2008年09月02日

新書百冊

■ 書籍情報

新書百冊   【新書百冊】(#1321)

  坪内 祐三
  価格: ¥756 (税込)
  新潮社(2003/4/10)

 本書は、「『新書』というメディアをテーマに、まさに『新書』という器」で、「読書という時代を超えた文化や文化行為の力強さを、特に若い人に伝えるべく」書かれたものです。
 著者は、「本というメディアとの関係について、20世紀日本は4つのサイクルに分けられる」として、
(1)第1期(1900年~1925年):本は限られた人たちだけのものだった。
(2)第2期(1926年~):円本(1926年)や岩波文庫(1927年)の登場による教養主義的読書層の誕生。
(3)第3期(1975年~):若者たちの間ではサブカル的読書が主流に。
(4)第4期(2001年~):サブカル的読書もその実質が見えず、文化としての読書は変質してしまった。
の4つの区分を挙げ、「読書という文化の大きな一つのサイクルが終わった」が、「その終焉は、逆に、新しいサイクルの始まりであるかもしれない」と述べています。
 第1章「自らの意思で新書本を読み始めた頃」では、高校時代に出会った岩波新書の『新唐詩選』を挙げ、「私の中で、新書という『本』の一つのイメージの原型をなしている」と述べています。
 また、高校3年当時、「とてもジャーナリスティックな話題をよんでいた」渡部昇一の『知的生活の方法』を手にし、「そろそろ読書に対する本格的な物心がつき始め、『知的生活』というものにちょっと興味がわいた」のではないかとした上で、歯切れのよい文章で、「一つの読み物としてかなり面白く読んだ」にもかかわらず、幾つか引っかかった点として、「英文解釈における『あてずっぽう』を批判」したことや、「わからないのにわかったふりをしない」という「知的正直(インテレクチュアル・オネスティ)」、そして、「少年の頃に芥川などを読んでいた近所の早熟少年は、中学時代に痴漢となった」などを挙げた上で、久しぶりに『知的生活の方法』を通読してみて、「この本が単なる教養主義礼賛の書ではなく、1976年という時代相を背景に、もっと複雑な内容を持った書であることを知った」として、「これは、新しい教養主義礼賛の書」であり、「古い教養主義批判の書」であったと述べています。
 第2章「新書がどんどん好きになっていった予備校時代」では、浪人生時代、「一種の自己逃避的気分」から、「試験前になると、試験勉強以外のことを猛烈に行いたくなる」として、「私の場合、それが読書だった」と述べています。
 そして、「その頃手にした岩波新書の黄版で一番強く印象に残っている」物として、大岡信の『詩への架橋』を挙げています。
 著者は、「浪人生というのはきわめて身分が不安定」であり、「何ものでもないからこそ、ひそかに、内側から自分を鍛えなければならない。そのための最大のトレーニングが読書だった」として、「生涯で一番読書をした」と述べています。
 第3章「新書で読んだ読書ガイドと読書法と書斎の話」では、1962年の刊行時には幻と言えた「日本の名著」の幾つかが文庫本で手軽に読めるようになったおかげで、「受験勉強に響いてしまった」として、竹越与三郎の『二千五百年史』を挙げています。
 そして、著者が「新書による読書案内が好きだった」として、清水幾太郎の『本はどう読むか』を挙げ、「いい意味でプラグマティックな読書(読書法)ガイドとして役に立った」と述べ、「読み方にもスピードが必要だ」として、著者というものは、「皆、『相当のスピードで』原稿を書いている」ので、「文章を貫く一筋の連続性」が生まれると紹介しています。
 第4章「講談社現代新書のアメリカ文化ものは充実していた」では、早稲田大学第一文学部入学時には、「浪人時代の多読が功を奏して」、「学びたいと思ってい学問の領域がかなり多様化していた」と述べています。
 また、「ザ・ダイナマイツや村八分などで活躍した伝説のギタリスト」山口冨士夫が、2002年夏のインタビューで、家出した13歳くらいのときに「岩波文庫」の『アメリカの少年たち』という本を手にして「アメリカの体制に反抗しているギンズバーグとか」を目にしたと語っていることを紹介して、谷口陸男の『アメリカの若者たち』を取り上げています。
 第5章「やがて来るニューアカ・ブームを前に」では、1978年当時、「知の世界での大きな変動、いわゆるパラダイム・チェンジが進行しつつあった」として、松岡正剛の『遊』、三浦雅士の『現代思想』や『ユリイカ』、さらには『エピステーメー』などのカルチュアー雑誌が、「知的ミーハーの若者たちに強く支持された」と述べています。
 そして、「知のパラダイム・チェンジ」を反映したものとして、中村雄二郎の『述語集』を挙げ、「暗黙知」、「エントロピー」、「記号」、「劇場国家」、「コスモロジー」、「ダブル・バインド」、「分裂症(スキゾフレニア)」などの"述語"を中村が「知の仕掛けとしての述語」と読んでいることを、「当時の時代相が懐かしく思い出される」と述べています。
 また、『中世の風景』など、中公新書には対談や座談会の優れたものが多かった」と述べています。
 さらに、大学1年の夏に出会った矢沢永一の『完本・紙つぶて』について、「『本の神話学』と並んで当時も今も私にとって読書のバイブルである」と述べています。
 第6章「作家の書いた新書本とお勧めの伝記物」では、高校3年の終わりから浪人時代にかけて受講していた「Z会」や「オリオン」の通信添削の問題文で使われた岩波新書の文学物として、平野謙の『昭和文学の可能性』と武田泰淳の『政治家の文章』を取り上げています。
 また、著者が大学時代を過した1980年前後が、「知の大変動期であったと共に、また、新たな言文一致体が勃興した(あるいはそれを模索した)時代でもあった」として、小説の村上春樹や島田雅彦や高橋源一郎、ノンフィクションの沢木耕太郎や関川夏央や猪瀬直樹、スーパーエッセイの椎名誠や嵐山光三郎や村松友視など、「新しい文体を持った書き手たちが次々に登場した」と述べています。
 本書は、著者の読書遍歴を年代順に追ったものなので、年代が違うと少しピンとこないかもしれませんが、この年代の人たちの読書観を知るきっかけになる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の目次のところには、プロローグから第1章、第2章と、紹介されている新書を横に並べた背表紙の写真が収められています。なにやら古本屋さんの新書コーナーを眺めているようで楽しい演出です。


