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2008年10月10日
江戸の養生所
■ 書籍情報
【江戸の養生所】(#1359)
安藤 優一郎
価格: ¥756 (税込)
PHP研究所(2005/1/18)
本書は、「養生所という江戸の窓を通して、江戸庶民の医療について」明らかにするものです。
プロローグ「江戸の養生」では、「養生所が取り上げられる場合、その多くが、開設された享保期(1716~1736)という時代設定のためか、いわば養生所が明るく描写されているという特徴がある」が、「本書で見ていく養生所の施療活動とは、従来の養生所のイメージを壊すもの」であり、「養生所医師の不熱心な医療行為、養生所所員(看病中間・賄中間)による入所患者への虐待行為、物品の横領行為、養生所を管轄する町奉行所役人の職務怠慢など、開設から1世紀を経過した頃には、その医療環境は最悪の状態を迎える」と述べています。
そして、「養生所の施療活動とは、江戸の医療環境を映し出す鏡のようなもの」であるとして、「養生所という江戸の窓を通して、江戸の人々の医療環境、公的施療のありさまを覗いてみよう」と述べています。
第1章「大都会・江戸の医療事情」では、「江戸のように、コミュニティ機能が低下して相互扶助の基盤に欠けている地域委では、公的な救済システムが不可欠であった」として、「この点を踏まえてこそ、江戸の町に養生所が設置され、明治まで百五十年もの長きにわたって施療活動を展開し、幕府もその改善のため、何度となく改革を試みた理由が理解できる」と述べています。
第2章「町奉行大岡忠相と小石川養生所」では、享保7年(1722)正月21日に、麹町の小川笙船という町医者が、施薬院の設置を求めた意見書を目安箱に提出したと述べ、そこからは、「地域での相互扶助では対処できないため、幕府などによる公的な救済に頼らざるを獲ない社会的な背景」が読みとれるとしています。
そして、目安箱の投書から約1年を経て、施薬院が小石川御薬園の地に開所となったが、直前にその名称が、当時、一般庶民の間にまで広く行き渡っていた「養生」を用いた「養生所」に変更されたと述べています。
第3章「養生所の入所生活」では、「所内に居住し、医師の診療などを監督」した養生所の「肝煎職」について、「施薬院の設置を建議し、養生所開所にも深く関わった小川笙船の子孫が代々世襲した」と述べています。
また、養生所の医療活動について、「幕医から選ばれた医師・見習医師そして肝煎(小川氏)、入所者の療養を助け、身の回りの生活を補助する看病中間(女看病人)、食事の世話をする賄中間、所内の事務を取り仕切る養生所見廻り与力・同心・小普請組同心によって支えられていた」ことを解説しています。
そして、患者は「男性が圧倒的であった」理由として、「男性の独身者が多い江戸の都市社会の特徴をまさに反映している」とした上で、「瘡毒(梅毒)患者が多かったことは間違いない」と述べています。
第4章「寛政の医療改革──養生所と医学館・町会所」では、町会所の窮民救済について、「個人の疾病にせよ、流行病にせよ、病気と深い関わり合いを持って実施されていた」と述べ、「この関係が養生所の施療事業にも大きな影響を与えていた」と述べています。
第5章「養生所の病巣──劣悪な療養環境」では、「文政4年前後を境に明確となった入所希望者数減少の流れは、その後も止まらなかった。むしろ、その流れはますます顕著になり、入所者数が大きく定員割れする状態に陥った」と述べ、幕府当局は、「養生所を管轄する町奉行書を通さずに、密かに養生所の施療活動に関する情報」を集め、「自体を深刻視した幕府は、養生所改革を決意」したと述べています。
そして、「医師の投薬量の少なさ」と質の悪さについては、「支給されていた薬種料の少なさに大きな原因があった」としています。
また、養生所の入所に際しては、「いつの頃からか、入所者側には干肴(魚の干物)を100枚持参する慣習」があったが、「入所中、身の回りの世話をする看病中間の側では、代わりに銭400文を持ってくるよう求めていた」と述べ、「入所者はその立場の弱さから、泣く泣く看病中間に干肴代な様々な形で金銭を差し出したり、役掛りから食べ物や煎茶を買っているのが実状」であり、「その余裕のない者は、看病中間や役掛りから有形無形の虐待を受けて、いたたまれなくなり、退所に追い込まれてしまう」と述べ、入所希望者が激減した理由の一つとして、「ある程度の金銭的余裕がないと入所できない施設に変質していた」ことを挙げています。
このほか、入所者に支給されるはずの物品を横領しては売り払って自分の所得にしていたことを挙げ、「一連の不正行為により、中間等が得た徳分は、年額で10両から15~16両にも及んだらしく、それは給金の5倍から10倍近くにもあたっていた」と解説しています。
第6章「療養所改革の挫折」では、「幕府が何度となく改革を試みたにもかかわらず、養生所の施療活動は改善されなかった」理由として、
(1)医師の割の合わない診療報酬の問題
(2)看病中間らの不正行為に対する町奉行所の姿勢:人の嫌がる仕事の性格上、後任がいなくなってしまうことを恐れた。
(3)与力・同心の「不浄之場所」という養生所への認識
等の点を挙げています。
そして、「天保改革のとき、養生所の要とも言うべき医師の問題に、ようやくメスが入れられたが、中間らの一連の不正行為や町奉行所与力・同心の勤務態度は結局改まらず、今回の改革もかけ声だけに終わってしまった」と述べています。
エピローグ「養生所の遺産」では、養生所の活動は「微々たるもの」ではあったが、「数字以上のものを、江戸の社会にもたらしたという側面も無視できない」として、養生所も養生の文化を具現化したものとして、「養生の文化(知)を浸透させる大きな役割を果たしていたのではなかろうか」と述べています。
著者は、「近代医学の限界性が露呈した今日、江戸以来の養生の文化が再評価されているが、江戸時代、養生所はそのコンセプトを具現化するものとして、養生の文化、養生の知の普及に大きく貢献していた」と述べています。
本書は、養生文化の象徴としての「養生所」のあり方を今に伝えてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
「養生所」と聞くと心安らかに健康的な暮らしをイメージしてしまいますが、ただでさえ病に重ねて、職員による虐待やピンハネなど、まるで『カイジ』の裏社会を想像してしまいました。とは言え、看護婦さんに対する「心づけ」があるかないかで対応が違うという話は今でも聞く話ですし、福祉施設での虐待なども考えると、決して江戸時代の話、過去の話ではなく、今でも同じ問題は温存されているような気がします。
■ どんな人にオススメ?
・「赤ひげ」とか好きな人。
■ 関連しそうな本
山本 周五郎 『赤ひげ診療譚』
吉原 健一郎 『江戸の町役人』 2008年01月04日
田中 圭一 『百姓の江戸時代』 2007年09月16日
大久保 洋子 『江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓』 2007年11月18日
岡崎 哲二 『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』 2006年01月19日
速水 融 『歴史人口学で見た日本』 2007年12月26日
■ 百夜百マンガ
石川賢ワールド炸裂ということで今でも根強いファンが多い作品。ストーリー的には掲載誌の都合もあって色々あるのですが、永井豪を含めてこの手の作品は、客観的にストーリーを見たりしてはいけません。とにかくその場の盛り上がりに身をゆだねるのが大切です。
投稿者 tozaki : 2008年10月10日 06:00
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