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2009年01月01日

高度経済成長は復活できる

■ 書籍情報

高度経済成長は復活できる   【高度経済成長は復活できる】(#1442)

  増田 悦佐
  価格: ¥735 (税込)
  文藝春秋(2004/07)

 本書は、「日本経済の高度成長が70年代前半に終わったのは、経済成長を敵視する社会主義革命家が政権奪取に成功したからだという主張を展開する」ものです。著者は、日本経済の成長率が一番大きく落ち込んだのは、バブル崩壊ではなく、「1970年代前半のこと」だと指摘しています。
 第1章「日本経済はどこで間違ってしまったか」では、高度成長期の日本経済が、「ありとあらゆる差別が弱まる方向に社会全体が変わっていった経済」で、「できるだけの大勢の人が平等な条件の下、自分でつかんだ仕事から得る報酬で食べていけて、しかも、なるべく実績本位で人を雇っていかなければ企業として競争から脱落してしまうような社会だった。世界経済史の中で例外的に長い期間にわたってこの黄金時代を実現していたからこそ、日本の戦後経済は高度成長を達成できた」と述べています。
 そして、1960年代末まで、年間40万~60万人に達していた地方から大都市圏への人口流入が、70年代半ばについにゼロまで落ち込んでしまうという「地方から大都市圏への人口移動の縮小」と平行して、「日本経済は他の先進国並みの低成長経済へと転落する」と述べるとともに、「家を絶やさないために地方に跡取りを縛り付けるような行動様式は、江戸時代後期から戦前までの日本では、よっぽど格式の高い旧家以外にはほとんど定着していなかった」と指摘しています。
 著者は、「戦後の日本経済は、世界中でもめずらしいくらい階級とか身分とか人種とかの差別の少ない社会で、しかもみんなが自由に自分にとって何がいちばんいいかを判断して行動できる、自由競争の市場経済の理想型に近い社会だった」が、「日本人の大半は、1960年代末から70年代はじめに日本で『忍び寄る社会主義』勢力が政権奪取に成功したなどということは、夢にも考えなかった」と述べています。
 第2章「誰が高度成長経済を殺したのか」では、「生活に不安のない文化人、知識人たちのあいだでは」、「『たかが金のために』あくせく働く人たちを量産した人間的なゆとりを欠いた経済だ」として、高度成長は評判が悪いが、著者は、「金のために一生懸命働く」や、「金を儲ける機会を求めて都会に出ていく」という行動は、「悲惨な生活から脱出するための人間的で崇高な行為だった」と述べ、終戦直後の「勤勉に仕事さえすれば地位も収入も上がる」という熱気を受けたのは「大都市圏の民間企業に勤めるサラリーマンたちばかり」ではなく、「今では国や自治体から少しでも大きな保護を引き出すことしか考えていないのではないかと思えるような地方の小さな漁業集落をも突き動かした」として、世界で初めてノリ養殖の人工採苗の実用化に成功した有明のノリ養殖事業の例を挙げています。
 一方、「大都市圏と地方との経済格差をなくせば、もっとすばらしい国になる」という考えた、「旧内務省の都市計画官僚たち」が、1962年に最初の全国総合開発計画の制定以来、約40年にわたって推進した全総路線によって、「反映する資格のある街は、どんな田舎にあっても繁栄する。繁栄しないのは繁栄するために必要な経済的条件が欠けているからだ」という形で進んでいた人口獲得競争を「ほぼ完全にぶちこわしてしまった」結果、「日本全体も70年代前半頃から急激に風通しの悪い社会になっていった」と述べています。
 著者は、「『だれもが一生、生まれ育った土地を離れることなく暮らせる社会をつくる』という理想の実現で、「日本経済はいったいどれだけ貴重なものを失ったことだろうか」と指摘しています。
 第3章「実行犯は田中角栄」では、「田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ」として、彼が、政治手法を、「三宅正一や小林進などの社会党の農民運動指導者から学んだ」として、「田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えていったのだ」と述べています。
 そして、「田中角栄が自民党内で革命を起こそうとしていることが、なかなか周囲に感づかれなかった理由」として、「自分の政権奪取能力、政策遂行能力、利害調整能力に絶大な自信を持っていた田中は、政治理念を宣伝して同志を募るという過程を省略し、たったひとりで革命を成し遂げた」と述べ、当時の北朝鮮国家元首、金日成は、田中角栄政権の本質を、「『革命家』による政権奪取」と見抜き、毛沢東も、「日本に革命を起こした同志」と見なし、「実務家同士らしく『米ソ覇権主義二大帝国に抗して、日中同盟を作ろう』という議論をしたらしい」と述べています。
 また、全総路線が、「大都市圏と地方との経済格差を縮めることには成功した」が、それは、「手術は成功したが、患者は死んでしまった」というような成功だったと述べています。
 第4章「『弱者』をふやしたがる『黒幕』たち」では、「苦しくても自力で生きようとする都市勤労者の見方は少ないが、生活水準は高いのに『保護がなければやっていけない』という泣き言ばかり並べている『かわいい弱者』たちには大応援団がついている」として、「与野党含めてあらゆる政治勢力からマスコミまで、一斉に保護政策の拡充を大合唱する」と述べています。