■ どんな人にオススメ?

・新書をこよなく愛する人。


■ 関連しそうな本

 宮崎 哲弥 『新書365冊』 2008年07月07日
 渡部 昇一 『知的生活の方法』 2005年10月09日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 ポール・R・シーリィ (著), 神田 昌典 (翻訳) 『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 2006年01月15日
 立花 隆 『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』 2006年07月29日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日


■ 百夜百マンガ

おもひでぽろぽろ【おもひでぽろぽろ 】

 ジブリで有名な作品の原作。声優さんというか俳優さんに合わせたキャラクターの印象が強い人には原作は入り込みにくいかもしれません。


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2008年08月24日

読書の腕前

■ 書籍情報

読書の腕前   【読書の腕前】(#1312)

  岡崎 武志
  価格: ¥819 (税込)
  光文社(2007/03)

 本書は、「これからもずっと楽しみとして本を読んでゆきたい、できるだけ読書の時間を多くとりたい、いろんな作家のいろんな本に触れてみたいと考えているような人」のために書かれたもので、「読んでいる最中に、無性に別の本が読みたくなる」ことを目指したものです。
 著者は、「人がすることすべて上達というものがある。何度も繰り返し、上手になりたいと願い、学び、そして少しずつ『腕前』が上がる」ように、「読書だってまったく同じ。読めば読むほどいろんなことがわかってくるし、前にはわからなかったことが、突然見えてきたりする」と述べています。
 第1章「本は積んで、破って、歩きながら読むもの」では、読書のメリットとして、「本を読むことで、他人を知る手がかりは得ることができる。また、本は、実生活では知りえぬ、膨大な人間のモデルを提供してくれる。しかも、相手の忖度を気にせず、思うがまま、自由にそのモデルと触れ合うことができる」ことを挙げています。
 また、昭和30年代初めまでは、朝日新聞社が、「写真や原稿の遠距離輸送に鳩を使っていた」ことを、森本哲郎の発言から知ったことを挙げ、「この『知る』ことの楽しみを知ってしまったからには、読書をやめろと言われても、いまでは遅すぎる~」と語っています。
 さらに、「本を読む時間がない」と言う人は多いが、「その気になれば、ちょっとした時間の隙間を利用して、いくらでも読めるものなのである」として、「2分、3分といった細切れ時間であっても、合計すれば1日20、30分にはなるはず」であり、「毎日30ページ近くは読める」、「新書程度の分量なら1週間に1冊は読了できる。要は、ほんとうに本が読みたいかどうか」であると語っています。
 そして、「ツン読」の効用について、「『買った本を全部読む』ということは、言い換えれば、『ぜんぶ読む本しか買わない』からであり、しかも本は一度読めばそれで用が済むと思っているからだ。おめでたいことこの上ない」と述べています。
 第2章「ベストセラーは十年後、二十年後に読んだほうがおもしろい」では、著者が、「書評家」の肩書きを名乗り、新聞や雑誌で書評を担当している中で、「書評を書いていて難しいと思うのは、まずはなんといっても字数の問題だ」と述べ、一番多い「800字では、その本が著者にとってどういう本であるかの位置づけ、あらすじ、読みどころ、ポイントとなる箇所の引用、締め(着地)を並べるだけで精一杯」だと述べています
