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2008年12月27日

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望

■ 書籍情報

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望   【立身出世主義―近代日本のロマンと欲望】(#1437)

  竹内 洋
  価格: ¥1071 (税込)
  日本放送出版協会(1997/11)

 本書は、単なる欲望にとどまらず、あるときは、東都の華やぎや躍動のオーラによって、あるときは脱落の恐怖のようなベールによって彩色された観念のドラマ」であった「立身出世(主義)」に、なぜ近代日本人が誘惑されたかを読み解いたものです。
 第1章「立身出世主義と社会ダーウィニズム」では、「立身出世」という言葉は、「江戸時代にすでに使われていた」言葉であるが、「江戸時代と明治時代とでは、立身出世という言葉の使われ方や立身出世現象を取り巻く意味の世界が大きく異なって板」として、明治になって、「武士の立身と町人などの庶民の出世という分節化は終わり、立身出世という人つながりの言葉が使用されるようになる」と、「立身出世の加熱モーターが音を立てて回り始めた」と述べています。
 そして、社会ダーウィニズムが、「日本人の背後感情である零落の危険という希少性の神話を言葉化するにふさわしいレトリックであり、しかも受験競争化された立身出世によってますます信憑性をましていった」と述べています。
 第2章「勉強・遊学・書生」では、「勉強は『無理をする』あるいは『骨折って励むこと』つまりたゆみない努力を意味する言葉にすぎなかった。あるいは、『安売り』を意味したにすぎない」とした上で、「勉強の意味が勤勉から学習に変化したことには『学問のすヽめ』の大きな影響があることが推測される」と述べ、伝統的な用語である「学ぶ」や「学問」に、「成人への道という道徳的修養の残響がある」のに対し、「勉強」は、「徹底的に現世的な意味(富貴)が込められた」として、社会的成功の帰属要因を、
(A)能力主義:能力→成功
(B)努力主義:努力→成功
(C)能力=教育主義:能力→教育→成功
(D)努力=教育主義:努力→教育→成功
(E)社会的再生産論:階級→成功
(F)文化的再生産論:階級→教育→成功
の6点に整理しています。
 そして、戦後の高度成長期以後の社会において、「勉強をめぐる意味の世界が大きく転換」し、「今や努力主義にも功利主義の匂いが嗅がれるだけでなく、努力や勤勉は才能のなさや余裕のなさに読まれてしまう」と指摘しています。
 第3章「受験生という装置」では、「あらゆる人に対して、何ものであり、何ができ、何処に配したらよいのかを知ろうとする」まなざしの作用として、ミシェル・フーコーのいう「規律訓練力」を挙げ、「規律訓練力は、赤裸々な暴力を伴った抑圧的な権力ではない。身体や感情を自発的に制御させてしまう慎ましいが疑い深い権力である」と述べています。
 そして、「昔の受験生は本当にこうした刻苦勉励の受験生物語通りに勉強したのだろうか」という疑問を挙げ、「いまと同じで昔の受験生だって結構サボっていたし、あぶない遊びもかなりやっていた」が、昔の受験生は、「受験勉強の道から逸脱することにはかなりの罪の意識が伴った」ため、戦前の受験生は、「気力の衰えによる心身不調状態」で、「頭痛、目眩、耳鳴り、睡眠不能、不活発、記憶力・思考力減退などなんでもかでも夢精や悲観まで」もが症候群とされた「神経衰弱」という病気に罹ったことについて、「戦前の受験生とて刻苦勉励の受験物語をそのまま実行することが困難だった。しかし『病気』のせいにすれば、罪障感からは免罪される。また神経衰弱であれば、あまり根を詰めた勉強はしない方がよく、美しい景色や高尚な絵画を見ることが必要である」とする、「逸脱と怠けが正当化される」と指摘し、「最近の受験生は根性がない怠け者だというのは、大概の今昔言説がそうであるように、過去の捏造の部分が大きい」と述べています。
 第4章「学歴貴族の世界」では、旧制高校が、その前身である高等中学について、「社会上流ノ人」で「高等官」(官吏)、「理事者」(商業者)、「学術専攻者」(学者)のような「社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルベキモノヲ養成スル所」とされ、エリート学校として出発したことを挙げ、旧制高校→帝国大学ルートを辿った人々が、「教育市民層」を思わせると述べています。
 そして、「旧制高校生の学歴貴族としての身分文化や身分感情の基礎となったものが教養」であり、「教養主義は伝統的身分集団と切り離された学歴貴族のアイデンティティー確認のための身分文化だった」と述べています。