 そして、駅前商業地の衰退が話題になるが、「衰退しているのは、もともと需要もないのに『立派なウワモノさえ作れば需要は後からついてくる』といったそごう型の再開発便乗路線でできた図体ばかりでかくて中身の薄い大型店舗しかない商店街か、大型店舗を排除して自滅したところだけだ」として、「商売をしていて『競争が激しいからうまくいかない』と言うのは、100メートル競走のスタートラインで『ほかの選手もみんな一生懸命走ったんじゃ自分に勝ち目はない』と泣き言を並べるようなものだ」と述べています。
 また、農業に関しても、「きちんと金になる作物をつくれば食っていける世の中で農村一般が『食えない』のは、自業自得だ。日本の農民が食えないのは、アメリカやアジアの農民が日本の農民よりずっとやすくコメを作れるからではない。効率の悪すぎる稲作にしがみついているからだ」として、「政府の保護が及んでいない作物を作って失敗すれば自分の責任だが、コメを作っている限り低水準でも安定した収入は保証されている」という根性でコメにしがみついているから「農業では食えない」のだと指摘しています。
 さらに、「どんなに劣悪な環境に生まれた人間でも、一生自分の生まれ故郷で暮らしたがっているはず」だとするのは、「愚にもつかないセンチメンタリズム」であり、「こんな不便でチャンスも少ない場所からは脱出したい」と思う人がいるから「過疎地は過疎化が進む」のであり、「人間が住むには不便なところにわざわざ人間が住み続けられるように巨額の公共投資をするのは、全くの無駄」だと指摘し、過疎化は、「辺鄙で不便な土地に生まれた人間にも自分の行きたいところに行き、住みたいところに住む自由が確保できるようになった時初めて進展する社会現象」であるので、過疎化は「良いこと」だと述べています。
 第5章「『弱者』のための利権連合がつくった世界」では、「公共事業費の傾斜配分が、『平等』の名のもとにいかに大きな不平等をもたらしたか」について、日本の地方財政が、「税金の支払額が少ない地方ほど自治体による財政支出が大きいという異常事態を、過去40年近くにわたってつづけてきた」だけでなく、もし「通勤時間で給与を稼ぐことができたらいくらになっていたかという数字を、都道府県ごとの実質勤労世帯成員一人当り収入から引いてみる」と、東京都は47都道府県中17位まで後退し、大阪府(41位)、千葉県(44位)、埼玉県(42位)、兵庫県(45位)など、最下位争いに加わることになると述べています。
 そして、「世界中の先進国では、女性の就業機会の多い大都市圏のほうが共働き世帯比率も高いのが普通」だが、日本では、大都市圏ほど共働き比率が低い理由として、
・大都市圏ほど保育所の数が少ない
・郊外のベッドタウンでは、就業機会は遠隔地にしかないため、かなりの長時間労働でなければ、コストと収入のバランスが合わない。
ことなどを挙げ、「こんな情けない実態」が定着してしまったのは、「公共事業費の配分が圧倒的に地方に有利で、大都市圏に不利だったから」だと述べています。
 また、田中角栄自身は、「列島改造」が、「大都市の勤労者から奪った金を、農林漁民、中小企業経営者、零細商店、地場ゼネコンにばら撒く」政策だとわかっていたため、都市勤労者を敵に回さないために、「働いているうちは利権ではつれなくても退職して年金生活に入れば、利権で釣れる『かわいい弱者』になるだろう」と考えたと述べています。
 第6章「高度成長は復活できる」では、「日本経済は世界経済の牽引役を務めるだけの潜在資源を持っている」として、
(1)国の保護に依存した地方の方が自前で生きている大都市圏より実質所得水準が高いのに、自力で生きようと地方から大都市圏に移住してくる若い人たちの存在。
(2)世界中で東京だけが高密大都市には不可欠の発達した鉄道網によって、人口集中と環境にやさしい都市文明を両立させていること。
の2点を挙げています。
 そして、日本では、「広々とした大地とともに生きるのどかな田園生活」が、「環境に優しい持続可能な社会だと思っている人が多い」が、「本当に多くの資源を子孫たちに残すにはコンパクトな都会に住むべき」だと述べ、「今、欧米の先進的な都市計画プランナーたちが知恵を絞っているのは、『駅から歩いていける距離の中に生活に必要なあらゆる施設が密集していて、しかも一つの駅からの徒歩圏とその次の駅からの徒歩圏との間に空白がない都市圏を育てる』という課題だ」として、「これは昔から東京の真ん中に住んでいる日本人は、なんのありがたみも感じずに恩恵に浴してきた生き方だ」と述べています。
 また、「大都市圏と地方との経済格差は、移動の自由さえあれば問題ではない。経済的な機会を求める人たちはどんどん大都市圏に移住すればいい。地方を選ぶ人は経済的不利益を承知の上で、地方が好きだから地方を選んでいるのだから補償する必要はない」と述べ、「もし効率本位の経済政策が採られたら、だれも地方に住まなくなってしまう」という主張こそ、「底の浅い物質万能論」であり、「広々とした空間やゆったりとした生活のペースといった、金には換算できない地方の魅力を軽視しすぎている」と指摘しています。
 本書は、多くの人が内心では感じていながらも、口に出すのをはばかられていたモヤモヤとした感じを、はっきりすぎるほどはっきりと、ズバッと切り込んだ一冊です。