 そして、いろいろなベストセラー本を読んできた結論として、「その8割方は読み通すのに苦労し、呼んで得たものもほとんどなかった。自分で買うかと言われればとんでもない。よく、みんなこんなものに金を出して、挙句に『感動した』だの『癒された』だの『生きる指針となった』などと言えるよな、とあきれるほどの代物だった』と述べたうえで、「ベストセラーは『売られている本』の代表なのである。『読まれている本』の代表なのである。だから、ベストセラーを見れば、日本の出版が見えてくる」とする長江朗の定義を紹介しています。
 第3章「年に三千冊増えていく本との戦い」では、古書店主から直木賞作家になった出久根達郎が、「本を処分する際に、読んでいない本を残して、読んだ本を売るのは間違いで、読んだ本こそ残すべきだ」と書いていたことを取り上げ、「一度読んだ本音場合、そこに何が書かれているかを知っている。読後しばらく経って、書いてあったことを再確認するときに既読の本は必要だ」と解説しています。
 第4章「私の『ブ』攻略法」では、著者が、ブログなどであまりひんぱんに「ブックオフ」と書くのが面倒になり、「ブ」とだけ標記するようになったところ、「まわりの友人も隠語として使うようになり、今では定着している』と述べています。
 第4章「旅もテレビも読書の栄養」では、書評の仕事を看板に掲げていると、「どんな本を読んだらいいか、お薦めの本はありますか」と訊かれることがあるが、「いつも返事に窮してしまう」と述べ、「書評家は、お薦め本の自動販売機ではないのだ」と語っています。
 そして、片岡義男が、「本を読むための旅」、すなわち、「なにかほかの目的がある旅行の合間に、というのではなく、本を読むだけのための旅行」を推奨していることを紹介しています。
 第6章「国語の教科書は文学のアンソロジー」では、読書だけは得意だった小学校3年生の著者が、物語を決められた時間内にどれだけ読めるか、というテストで、全部読み終わったにもかかわらず、担任教師から、「全部読んだ」のはウソだ、「(劣等生の)おまえなんかに、これが全部読めるわけがない」と言って、「おまえならこの程度だ」とプリントの半分のところに線を引かれた体験を、「おおげさでなく、刀で切りつけられたような痛みが走った」、「このときの無残な気持ち、屈辱は、死ぬまで忘れない。わすれようもない、生まれて初めての大きな傷をこのとき負ったのだ」、「私は彼をこの先も絶対に許さない」と語っています。
 また、小学生時代に住んでいたアパートの隣に、スクラップ回収会社があり、そこの倉庫に忍び込んでは、雑誌を読みふけった体験を、「砂糖壺に落ちたアリ」と表現し、「"本人間"としての私の基礎体力は、この倉庫と学校の図書室での読書体験によって作られていった」と語っています。
 さらに、高校時代に、「毎年新学年に進級する直前に、新しい現国の教科書に一通り目を通すのが常だった」として、「当時の私は、現国の教科書を文学作品のアンソロジーと受け取っていた」と述べています。
 第7章「蔵書のなかから『蔵出し』おすすめ本」では、著者の蔵書の「少なからぬ量」が、「本の本」、「本について書かれた本」であるとして、「書評集、出版史、古本についての本、読書論の類が、軽く本棚に本はあるだろうか」と述べ、「ときに、本それ自体を読むより、本について書かれた本のほうが面白いくらいだ。そこで紹介された本がまた読みたくなりあるいは著者が本を読む姿や仕種を追うことで、読書欲が刺激される。これは読書の永久運動だ」と語っています。
 本書は、読書好きなら共感できる読書の楽しさのあまり、読書自体を職業にしてしまった著者が語る、読書生活をまとめた一冊です。


