と述べ、「認知主義はイメージを伴なった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、イメージを伴なわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である。これに対して行動主義は、イメージをともなわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、表象やイメージをともなった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である」
と述べています。
 第4章「心の理解――仮想的身体運動による心の理解」では、「我々が他人の心も言葉と動揺に、仮想身体運動で理解していることを説明する」としています。
 そして、「ある人の思考は、他人と有効に対話できることによって、はじめてその人で実現される。他人と有効に対話できなければ、思考もまともにできないのである。思考は自分という他人との対話であるから、自分(自身)が社会的でなければ思考はできない」と述べています。
 また、「人間とかチンパンジーが、他者の心を理解する能力のこと」である「心の理論」について、「心の理論」を持っているかどうかを試験する課題である、「誤信念課題」について解説した上で、「他人の心を読むため」に必要なものとして、
(1)意図の検出
(2)視線の検出
(3)共同注視
(4)心の理論
の4点を挙げています。
 さらに、模倣に関して、「自分が身体のある部分を動かすときに動くが、他人がそれと同じ動作をするのと自分が見るときにも動く」「ミラーニューロン」について、「最初はサルで見つかり、その後人間でも見つかった」と述べています。
 そして、「子どもは最初は言葉を比喩的に捉え、主に右脳で処理している」が、「習熟して機械的に処理できるようになれば、左脳で処理するようになる」と述べた上で、「自己意識は自分の意識ではなく、自分と他人を分離する意識と考える方が適切であり、それは主に右脳によって担われていることが明らかになった」と述べています。また、「他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである」として、「他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)」であり、「ことのきにミラーニューロンが重要な役割を果たす」と述べています。
 第5章「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」では、「主語強要言語を母語」にしている話者が、大体10億であるのに対し、「残り約60億人の話者は主語を強要しない言語を母語にしている」ことについて、「この事実は少し衝撃的ではなかろうか」と述べています。
 そして、「日本語と英語で対照的な点」として、「日本語は母音を重視する言語であるが、これに対して、英語は母音よりも子音を重視する言語である」ことを指摘しています。
 また、ここまでの結論として、
(1)日本語は、母音比重も大きくて、主語省略度も大きい。これに対して、ポリネシア語以外の言語は、日本語より母音比重度も小さくて、主語省略度も小さい。
(2)ポリネシア語は、日本語と同じように、母音比重度が大きくて、主語省略度も大きい。
の2点を挙げています。
 さらに、「子音脳は主語を非主語より必要とし、人称代名詞を非人称代名詞より必要とするが、これらをあわせると、主語の人称代名詞が最も必要とされるということになる」と述べています。
 第6章「主語や人称代名詞の省略は母音で決まる――身体運動統語論」では、
「日本語では、
 認知的主体「私」(無音)+言語的動詞
 であるのに対して、英語では、
 言語的主体"I"+言語的動詞
 となる」と述べ、主語といわれる"subject"について、「直訳すれば主体」であり、「明治時代にsubjectを主語と訳した大槻文彦は、文主とも訳している」と述べています。
 また、日本人が、「私」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように、「多くの事故を表す言葉をもっているのは、様々な人間関係の認知が音声となって表出されてしまっているからである」として、日本語の自己を表す言葉には、「『純粋な』自己に加えて、発話がなされているときの人間関係の認知の情報も含まれている」と述べています。
 第7章「文法の終焉」では、「普遍的な規則を求めるとすれば、それは、言語の外に出て認知的な事柄をもあわせて考慮してはじめて、普遍的な規則が存在するのである。その普遍的な規則は、言語の外に出ざるを得ないので、もはや文法ではないし、言語意だけに関する規則でもない」と述べ、「その規則は、もはや文法ではない。分の法則ではなく、言語と認知がなす系の規則である」として、「認知形式」という言葉を充てています。
 また、「明治維新から140年余り経った現在の日本語は、江戸末期の日本語とはずいぶん変わったものになってしまった」として、例として、「~は…である」という文は「明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである」ことや、「句点(。)も明治に造られた。それまでは読点(、)だけであった」と述べ、「明治維新の頃と現在の日本人を比べれば、明治の日本人の方が、より多くの場所の論理を用いた表現や思考をしていたのではないかと思う。学校の義務教育で模倣させることや翻訳文が数多流通することで、我々の日本語は140年間を経て大きく変わってしまった」と述べています。
 著者は、「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない、ということになろう」と述べ、「英語は主体の論理が多い」理由と9誌テ、「英語の子音優勢性が大きく関係している」として、「英語によって系絵制された子音脳は、自他分離を母音脳に比べて過剰に行なう」ため、「主体の論理が多くなる」として、「主体の論理(擬人のメタファーの形式)という文法の根幹までも音声に支配されている」と述べています。
 そして、文法研究には、
(1)文法は複数の認識形式(の言語版)から構成されている。
(2)文は、認識形式の言語版に従って認識の一部が音声化されたものであり、この音声化は状況に依存しているので、語用論的問題である。
の2点を考慮すべきと主張しています。
 本書は、言語学者の内輪もめになりがちな日本語主語論争に別分野から光を当てる一冊です。


■ 個人的な視点から

 日本語に主語が必要か不要かどうかは文法学者にとりあえず任せたとしても、明治維新以後、どれだけ日本語が変容したか、そして、それに義務教育がどれほどの影響を与えたかについては、きちんと研究成果を読んでみたいです。


■ どんな人にオススメ?

・主語が何で必要なのか、納得いかない人。


■ 関連しそうな本

 金谷 武洋 『主語を抹殺した男/評伝三上章』 2008年01月19日
 金谷 武洋 『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』 2008年02月09日 06:00
 金谷 武洋 『日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語』 
 三上 章 『象は鼻が長い―日本文法入門』 
 三上 章 『現代語法新説―三上章著作集』 
 金谷 武洋 『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』 2008年02月03日


■ 百夜百音

スーパーロボット マッハバロン【スーパーロボット マッハバロン】  オリジナル盤発売: 2000

 マッハバロン自体は子供の頃に再放送で見たような見なかったような、という感じなのですが、作曲は後の井上大輔氏で、グラムロックな雰囲気は、当時は特撮の主題歌じゃないと許されなかったんじゃないかと思います。

『スーパーロボット マッハバロン DVD-BOX』スーパーロボット マッハバロン DVD-BOX

投稿者 tozaki : 2008年06月08日 22:00

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