■ 個人的な視点から

 1970年代が、日本の社会主義革命の成就した時期だと言い切ってしまうのは、極端といえば極端なところがあり、その前からも官僚による規制行政は綿々と続いていたわけですが、田中角栄が成し遂げたのは、単純な政権奪取ではなく、地方にお金を回さなければならない、という国民の価値観に対する壮大な変革の訴えだとすると、この時期を境に、日本経済と日本社会は、ドラえもんの「もしもボックス」が現実になったかのごとくの価値観の変化にさらされたのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・高度経済成長期は日本の闇だと思う人。


■ 関連しそうな本

 増田 悦佐 『国家破綻はありえない』
 増田 悦佐 『日本文明・世界最強の秘密』
 増田 悦佐 『日本型ヒーローが世界を救う!』
 土居 丈朗 『財政学から見た日本経済』
 土居 丈朗(編著) 『地方分権改革の経済学―「三位一体」の改革から「四位一体」の改革へ』
 土居 丈朗 『三位一体改革ここが問題だ』


■ 百夜百音

ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」【ファミコン サウンドヒストリーシリーズ「マリオ ザ ミュージック」】 ゲーム・ミュージック オリジナル盤発売: 2004

 テレビ番組の企画で、スーパーマリオのゲームをプレイするときの音を消して、それに合わせてBGMと効果音をリアルタイムで弾く、というのがあったのですが、このすごさは、実際にゲームをやった経験のある人にしかわからないんじゃないかと思います。
 そういえば、Youtubeでは、両手でギター2台をタッピングしてスーパーマリオの曲を弾いている人がいましたが、これまたすごい。

投稿者 tozaki : 2009年01月01日 06:00

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