■ 個人的な視点から

 いくら本が好きでも、年間3千冊もの本を買い続ける人はなかなかいないと思いますが、著者の言葉のなかでも、「ツン読」に関する言葉は身にしみました。
 ツン読をしないということは、読む分だけしか本を買わない、という愚かなことだ、という言葉には共感すると同時に、本の置き場や購入費を考えると、欲しい本を欲しいだけ買うわけにはいかず、どうしても図書館が中心になってしまいます。


■ どんな人にオススメ?

・本が好きで好きな人。


■ 関連しそうな本

 松岡 正剛 『ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝』 2007年12月09日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 ポール・R・シーリィ (著), 神田 昌典 (翻訳) 『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 2006年01月15日
 松山 真之助 『マインドマップ読書術―自分ブランドを高め、人生の可能性を広げるノウハウ』 2005年05月01日
 立花 隆 『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』 2006年07月29日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日


■ 百夜百音

ベストアルバム【ベストアルバム】 ずうとるび オリジナル盤発売: 2008

 「笑点」で座布団を運んでいる人が何者かを知りたい人は、このアルバムを聴いてください。一番確実な生き残り方なのかもしれません。

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2008年07月07日

新書365冊

■ 書籍情報

新書365冊   【新書365冊】(#1264)

  宮崎 哲弥
  価格: ¥840 (税込)
  朝日新聞社(2006/10

 本書は、『諸君!』市場で連載された2つの新書評をまとめたもので、そのうちの一つ、「『今月の新書』完全読破」は、「毎月20日までに発売された新書を完全読破する」というコンセプトだったため、「少ないときでも六十冊、多いときは百冊」の新書を手にしたとしています。
 第1章「教養」では、竹内洋の『教養主義の没落』を取り上げ、「日本近代の教養主義には、大正時代に全盛期を迎える旧制高校という泉源があった」が、「戦後の学制改革による旧制高校の消滅でこの流れは杜絶する」としています。
 また、高澤秀次の『戦後日本の論点』では、山本七平がライフワークとして取り組んだ「天皇制の歴史的、イデオロギー的な構造分析」について、イザヤ・ベンダサン=山本七平のターゲットが、「『天皇制国家』そのものではなく、むしろ天皇を天皇たらしめた『日本教』の精神風土にあった」ことを紹介しています。
 第2章「哲学・論理学・数学」では、伊勢田哲治の『哲学思考トレーニング』において、「アメリカでは大学で哲学を専攻した者は就職の際に企業から歓迎される」理由として、「全体的な状況をよくとらえて分析する能力が身についている」可能性が高いからだと紹介しています。
 第3章「政治・国際問題」では、中岡望の『アメリカ保守革命』について、「前進的なイメージのアメリカの国柄に『保守』的な思潮は似つかわしくないし、『保守』という政治態度におよそ『革命』はそぐわない」が、「『保守革命としかいいようのない政治変革が、実際アメリカで起こった」ことを紹介するものであると述べています。
 また、鄭大均『在日・強制連行の神話』では、「強制連行が在日コリアンの経験談として流布されることになった」理由として、「それをよく語ったのは一世自身ではなく、幼少期に親とともに渡日した一・五世のほうだった。子が親の世代の苦難の物語を代弁したのだ。だが、その証言は一世の記憶や実感とは懸け離れた『神話』であった」と紹介しています。
 さらに、横江公美の『判断力はどうすれば身につくのか――アメリカの有権者教育レポート』では、アメリカの公民教育について、「争点の見極め、判断のための情報収集、比較衡量、討議など、意思決定の技術を徹底的に叩き込む教育法を知れば、少なからぬ人が抵抗を覚えるかもしれない。あるいは、日本的風土にそぐわしくないやり方だと斥けたくなるかもしれない」という違和感が「脳裏を掠めた」が、「斥けただけで済むはずがない」と「次々に疑問が湧き出」したと述べています。
 第4章「経済と金融・会計」では、赤川学の『子どもが減って何が悪いか!』を取り上げ、「世に蔓延る少子化言説の欺瞞性を徹底的に暴く告発の書だ。同時に、少子化問題を事例として、社会統計の正しい使い方、読み方を伝授する啓蒙書でもある」と紹介しています。
