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2008年06月13日

集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて

■ 書籍情報

集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて   【集合住宅と日本人―新たな「共同性」を求めて】(#1240)

  竹井 隆人
  価格: ¥2940 (税込)
  平凡社(2007/10)

 本書は、「都市に居住する日本人が『共同性』を帯びる可能性を持つものとして、住宅の集合体たる集合住宅を主題とする」ものです。著者は、これまで集合住宅研究が、「建築や都市計画を専門とする工学的アプローチ」であり、集合住宅の「共同性」という課題については、「"コミュニティ"が方法論なきままひたすら唱和されるのが常であった」ことを指摘し、「"まちづくり"の実務(事業企画)の最前線に立ってきた」現場での経験から、「"まちづくり"で求められる『共同性』は"コミュニティ"という麗々しい言葉の連呼で形成されることはまれであり、あるいは、それがたとえ成就しても、たちまち水泡と帰すことも多い」と述べ、「『共同性』における"コミュニティ"という常識から離れ、集合住宅では政治的な『共同性』を追求すべきだとの信念を持つに至った」と述べています。
 序章「日本人と『共同性』」では、フランシス・フクヤマが日本を高信頼社会であるとした論拠である「会社主義」について、その真髄は「社員相互で家族同様の固い結束を求めること」であるとした上で、「中間共同体としての『共同性』を一身に集めてきた『会社主義』が終焉を迎えたいま、『会社』の呪縛から逃れた日本人はどこに『共同性』を求めていくべきなのだろうか」と述べています。
 第1章「個別化する都市住宅」では、「集合住宅」を、「住宅同士の物理的接合、建物内における共同利用施設の物理的存在の如何によらず、『共同性』を持つ複数の住宅の集合体をいう」と定義し、「戸建住宅による住宅群に『共同性』があればそれを対象に含める」と述べています。
 そして、分譲マンションについて、「匿名性を求める住民が多いほか、住民間の交流はえてして地域性を喪失し、気の合った者同士が選択的友人関係に収斂していく一般的傾向がある」と指摘し、「共同性」の形成を図ろうと、「ほかの住民との交流を重視する"コミュニティ"が連呼されてきたが、その成果は乏しいといわざるを得ない」と指摘しています。
 第2章「唱和される"コミュニティ"」では、「都市住宅の個別化」について、「得てして集合住宅なるものが住宅の単なる物理的集合に成り果てている感もある」とした上で、「『共同性』の喪失に対する危機や焦燥、そして『共同性』の回復への希求や思慕は、しばしば用いられる"コミュニティ"という言葉に象徴される」と述べています。
 そして、日本において、"コミュニティ"がという言葉が、「各個人の帰属する地域での最小規模の社会的集団にあるだろう。すなわち、地縁に根ざした近隣社会、地域社会といった基礎的集団を指すと思われる」とした上で、「"コミュニティ"という語は、親和性を強調するあまり、生活上の『共同性』を担保するものでないこと」が多く、「課題解決の手法として機能しないこと」を指摘するとともに、「あくまでも自発的なもの」であったはずの"コミュニティ"を公的機関が政策として掲げること自体の矛盾を指摘し、「国家や行政の方向性を論じるすべての者にとって、"コミュニティ"はとても使い勝手がよく、受けもよい用語」であったと指摘しています。
 また、評論家の山本七平が、指摘した、「日本独特の教義」である「日本教」について、
(1)その教義が体系を含めて明文化されていない。
(2)教義そのものが、その時々の「話し合い」によって醸成される「空気」に従うべきとでもいうもので、括弧たる規範の存在しない無規範であることが原則。
(3)論理がないことから、このように醸成された空気はたやすく絶対と化し、反論は許されない雰囲気ともなる。
等の特徴を挙げ、「先に論じた"コミュニティ"なる語句が、日本人に斯くももてはやされるのは、それが『日本教』と相通ずるからに相違あるまい」と述べています。
 そのため、「相互交流を基調とする"コミュニティ"に疑問を呈しただけ」で、「『そういうことをいう人間がいるからコミュニティが進展しないのだ』と、感情的に非難をあびせてくるコミュニティ原理主義者が少なからずいる」ことを指摘し、「こうした態度こそ、異論を許さない『日本教』に通じる、非寛容の精神に発しているのであり、このような精神は、"コミュニティ"に疑問を投げかけることさえもタブー視する雰囲気をつくることとなる」と指摘し、「"コミュニティ"を絶対視し、祭り上げる姿勢からは、"コミュニティ"に関する研究の発展は生じようがない。これは、まさに原理主義であるといえよう」と述べています。
 さらに、「"コミュニティ"に代表される楽天的に相互交流を望む声などはしょせん精神主義に過ぎぬか、あるいは、居所の流動性によって故郷喪失を憂い、都会で汚れた精神の浄化を望む、都市に住む現代人にとっての身勝手な『愁毒(ノスタルジア)」でしかあるまい」と述べています。
