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2008年07月28日

津波てんでんこ―近代日本の津波史

■ 書籍情報

津波てんでんこ―近代日本の津波史   【津波てんでんこ―近代日本の津波史】(#1285)

  山下 文男
  価格: ¥1,680 (税込)
  新日本出版社(2008/01)

 本書は、「明治以来の近代日本を襲った津波のうち、死者100人以上を数えた8つの津波被害について振り返り、それぞれの津波のときの社会背景と津波の概況、さらには津波防災上の、今日的な教訓」などを論じているものです。
 タイトルの「てんでんこ」とは、明治三陸津波の体験から、「津波のときは、親でも子でも人のことなどは構わず、銘々ばらばらに一時も早く逃げなさい」という意味であると解説されています。
 第1章「節句の賑わいを直撃した狂瀾怒涛」では、1896年6月15日の明治三陸大津波を取り上げ、岩手県の被害は「壊滅的」で、「全半壊流出を合わせて約6,000戸のうち、1人の生き残りもない全滅戸数が728個に上るなど、被災地人口の23.9%に当たる1万8158人が溺死する大惨事となったと述べ、その要因として、
(1)想像を絶するようなものすごい大津波、巨大津波であった綾里村の白浜では、38.2mの地点まで津波が駆け上がり(波高)、記録にある本州津波史上の最高波である。
(2)事前の地震の震度が2~3という弱震であったため、津波を予想したものがなく、しかも端午の節句の夜でにぎわっていたところを完全に不意打ちされた。
(3)当時の三陸沿岸の住民たちが、40年前の1856年にあった安政3年8月の津波の体験から、津波を割りと甘く考えていた。
の3点を挙げています。
 また、当時の新聞、雑誌の記事などから、
・宮城県十五浜村の刑務所から解放された囚人が、逃げる途中、波に浚われて気息奄々としている娘を救助するなど、人命救助に活躍したものがおり「囚人また義気あり」と賞賛された。
・宮城県気仙沼市では、19歳の女性が入浴中に風呂桶のまま流され、翌日、潰れた我が家から2歳になる乳飲み子を、死んだものと諦め、死体を掘り出すために捜したところ、幸運にもみどり児は生存していた。
などの逸話を紹介しています。
 そして、「津波てんでんこ」という言葉について、「凄まじいスピードと破壊力の塊である津波から逃れて助かるためには、薄情なようではあっても、親でも子でも兄弟でも、人のことなどは構わずに、てんでんばらばらに、分、秒を争うようにして素早く、しかも急いで早く逃げなさい、これがひとりでも多くの人が津波から身を守り、犠牲者を少なくする方法せす」という「哀しい教え」であると述べています。
 第2章「海と山から津波攻めの相模湾岸」では、1923年9月1日の関東大地震津波を取り上げ、「東京や横浜での大火の恐怖と記録が繰り返して再現、再録され、年ごとに充実されていったのとは裏腹に、津波の記録は、神奈川、静岡、千葉などの『震災誌』に書き込まれただけで、ほとんど再録されることもなく、掘り起こす努力も全体としてなされてこなかった」ことを指摘しています。
 また、山津波に関しては、根府川駅において、「停車中の列車と乗客らが、列車もろともが消したに転落したところへ海からの津波が押し寄せ、集落は山と海からの津波攻めに遭って、ここだけでも約300人が死亡したといわれている」と述べています。
 第3章「被災地の息子たちは中国の最前線に」では、1933年3月3日の昭和三陸津波を取り上げ、午前3時ころの、氷点下4度から10度という極寒の夜明け前のことであり、「季節的にも時刻的にも、さらには農山漁村の疲弊と貧困の中での戦争突入という社会背景の上でも最悪のタイミングであった」と述べています。
 また、「明治の津波で1800人あまりが溺死した田老村」の場合、「前の津波での死亡者があまりにも多く、生存者があまりにも少なかったために体験を語り継ぐべき人が少なかったこと」や「俗説の類に属する『語り継ぎ』なども被害を増幅させる要素の一つ」になっていると述べています。