 第6章「歴史・文学・ことば」では、永山靖生の『日露戦争』を取り上げ、この新書ほど、「日露戦争のなかに現在や未来を感じさせるものはない」として、「『マスメディアによって供給される戦争情報を享受し消費する大衆』という、勝れて今日的な構図が、すでに日露戦争において浮かび上がっていた」ことを指摘するものとして紹介しています。
 第7章「社会・会社」では、三浦展の『ファスト風土化する日本』を取り上げ、三浦が、「郊外の特性として(1)生まれ育った地域が異なる人々が住むことによる『故郷喪失性』、(2)それ故コミュニティとしてのまとまりに欠ける『共同性の欠如』、(3)住民の年齢、所得、家族構成が似通っている『均質性』を挙げている」ことを紹介しています。
 第8章「若者・教育」では、山田昌弘『パラサイト社会のゆくえ』を取り上げ、本書が、「ライフコースの不確実化の諸相を、各種統計データの分析や事例研究などを通して明らかに」するものであると紹介しています。
 第10章「生きる・死ぬ」では、広井良典の『死生観を問いなおす』を取り上げ、「数年に一回くらいの確率で、真に本質的なことだけが説かれている書物に出会う」として、本書が、「間違いなくその一冊である」と述べています。
 第13章「メディア」では、武田徹の『戦争報道』について、「原理論の展開がやや甘い」という弱さを「補って余りあるのが、従来のジャーナリズム史への疑義をたっぷり含んだ各論である」であると紹介しています。
 第14章「文化」では、坪内祐三の『新書百冊』を取り上げ、「同じ『新書読み』としては驚きの内容だった」理由として、「坪内によって選ばれた百冊と私が選ばされたらリストアップするであろう百冊」とが、「ほとんど重ならないだろうと思えた」点を挙げています。
 また、岡田暁生の『西洋音楽史』では、「技法や様式が変われば、聞き手の感覚も変わる」として、「中世においては『ドミソ』は不協和音だった」、「ミ(三度)は悪魔の響きとして斥けられた」ことや、「中世においては、二拍子のリズムを導入することは『紙への冒とく』に他ならなかった。教会は三位一体を表す三拍子しか認めなかった」ことを紹介しています。
 第15章「宗教」では、小川忠の『原理主義とは何か』を取り上げ、「シカゴ大学原理主義研究プロジェクト」が、原理主義のイデオロギー的特徴として、
(1)近代化による宗教危機に対する反応
(2)選択的な教義の構築
(3)善悪に言論的な世界観
(4)聖典の無謬性の主張
(5)終末観的世界認識と救世思想
の5点に集約されることを紹介しています。
 また、島田裕巳の『創価学会』では、戦後の高度成長期に創価学会が教勢を急速に伸長させた背景として、「地方から都市への人口流入」を挙げ、「そのとき生家を後にしたのは、祭祀権を持たない次男や三男たちだった。彼らは生まれ育った村落から都会に移ることで、郷里の紐帯から遊離したばかりでなく、伝統的な先祖供養からも切り離された」と紹介しています。
 第14章「問題な新書」では、村上和雄の生命のバカ力』について、本書が、「科学者が『特異な』信念や信仰の虜になること」の「悪質な例」だと紹介しています。
 また、持田鋼一郎の『世界が認めた和食の知恵――マクロビオティック物語』では、「マクロビオティックは科学的な食餌療法ではない。易学を応用した『無双原理』という独自の世界観に基づく、事実上の宗教」であることを指摘しています。
 最終章「≪緊急インタヴュー≫その後の『新書完全読破』」では、政治・法律分野のお薦めとして、白田秀彰の『インターネットの法と慣習』を、経済では、大竹文雄の『経済学的思考のセンス』を推薦しています。
 その上で、「新書ブーム」と呼ばれる現状について、「新書ブームはもう終わったんじゃないか」と述べ、最近の新書が、「ビジネスマンの生き方指南書、人生論みたいなものが主流」になり、「学問知を伝えるにしても、その入口くらいで終わっている、『入門書』ならぬ『門前書』がほとんど」であると指摘しています。
 そして、「学者が書いたエッセイ風の入門書や人生論」にも、「昔は背後にしっかりした学問の体系があり、それをあえて表に出さずに易しくものを解き明かすというスタンス」だったが、「最近は、そういう学問的基礎もなしに、単なる思いつきを書きつらねたような本が多い」ことを指摘しています。
 本書は、新書ファンには、楽しみな出会いを増やす機会を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 新書とはいえ、月に60~100冊となると、1日2~4冊読まないといけないといけないわけで、人気評論家としては相当時間のやりくりが厳しかったのではないかと思います。読むだけだったら新書を月100冊はわけないと思いますが、アウトプットを求められるのが辛いところです。それ以上に、読みたくもない本を読まなきゃいけないのは相当たいへんだったと思います。