 第3章「"コミュニティ"から"ガバナンス"へ」では、コーポラティブ方式の集合住宅の「共同性」を検証した上で、"コミュニティ"が、「人間同士の素晴らしい触れ合いを生むと同時に、個人の自由を抑圧し嫌悪感を生むリスクもある」ことや、「濃密な人間関係が築かれた」として、「決定的に悪化する流動性をも常にはらむこと」や、「こうした親和性がコーポラティブ方式の特徴であることが広く認識されたことが、都会に居住する現代人には敬遠され、需要低迷の一端をなしたのではないか」と述べた上で、「ムラ社会の"コミュニティ"に回帰するのでなく、都市に見合った『共同性』が求められるべきではないのか」と指摘しています。
 第4章「『政体不在』の"まちづくり"」では、「行政区域より狭い領域で、ひとまとまりの市街地からなる居住区を"まち"と呼ぶものとすれば、その活性化を求める"まちづくり"なる語句が、さながらインフレーションをきたすほどに唱和されている」ことについて、その背景として、「従来までの都市計画に対するアンチテーゼ」を挙げ、「官製の都市計画に反抗し、それを見直そうという思いが底流に潜んでいた」と述べ、「茫漠なイメージでの"まちづくり"ではあるが、その本質は『共同性』にあり、『官治』の対置たる『自治』を重んじることにあるならば、とくにその『自治』における『自主性』なるものは、行政に対してただ要望や苦情をいうことを本則とするのではない。むしろそれが、どうしたら創出されるのか考えるべき」であるとし、「それこそ、住民主体で居住区を統治していくことが、"まち"としての『共同性』を創出する動力源(ダイナモ)となるのではないのか」と述べています。
 そして、19世紀イギリスのエベネザー・ハワードの田園都市構想が、20世紀にアメリカに輸入され、「広大な共用する空間や施設たるコモン(Common)を備えた計画」が、「制限約款と結合してCID(Common Interest Development:コモンを有する居住区)として完成」したとして、その嚆矢となった1928年完成のラドバーン(ニュージャージー州)を挙げ、「いまや、全米におけるCIDの数は約25万で最近時は毎年約1万ずつ増加している」とともに、「その居住者は全米人口の第6分の1に相当する4200万人を超えるとも推計される」と述べています。
 その上で、「わが国で開発された多くの戸建住宅からなる居住区」が、著者の定義した「集合住宅」とは異なり、「単に物理的に集合した別個に独立した住宅群に過ぎない」と述べ、「社会、政治的側面に着目するならば、わが国の郊外住宅団地はアメリカの『プライベートピア』と異なり『私的政府』が存在しないという意味で、相似するものでは決してなく、この実態は戦後の高度成長期にブームとなったニュータウン建設においても踏襲された」と述べています。
 第5章「要塞都市:ゲーテッド・コミュニティ」では、アメリカにおける「CIDでもっとも先鋭化した形態、すなわち居住区全体を外壁で囲い込み、いわば要塞化する『ゲーテッド・コミュニティ(gated community)』と呼称される居住区が登場し、見る間に急増していった」として、「今やアメリカの高級居住区でゲートを設置することは当たり前のこと」になり、「比較的大規模な居住区」では、「中流階層の手の届く価格設定」がなされ、「収入分布の最下層を除けば、あらゆる階層にとって一般化した居住形態となっている」と述べています。
 そして、「ゲーテッド・コミュニティ」を、ブレークリー&スナイダーによる類型化として、
(1)威信(プレステイジ)型:特定の富裕層が居住する、稀少な人にとっての稀少な居住区
(2)ライフスタイル型:平均的アメリカ人をも対象層とした「退職者向け居住区(retirement community)」など。
の2つに分け、前者については、「飛び地」を意味する「アンクレイヴ(enclave)」を初期の典型とし、ここからさらに、
・「上位5分の1の富裕層向け」:「アンクレイヴ」の居住者荘である超富裕層に雇われる人たちの居住区・・・CEOやファンド・マネージャーなど
・「中流階層向け」:実際の居住者は中流階層だが、見た目は「上位5分の1の富裕層向け」と掃除した居住区・・・「似非威信型」
とが派生したと解説しています
 また、わが国でゲーテッド・コミュニティが知られるようになると、「政治学者や社会学者などの一部にはその外部社会に対する閉鎖性をとらえ批判する論調」が現れ、「建築系や都市計画系の工学者も視覚面や物理面から当然のように否定的な目」を向けたが、著者は、「わが国には超高層に代表される分譲マンションという閉鎖的空間が次々とできあがっているのに、こうしたゲーテッド・コミュニティを排撃する論者はそれを看過している向きが多いこと」に、「奇異の念を抱く」と指摘しています。そして、超高層マンションを、「充実したアメニティ施設による『ライフスタイル型』や、外界を睥睨するかのごときステイタスを誇示する『威信型』の要素をも併せ持った、まさに"究極の"ゲーテッド・コミュニティである」と述べています。
 第6章「都市を集合住宅とせよ」では、「古来、都市とは富が集積する場所であり、それは部外者による収奪の的となるため、その周囲には城壁が構築されるのが常であった」として、「都市の期限とは、ゲーテッド・コミュニティの起源そのものといえる」と述べています。
