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2008年07月02日
近代日本の農村的起源
■ 書籍情報
【近代日本の農村的起源】(#1259)
トマス C.スミス
価格: ¥3990 (税込)
岩波書店(2007/11)
本書は、「日本農業に見られる変化の少なさ」が、「ときには誇大視されている」ため、「本質的な点でも何の変化もなかったというような印象さえ受ける」が、「その諸変化は日本の歴史にとってきわめて重要な意味をもつもの」であることを示したもので、「こうした諸変化の輪郭を素描し、それが近代日本にとってどのような意義をもっているかを示そうと試みたもの」です。
第1章「土地制度」では、「後進地域における大規模保有地の農耕組織」が、「拡大家族を通じて、徳川期農民社会の2つの主要な階級、すなわち、土地を保有する階級とそうでない階級、おこの両者をつなぎ合わせていた」と述べています。
第2章「農業奉公人」では、「大保有地における労働力を形作っていた拡大家族」が、
(1)中心には核家族
(2)次の円内には血縁及び姻戚
(3)第三の円には奉公人と名子
の三者から構成されていたと解説しています。
第3章「賦役」では、「徳川時代を通じて、名子が独立の家族へ、また自立的な土地保有者の身分へと上昇していく史実が見出されることになる」と述べながらも、「このような上昇が大規模に進行していたかのように想像してはならない」、また、「これによって名子の親方に対する関係が大きく変化したなどと想定してもならない。両者の関係は法的であると同時に、社会・経済的なものだったからである」と解説しています。
第4章「小保有地」では、「耕地面積が絶え間なく拡張されているような時期には、きわめて頻繁に既存の保有地が分与されて、新保有地をつくりだしていった」ことが、「村落の成長の根本要因」であったともに、「村の階級構造の形成を大きく推進した」と解説しています。
第5章「政治的権力の組織」では、17世紀の村落が、「数多くの自立的な農耕単位から成り立っていたのではなく、相互に依存しあう農耕諸単位でできているいくつかの集合体から成り立っていた」として、このような集合体が、「一つの大保有地と多数の従属的な小保有地」から成り立っていたと解説しています。
そして、この集団の「特に注目に値する一つの機能」として、「田植えのためにまとめて大量の労働を提供する」ことを挙げ、田植えを、「ごく短期間のうちにやってしまわなければ」ならず、「割り当てられた時間のうちに田植えをやってしまうには、個々の家族ではとうてい狩り集められないような大量の労働力を必要とする」ため、「村内のさまざまな親族関係――本家・分家・擬制分家――が、この決定的に重要な仕事を行うための安定した枠組みを提供した」と解説しています。
また、血族集団の首長が、「村の内部で強力な政治的地位を占めていた」明白な理由として、「この集団は、村落内のあらゆる種類の組織を包括する自立的な完全体を形づくっており、集団を代表して発言する家族は恐ろしく強力であった」ことを挙げ、「村の役職は一定の名望家にだけ限られていたが、そのなかには当然に血縁集団の首長たちが含まれていたし、場合によると彼らだけ、ということもあった」と解説しています。
さらに、庄屋を決める方法として、通常は、
(1)選出
(2)輪番
(3)世襲
の3つの方法があり、後ろに行くほど「排他性が強くなっていく」と解説しています。
第6章「市場の成長」では、「1600年以後の2世紀間に都市の人口は驚異的な速度で増大し、それ以前の1千年にもまさる増加を見せた」として、「1590年には一漁村に過ぎなかった江戸が、1731年ごろには人口50万を超える巨大で人口稠密な都市に成長し、おそらくは当時世界最大の大都市となっていた」と述べ、大坂と京都についても、「近接する堺や伏見を合わせると、100万に近い人口を持つ位置大都市圏を形成していた」として、「このように増大していく都市人口の衣食住をささえるために、大量の穀物・魚・木材・繊維品が必要になった」と述べています。