■ どんな人にオススメ?

・月100冊はともかく、年に100冊くらいは読んでおきたい人。


■ 関連しそうな本

 宮崎 哲弥, 小野 展克 『ドキュメント平成革新官僚―「公僕」たちの構造改革』 2006年04月13日
 モーティマー・J. アドラー, C.V. ドーレン (著), 外山 滋比古, 槇 未知子 (翻訳) 『本を読む本』 2006年07月02日
 ポール・R・シーリィ (著), 神田 昌典 (翻訳) 『あなたもいままでの10倍速く本が読める』 2006年01月15日
 松山 真之助 『マインドマップ読書術―自分ブランドを高め、人生の可能性を広げるノウハウ』 2005年05月01日
 立花 隆 『ぼくはこんな本を読んできた―立花式読書論、読書術、書斎論』 2006年07月29日
 加藤 周一 『読書術』 2006年07月23日


■ 百夜百マンガ

35歳で独身で【35歳で独身で 】

 元々のシリーズは、29歳独身だったのですが、今では35歳になってしまったようです。30歳では切迫感がないし、ということで、35歳くらいがギャグにできるエリアなのでしょうか。『ラブやん』のカズフサがついに魔法使いの仲間入りをしましたが、これも後10年経つと笑えなくなるのか、そういう世の中になっているのか、微妙なところです。

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2008年05月25日

だれが「本」を殺すのか

■ 書籍情報

だれが「本」を殺すのか   【だれが「本」を殺すのか】(#1221)