 また、「居住区を管制(コントロール)する私的政府の主体が住民である」と言うときに、「町内会や自治会の姿を重ね合わせる方も多い」が、「この町内会や自治会では力不足」であるとして、「一定の居住区内の全住民を拘束するものでなく、その参加離脱を強制できない限界」を抱えているという「包摂性」の問題を指摘しています。
 そして、著者は、「『集合住宅』における既存の制度を用いて"まち"を拘束しようとする独自の視点をもつ。それにより、ある境界内の"まち"の住民すべてを拘束する『共同性』の形成を目指すもの」であると述べています。
 さらに、「住民運動」について、著者が主張する「『私的政府』による居住区の管制(コントロール)からは相当に乖離している」と述べ、「住民運動に透けて見えるのは、自分たちの住宅を既得権とし、それ以後に建設される住宅のみに規制をかけるべきだという身勝手さ、あるいは、外野からワーワー騒ぐだけで主体とはならない無責任さ」であると指摘しています。その上で、「国立マンション事件」や、著者が生まれ育った京都の町家の保存の事例を取り上げています。
 著者は、「近時に叫ばれる"まちづくり"とは、しばしば『やさしい』『元気の出る』などといった、こちらが気恥ずかしくなるようなフレーズを冠とするスローガンを口にする専門家も横行する」が、「内容の乏しいスローガンの連呼は空疎なのみである」と述べ、対案として、「"まちづくり"は『私的政府』を設置することからはじまる」と対案を示し、「"まちづくり"とは住民主体を本則とし、経済的恩恵に特化せずに純粋に居住区の生活環境の維持向上を図っていくことが不可欠なのであり、そのためには"まち"の構成員たる居住者の総意を汲み取った『制限』を確立させることが求められる」として、「"まち"を『私的政府』のある集合住宅とすることが有効なのである」と主張しています。
 第7章「私的政府における参加と熟議」では、「集団をよりよき方向に導くためには、その集団の構成員が自ら直接的に業務を執行する必要があるわけではない」と述べています。
 そして、「アメリカには、どこの地方自治体にも属さない『未法人化地域(unincorporated area)』も多く存在し、それは全体の7、8割を占めるとも推計されている」として、「地方自治体というのは、住民の要請によって週から憲章(チャーター)を授けられ法人化することではじめて創設される」と述べています。
 著者は、「『私的政府』の効用は、既存の『公的政府』よりも、共同利用する空間や施設への共有の認識を強め、直接民主制によればその為政に対する疑問を反映させる度合いも高められることにある」と述べ、「『自立』を各地方行政における病理にとって、『私的政府』はいわば『究極の地方分権』として救いの一手となるやもしれぬ」と述べています。
 第8章「都市人の理想――『警戒』と『自立』」では、「保安(セキュリティ)を望む居住者の欲求を取り込む」というデベロッパーにとっての至上命題を解決する方法として、「戸建住宅群による居住区であっても私の定義する集合住宅とすること」であるとして、「分譲マンションと同様に建物区分所有法を適用させ、居住区内に共用施設があれば、それを区分所有法上の団地規定により設立される管理組合法人の所有とすることである」と述べ、「戸建住宅群による居住区に集団的な保安を導入するためには、『制限』の受容と、それを『私的政府』が管制する仕組みがまず不可欠」だと述べています。
 そして、『ユダヤ人と日本人』の著者であるイザヤ・ベンダサンlこと山本七平が、日本人を「安全をタダだと思っている」と指摘した点について、
(1)何をせずとも「安全」であることを常態とする意識
(2)「安全」を脅かす異常な事態が生じた場合も、それを誰か自分ではない他者が回復してくれるはずだという「他律」の意識
の「2つの意識が内在される点で重要である」と述べ、「日本人に『警戒』が存在しないことに相違あるまい」と指摘しています。
 また、「犯罪者は声をかけられると警戒し、犯罪を諦めるという理屈」について、
(1)都市であれば、その近隣の居住者すべてと顔見知りになることの非現実性
(2)挨拶を交わす習慣があれば、犯罪者は警戒するはずだという通念に誤謬はないといえるのだろうか。
の2点を挙げ、「『コミュニティがあれば防犯は大丈夫』といわんばかりの主張には首を傾げる必要があろう」と述べています。
 さらに、「わが国にゲーテッド・コミュニティが存在しなかった、より根本の理由」として、「日本という国家そのものが四囲を大海原という天然の要塞で守られた国家単位のゲーテッド・コミュニティであったからではないか」と述べ、「わが国そのものがゲーテッド・コミュニティであったからこそ、『日本教』が成立したといえるのではないか」と述べています。
 著者は、「『個人対個人』の交流を基調とする"コミュニティ"は崇高なものである」が、「それを声高に叫ぶのみでは"コミュンティ"の形成が約束されるわけではなく、『空念仏』の域を出ない」と指摘しています。
 終章「デモクラシーと公共性」では、本書が、「現代社会という一生涯出会うことのない多くの他者と築くべき『共同性』なのである」と述べ、「都市社会とは『見知らぬ他者』とのつながりを前提としている以上ルール(法)を解して『システマティック』に『共同性』を作り上げていくしかない」と述べています。
 本書は、いわゆる「集合住宅」に住んでいない人にとっても、自分の住環境を大いに考えさせてくれる一冊ではないかと思います。