 第4章「大戦末期、極秘にされた被害情況」では、1944年12月7日の東南海地震津波について、「開戦記念日」の前日のことであり、厳しい報道管制の下、「被害の詳しい情況はほとんどなく、ただ断片的に『疎開学童は無事』『震害にめげず元気な疎開学童』『日頃の防空訓練の賜物で火事も消し止め』と、勇ましく伝えていた」が、実態は、5万7000戸以上の住宅が全半壊、流出し、1200余の人々が死亡行方不明になっていた」だけではなく、「日本航空産業の心臓部であった東海地方、特に愛知県では、飛行機工場の密集する名古屋の南部が大被害を受け、海軍の主力戦闘機、いわゆるゼロ戦を製作している三菱航空の道徳工場や、海軍の攻撃機などを製作していた半田市の中島飛行機山方工場などが倒壊し、動員されていた少年、少女たちが多数圧死する大惨事にもなっていた」と述べています。
 一方で、「軍による報道管制は日本国民を欺いただけのこと」で、アメリカでは、地震観測網により、「日本の中部で大地震」「軍需工場に壊滅的打撃」などの記事がトップ扱いで報じられ、「震源が日本の遠州灘であることも、被害の中心が東海地方であることも、その被害が並大抵のものでないことも即座に判った」として、「実態は敵方にほぼ筒抜けだった」と述べています。
 第5章「敗戦後の混乱と激震の最中に」では、1946年12月21日の南海地震津波を取り上げ、「太平洋戦争敗戦直後の混乱と激動の最中に襲ってきたこの大地震と大津波も、甚大な被害にもかかわらず、当時、あまり国民的な救援を得られなかった」と述べています。
 第6章「地球の裏側から遙々と」では、1960年5月23~24日の昭和のチリ津波について、「世界の地震史上も最大級の巨大地震にともなって発生した大津波」であるとして、「ジェット機並みのスピードで走りきって日本列島の太平洋岸に襲い掛かった」と述べています。
 そして、その押し寄せ方も、昭和三陸津波のときの引き潮は、あっという間のことであったが、チリ津波は「延々と1時間近くも、あるいは、それ以上物長時間に渡って引き潮が続いた」とともに、「波が押し寄せてくるとき」も、「初めは徐々に水かさがなしてくる程度だが、そのうちにむくむくと、急速に水面が盛り上がってくるような押し寄せ方」であったと述べ、さらにその周期も、三陸津波が「10分からせいぜい15分程度」で遭ったのに対し、「チリ津波の周期は40分ほど、あるいはそれ以上に長く、早朝から夕方まで、延々と引いたり押したりをくりかえした」と述べています。
 第7章「激浪のなかに消えた学童たち」でjは、1983年5月26日の日本海中部地震津波を取り上げ、「被災地である日本海沿岸の人々の津波についての『認識不足』と心の『無防備』が、この津波被害を大きくした重大要因といわれた」と述べ、「土地の古老も、この歳になるまで津波なんてまったく知らなかったと話している」と伝えられたことを紹介しています。
 第8章「際立った『震災弱者』の犠牲」では、1993年7月12日の北海道南西沖地震津波について、「一度は高台に逃げて助かったのに、とたんに欲が出て、金品などを持ち出すべく、避難場所から下がって家に戻るケース」が見受けられたことを指摘しています。
 エピローグ「自分の命は自分で守る」では、「命より大切なものはこの世にない。津波のときの物欲は命の敵、自分自身の敵と心得よう」と述べています。
 本書は、体験した人にしか骨身にしみてわからない津波の怖さを、伝えるべくまとめられた力作の一冊です。


■ 個人的な視点から

 「TSUNAMI」という言葉は、世界的な言葉になったり、歌謡曲のタイトルになったりしましたが、実際の津波の怖さを知っている人は、「津波」という言葉自体に抱く嫌悪感が大きいかもしれません。
 本書の著者も幼少時に体験した、昭和の三陸津波が、「津波への恨みと津波防災への執念として本書に結実したと語っています。


■ どんな人にオススメ?

・「津波」は過去の災害だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 山下 文男 『津波の恐怖―三陸津波伝承録』
 戸石 四郎 『津波とたたかった人―浜口梧陵伝』
 伊藤 和明 『津波防災を考える 「稲むらの火」が語るもの』
 力武 常次 『新版 日本の危険地帯―地震と津波』
 首藤 伸夫 『津波の事典』


■ 百夜百マンガ

守ってあげたい【守ってあげたい 】

 自衛隊モノのマンガと言えば、『右向け左』などが有名ですが、女性ものは少なく、だからこそ映画化に取り上げられたのではないかと思います。

投稿者 tozaki : 2008年07月28日 06:00

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