 第5章「学士『三四郎』の実人生」では、夏目漱石の小説『三四郎』の主人公小川三四郎の「就職や職業生活はどのようなものであったか」を推測し、「このころには大学卒業生の『腰弁』化が生じていた」として、「弁当代の余裕がないので風呂敷に弁当を包んで通勤する下級官吏」や、「企業の下級職員」を挙げ、「三四郎が大学を卒業した明治40年代は、高等教育卒業者であっても末端の仕事からはじめなくてはならない。また昇進に長い時間がかかる。こういう時代だった」と述べています。
 第6章「田舎青年の煩悶」では、雑誌『成功』の成功の背景に、「多くの田舎青年たちに立身出世熱が伝播し始めたことがある」と述べ、「中学講義録や普通文官講義録、尋常小学校教員受験講義録、陸軍受験講義録、鉄道員受験講義録など多種多様な職業資格試験をめざす講義録、英語やペン字、簿記、速記術などの講義録があらわれた」として、「苦学ができない田舎青年が講義録の主なユーザーだった」と述べています。
 しかし、講義録を元にした勉学の方法は、「朝は4時くらいに起床し、夜はどんなに眠くとも12時までは勉強しなければならない」というもので、「大半の田舎青年にとっての中学講義録は、実は体よく野心をあきらめ(クール・アウト)させるものだったのではなかろうか」として期しています。
 第7章「苦学力行と錦衣還郷」では、明治20年代までの苦学は、「さまざまなネットワークに庇護」されていた「庇護型」苦学であるのに対し、明治30年代に士族以外の貧しい階層に広がった上京遊学熱による、「東京へ行けば何とかなるだろう」と、ネットワークなしで、とにかく東京へ行けばの上京(苦学)が大量現象として始まりかける」として、「この間に苦学の大量現象化という量的変化と『庇護型』苦学から『裸一貫型』苦学への質的変化があった」と指摘しています。
 そして、「苦学は勉学立身をタテマエの動機にしていたが、深層の都会への憧れや家出願望の扮装でもあった」として、「進学は都会への憧れを正当化する格好な語彙であった」と指摘しています。
 第8章「たたき上げと学校出の確執」では、明治30年代後半から、銀行や財閥系の大企業で「学校出」の採用が始まった理由として、「民間企業が学校出を採用したのは組織や組織成員の社会的威信を官庁や官吏と同格化することにあった」と述べています。
 第9章「受験家族と新高等遊民の誕生」では、新中流階級の家族が受験家族となった理由として、「新中流階級は継承すべき財産がないから、文化資本を学歴資本(男子は高等専門学校、大学、女子は高等女学校)に変換し、さらに学歴資本を経済資本に転換するという再生産戦略を行使しなければならなかったから」だと解説しています。
 そして、大正時代以後の新中流階級に育った子弟の心性として、「受験競争が厳しくなればなるほど(長期的)野心が解体するというパラドックスが生じた」として、彼らにおいては、「立身出世という言葉も消え去り始め」、立身出世が、「むしろ下級官吏や下級鉄道員などのささやかな上昇移動を目指す苦学・独学人の世界でのキーワードになった」と述べています。
 第10章「ささやかな出世と癒しの文化」では、立身出世の機会が減少した明治後半期に立身出世本が多数出版されていることについて、「大臣や大将といった立身出世の英雄からは程遠い」ささやかな「出世」が、「立身出世と意識される」ところに、立身出世熱の「保温」の秘密があるとして、「庶民に立身出世主義が広がるにしたがって立身出世もささやかになった」ことを、「ささやか立身出世主義」と名づけています。
 第11章「物語の終焉」では、「農村が貧しかったころは、高等教育卒業者でなくて大企業の下級官吏職などのささやかな上昇移動をなした人でも、貧しい農村を地にして図柄である社会的上昇移動を『立身出世』として激化できた」が、戦後、「上昇移動を立身出世として鮮明化した農村が今や大幅に縮小した」だけでなく、「上昇移動」は、「都市化された農村」の上では、「鮮明な対照を示さなくなってしまった」と述べています。
 そして、「上昇移動にドラマ性を付与した動機の文法(侮辱を憤慨して発奮した立身出世)の存立基盤(身分階層秩序)が大きく崩壊してしまった」ため、「人々のルサンチマンの負荷が下がった」と指摘しています。
 第12章「欲望なき競争とそのゆくえ」では、受験社会を、
・受験社会I:学歴社会や立身出世物語を背景にした受験社会
・受験社会II:学校ランクや偏差値ランクがそれ自体として競争の報酬になり意味の根拠となってしまう。
の2つに分けた上で、「大衆受験社会=受験社会II」の危うさは、「競争の激しさによって挫折感などの心の傷をもたらす」ことではなく、「空虚な主体という精神の官僚制化の大衆的蔓延」にこそあると指摘しています。
 著者は、「立身出世を単なる欲望としてだけで見るべきではない。栄耀栄華でも脱落の恐怖でもない、構想力という希望を背景にした新しいアンビションの時代の開幕を願うものである」と述べています。
 本書は、単なる上昇志向と受け取られがちな「立身出世主義」を、戦前の時代背景の中でわかりやすく読み解いた一冊です。