■ 個人的な視点から

 所得によって、済むところに明らかな差別が生じてしまう「ゲーテッド・コミュニティ」は、身分差別で済むところも制限されてきた過去を持つ日本社会では露骨過ぎて抵抗があるのかもしれません。
 そうはいっても、東京23区のうち、お金持ちは何区に住んで、貧しい人は何区に住んでいる、ということが実態として明らかになっている今、建前にしばられるのは損な気がします。
 江戸時代に、町には木戸が付いていましたが、車両と歩行者の分離や環境の観点から、町の入口に現代の木戸を設けるというアイデアは意外と健全なのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・自分は「集合住宅」に住んでいるのかが不安な人。


■ 関連しそうな本

 竹井 隆人 『集合住宅デモクラシー―新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち』
 エドワード・J. ブレークリー, メーリー・ゲイル スナイダー (著), 竹井 隆人 (翻訳) 『ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市』
 エヴァン マッケンジー (著), 竹井 隆人, 梶浦 恒男 (翻訳) 『プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生』
 ジグムント バウマン (著), 奥井 智之 (翻訳) 『コミュニティ 安全と自由の戦場』 2008年01月12日
 山岡 淳一郎 『あなたのマンションが廃墟になる日――建て替えにひそむ危険な落とし穴』 2008年06月02日


■ 百夜百マンガ

しおんの王【しおんの王 】

 作品自体は完結してしまったのですが、原作者の「かとりまさる」が棋士の林葉直子だということを知りませんでした。かえって、先入観なく読めたと思いますが、結局事件の動機はなんだったのかよく分からずじまいでした。まあ、風呂敷を上手に広げて最終回まで引っ張ることこそがマンガの楽しみの一つだと思えば文句はありません。広げすぎと思われた風呂敷を見事にたたむと名作になる可能性があります。

投稿者 tozaki : 2008年06月13日 06:00

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