  佐野 眞一
  価格: ¥1890 (税込)
  プレジデント社(2001/02)

 本書は、「『本』のない生活は、色のない絵画や味のしない料理のようなもの」ほどの著者にとってもっとも身近な「本」の世界を、著者自身が手法にしてきたノンフィクションの形で表したものです。
 著者は、「『本』を取り巻く状況の変化を描くことを通して、われわれが今どんな地点に立っているのか」を記していくとしています。
 第1章「書店」では、「適正な市場規模をはるかに超えた新刊ラッシュとオーバーストア状況」が、「『本』の需給関係に決定的なアンバランスをもたらし、今日いわれる出版クラッシュを招く主因となった」と述べています。
 そして、旭屋書店社長の早嶋茂は、「これからは、欲しいものがどこにあるかわからない、というお客さんのサインをどうキャッチできるか」であるとして、「本屋は本来ソリューション(問題解決方法の提案、提示)ビジネス」ではないかと述べています。
 また、往来堂書店店長の安藤哲也は、本棚は「管理」するものではなく、「編集」するものであり、「朝、届いたダンボールを開けるまで何が入っているかわからない商売なんてほかにありません」と語っています。
 さらに、盛岡市の「さわや」店長の伊藤清彦は、「書店の店長の一番の仕事は、商品の内容分析」だと述べ、「本を読まない書店員は絶対だめです。うちでは、読まない人はすぐにやめてもらってます」と語っています。
 第2章「流通」では、ブックサービス社長で、元大和運輸の木村傑が、「ヤマトでは重たい荷物ばっかり担がされてきたから、本なんて軽い、軽い。出版会の方たちは頭がよすぎる人ばかりで……」と語っています。
 また、「書店に注文していくら待っていたとしても読者に本が」届かない理由として、現在では「5冊を最低単位として書店に発送している」ことを挙げ、「約20年前までは『経済重量』といって、最低20キロ、冊数で50~60冊にならないと発送しなかった」と述べています。
 そして、某書店人が「新刊ラッシュで埋もれた既刊の良書を売りたい」と雑誌のエッセイに書いたところ、大手版元の営業マンから、「書店は新刊だけ売っていたらいいんだ。お前みたいなことをいう店には今後新刊本を送らなくするぞ」という脅迫状を、「取次ぎの荷物と一緒に」送ってきたという逸話を紹介しています。
 さらに、イトーヨーカ堂社長/セブン-イレブン・ジャパンの会長の鈴木敏文が、イトーヨーカ堂の前に、東京出版販売(現・トーハン)に在籍していたことを紹介し、鈴木が、「まだ街の書店では朝10時にならないと店を開けないし、夜の6時か7時になると、もう店を閉めちゃう。その上、自分たちが発注して、自分が本を揃えるという発想がなく、取次から送られてくるものをただ並べている」と述べていることを紹介しています。
 著者は、鈴木へのインタビューの中で、「たいへんすぐれたマーケッターの裏に漂うかすかなルサンチマンのにおい」を嗅ぎ取ったとして、鈴木が、新聞記者への夢が破れて取り次ぎに就職したことを挙げ、「鈴木は出版流通のことを熱を込めて語りながら、こと『本』の内容となるとほとんど関心を持って」いないことは、「取次時代の息苦しい仕事と、どこか無意識の中でつながっているのではないか」と、自らは「妄想」であると逃げ道を作りながら語っています。
 また、紀伊国屋書店の松原会長は、ブックオフに対して、「そんなにお読みになった本があるはずはない」、「ほとんど万引きの品物が流れていっている」と述べ、ある大手書店の元店長は、「売れない書店の中にはブックオフから本を買ってきて平気で返品をしているところ」があると述べています。
 一方、ブックオフの坂本孝に対しては、原宿ラフォーレ前にオープンした旗艦店を、「外も内も本屋のオープンの雰囲気とはおよそほど遠く、アメ横の歳末セールか居酒屋チェーンの新装開店のようである」と揶揄し、「ピンク色のワイシャツに赤いネクタイ」の坂本に、ジョークのつもりで「今度出る『だれが「本」を殺すのか』のサイン会をここでやらせてもらえませんか」と言ったところ、「坂本はそれを真に受け、『マルです、マルです。二重丸』と大喜びで答えた」と見下して紹介しています。