第7章「農業技術」では、「われわれは、日本の農業が最近に至るまで静態的であるか、あるいは、それに近い状態であったと考えがち」であるが、「実際には、日本の農業は近代に入るよりもはるか以前に、注目すべき技術的諸変化」を既に経験していたとして、「1600年から1850年までのあいだに、そうした複雑に絡み合った諸変化が土地の生産性を大いに上昇させ、特殊な作業においてもまた作業全般においても労働の生産性を変化させて、農業制度の根深い変化をもたらしていた」ことを指摘しています。
そして、「農耕における重要な技術革新はどれもみな、土地の生産性あるいは労働の生産性、あるいはその両者を高めた」として、「干鰯(ほしか)、油粕それから大小の都市で集められた下肥」等から成る「金肥」を、「収量の上昇をもたらすすべての技術革新の中で、おそらく最も重要なものであった」と述べ、新しい肥料が、「作物の収量を引き上げただけではなく、土地のいっそう集約的な利用をも可能にした」ことを指摘しています。
この他、「作物の品種の増加」や「灌漑の拡大」、「作物の特化が可能になったこと」などを、重要な技術的発展として挙げています。
また、技術革新が、「徳川時代を通じて、単位面積当たりの収量を増加させたが、そればかりでなく、単位面積当たりの必要労働量をも増加させた」ことを指摘し、「一つ一つは労働節約的な技術革新であっても、究極の効果として、しばしば労働の使用を集約化する結果を生じた」と述べ、金肥の使用や千把扱きの例を挙げています。
第8章「労働の変貌」では、奉公人のタイプとして、
(1)借金の返済として、家族がその成員を奉公人として他人に無期限で提供した場合。
(2)労働がいくらかの報酬を受けるという点を除いては、第一の方とまったく同じ。
(3)返済の期日まで債務によって拘束されてはいたが、その間の労働で債務は完全に返済される。
の3つのタイプを挙げ、第三の奉公人の出現が、「自由な労働の発展に向って巨大な一歩を記すものであった」と解説しています。
第9章「名子の変貌」では、「商工業が発達し、名子たちにも、小作人として土地を経営するという仕方で新たな機会が開かれてくるとともに、名子階級――法制的範疇としての――は全国の多くの地方で消滅していった」と述べています。
第10章「協同集団の衰退」では、
(1)金肥
(2)千把扱き
(3)多毛作
(4)作物の組合せにおける選択の範囲が広げられたこと
の4つの技術革新が、「年間の労働の需要曲線を顕著に変化させた」として、「こうしたさまざまな理由のために、諸家族間で共同の行われうる範囲は、時の経つにつれて、次第に狭められていった」とともに、「大多数の家族は専業化の進展によって、ほぼ自給自足というような状態からますます遠ざかっていった」と述べています。
また、協同関係の衰退は、協同集団の衰退をもたらした原因の一つに過ぎず、「いま一つ、新しい型の経済的諸関係が、しばしば同一の協同集団に属する人々のあいだにも成長しつつあった」ことを挙げ、「こうした新しい経済的諸関係がとりわけ、旧来の諸関係のまさしく独自な分野をなすような経済的諸階級の別々の側に属する人々のあいだに成長してきた」ことは「きわめて重要である」と指摘しています。
そして、小作料の類型として、
(1)刈分(かりわけ):小作人の収穫のうち或るパーセンテージを地代として納める分益小作制(シェア・クロッピング)
(2)検見(けんみ):地代は現物で支払われるが、収穫の一定のパーセンテージではなくて、毎年収穫の量をあらかじめ査定し、その年のパーセンテージが定められた。
(3)定免(じょうめん):収穫の或るパーセンテージというより、むしろ約定された額の現物支払いで、その額は年々定められずに、ほぼ5カ年間固定されていた。
(4)代金納(だいきんのう):いわば擬似貨幣地代で、実際には貨幣で支払われるが、その額は現物の一定量に固定されていた。
(5)真実の貨幣地代:貨幣で支払われるばかりでなく、その額も一定の貨幣額に定められていた。
の5つの類型について解説しています。
第11章「新しい階級関係」では、土地の獲得方法として、
(1)開墾
(2)他人からの購入
(3)質地の取得
の3つの方法を挙げ、第2と第3の方法が、「一方の保有地を拡大圧せ、他方の保有地を縮小させることになったために、階級関係にこのうえもなく鋭い衝撃を与えたことは明白である」として、このうち、「質地取得の方が普通に見られたもので、かつ社会的に破壊的な性質を持っていた」と述べ、「残存している質地証文は、どれも下層農民からの土地収奪の悲惨な物語をあまりにも生々しく伝えている」」と解説しています。