■ 個人的な視点から

 今の日本ではあからさまな上昇志向の強さは敬遠される傾向にありますが、「立身出世」という言葉にはもっとストイックな感じを受けます。その意味で、健全な「立身出世」志向は望ましいものではないかと思います。
 ちなみに、戦前の青年がよく「神経衰弱」という病気にかかっていたうちのいくらかは怠けも入っているという推測がありましたが、現代の「ひきこもり」も現象だけを見るのではなく、その原因をみていくと、いろいろありそうです。
 本書で取り上げられている、明治時代の立身出世の指南書、通信教育の広告、苦学の指南書などを読むと、現在、本屋で山積みになって売られている数々の「ビジネス書」の類とほとんど変化がないような気さえしてきます。特に、本が瞬間的に読めるようになると人生が変わる、とかの自己啓発系の本は、100年後といわず、20年後くらいには、面白おかしく語られるようになるのかもしれないと思ってしまいます。やっぱり、コンプレックスを刺激する商売はいつの時代も手堅いです。


■ どんな人にオススメ?

・立身出世という言葉は過去のものだと思う人。


■ 関連しそうな本

 竹内 洋 『立志・苦学・出世―受験生の社会史』
 天野 郁夫 『学歴の社会史―教育と日本の近代』
 竹内 洋 『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』
 竹内 洋, 伊藤 隆 『日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折』
 荒井 一博 『学歴社会の法則 教育を経済学から見直す』 2008年12月17日f
 小塩 隆士 『教育を経済学で考える』 2005年02月13日


■ 百夜百音

Baroque Favorites from 【Baroque Favorites from "Kramer vs. Kramer"】 Soundtrack オリジナル盤発売: 1988

 「クレイマー」というのが、さんま師匠の「クレーマークレーマー」とは意味が違うことは何と無くわかってましたが、名前だったということは今日初めて知りました。

投稿者 tozaki : 2008年12月27日 06:00

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