そして、「土地所有の集中がもたらした最も重要な結果の一つ」として、「無高(むたか)とよばれる、文字通り高(たか)すなわち収穫量が零であるような人々、つまり、そうした土地を持たぬ階級を作り出したことであった」と述べ、「無高の出現は、何よりもまず、先に見たような耕作様式の変化によって崩れつつある大規模拡大家族の解体を意味した」と解説しています。
さらに、「名実ともに権力に結びつく武士の役職までが、しだいに農民の手に落ちていった」として、不在領主が、「一つには、経費節減のために、しかし主として年貢の徴収や地方での借入金、御用金の増収を容易にするために、この伝統的に武士に属し、権限のきわめて大きかった役職に富裕な農民たちをしばしば任命した」と解説しています。
第12章「村落内の政治闘争」では、「家族数が約2,000にも達する村落で13の家族が政治を独占する、といった事態に対して反対が起こってきたとしても何ら驚くには当たるまい」として、村落における紛争の例を紹介しています。
第13章「農村の変化と近代日本」では、「1850年当時の日本のような後進国が、その後の日本に見られたような速さで近代化しなければならぬとすれば」、
(1)その国には、過去と根本的に異なった未来についてのヴィジョンを伴なう指導力がなければならない。
(2)そうした指導力が幾十年に渡り、高い権威と強い安定性をもって政府を統御できなければならない。
(3)経済がかなりの規模の投資力を持っていなければならない。
(4)産業にとって労働の供給が十分でなければならない
の4つの条件を最低限満たす必要があると述べたうえで、「19世紀後半の日本でこうした諸条件を充たすことができたのは、それに先立つ1世紀半のあいだの農村の変化に負うところが少なくなかった」と述べています。
また、「日本の農村が大都市のために貢献したのは、単に労働力についてだけではなかった」として、「農村生まれの多くの人々(そのうちの幾人かは女性)は小・中学校へ進み、大学を卒業して、金融・産業・政治・教育・文学・官界などの分野で重要な地位を占めるにいたった」と述べ、「これは、農村地域における文化的達成と向上心の高い水準を示しているが、また、そこでは成功の機会がいかに少なかったかを示している」と指摘し、「日本における農村から都市への人口移動は、社会的淘汰の過程であった。人々が故郷を去ったのは、活動的で野心に燃えていたからであり、またかなたには出世への道が見えているのに、自分の住んでいるところにはそれを阻むような障壁が立ちはだかっていたからであった」と解説しています。
本書は、主に19世紀までの日本の農村について解説しているにもかかわらず、少なからず、20世紀、また現代の日本の農村について考える上での連続性を気づかせてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
明治維新以降、急激に国力が増強したかのように日本史を教わってきましたが、むしろ、徳川政権時に、農村の生産性が向上したことが、諸藩の国力を高め、明治維新に結びついたのではないかと思うほどです。
■ どんな人にオススメ?
・江戸時代の農民は武士の支配の下で青色吐息だったと思っている人。
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田中 圭一 『百姓の江戸時代』 2007年09月16日
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高橋 敏 『博徒の幕末維新』 2007年10月18日
谷川 彰英 『東京・江戸 地名の由来を歩く』 2007年12月29日
速水 融 『歴史人口学で見た日本』 2007年12月26日
■ 百夜百マンガ
温泉というと「まんだら屋の良太」を思い出してしまいますが、プラス「百八の恋」の中年版という感じなのでしょうか。
投稿者 tozaki : 2008年07月02日 23:00
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