 第3章「版元」では、中央公論社の読売新聞社への身売りが、「これまでムード的に語られてきた感のある出版不況というものを、現実のものとして白日の下にいやおうなくさらけだした」と述べたうえで、「中公の経営危機と読売による買収劇」が、「中公の知的ブランドという言葉に集約されているのかもしれない」と述べています。
 そして、出版社の経営陣が、「数字に明るくないことが、あたかも良い出版者の証だと信じてきたフシがある」として、ある大手出版社の元役員が、「決算が出ると、数字の桁がみなわからず、下から、一、十、百、千、万、と位どりするのが常に繰り返される風景だった」と語っていたことを紹介しています。
 また、社員について、「1940年体制を引きずった出版流通システムに加え、左翼運動を装いながら、その実労働貴族のモノ取り主義でしかない組合運動が横行する。そしてちょっとでも批判がましい声が出ようものなら、われわれは出版文化に寄与する良書をつくってるんだと夜郎自大にふんぞり返る」として、「左翼労働運動が出版流通の40年体制を補完した」と指摘して今すい。
 第4章「地方出版」では、「現在、本というものがどんな状況に置かれているかを物語る」エピソードとして、秋田の西木村という図書館のない小さな村の、村役場の若者たちが、「転勤や引越しなどで不要になった本をください」と東京に向けて呼びかけ、「朝日新聞がこれを美談仕立てにして大きく報じたところ、たちまち30万冊の本が集まった」が、『脳内革命』や『窓際のトットちゃん』、『気くばりのすすめ』なんかが数十冊ぐらいずつあり、「この3冊で図書館ができるくらい」だったこと、ほとんどすべての段ボール箱に手紙が入っていたが、「要するに善意の押し売り」であったことを紹介した上で、「日本人のメンタリティーの中に本というものが、かなり特別なものとして意識されていることの証」であると述べています。
 また、長野には、32も地方出版社があり、印刷製本所も多数あることについて、「さすが岩波、筑摩を生み出した出版王国だけのことはある」と述べ、その理由として、「戦時中、東京の印刷製本会社が長野に疎開してそのまま残ったこと」を挙げています。
 第5章「編集者」では、吉本隆明が、「物書きのほうから見える編集者」のタイプとして、
(1)自分も物書きであるか物書きの候補者の匂いを持ったもの
(2)自分が所属している出版社を背光にして文壇的にか政治的にか物書きを将棋の駒のように並べたり牛耳ったりしてやろうと意識的にあるいは無意識のうちに考えているもの
(3)ほかの職業と同じような意味で偶然、出版社に職を得ているといった薄ぼんやりしたもの
の3つのタイプを挙げていることを紹介しています。
 第6章「図書館」では、著者が参加した「本の学校」のシンポジウムで、「図書館関係者の分科会は、まるでお通夜のように精彩がなかった」と述べ、「進歩的文化人そのままの言説の洪水に、私はやれやれと思った。これでは『週刊金曜日』が出したベストセラー『買ってはいけない』の市民集会となんら変わらないではないか。分科会ははじめから終わりまで『善意』の押し売りに終始した」と指摘しています。
 また、ブックオフやブックサービスなどの「抜け目のない商売人たち」と比較し、「図書館業界ではそうした狡猾といってもいいような人物はほとんど見当たらなかった」と指摘し、「狡猾さ、といって悪ければ、したたかさを持って時代と斬り結ぶことができなければ、住民サービスという公務員本来の仕事を放棄することにもつながりかねない」と述べています。
 第7章「書評」では、「ダ・ヴィンチ」について、「現在の読書状況についてほとんど異議らしい異議が見当たらない姿勢が、一見健全に見える紙面とは裏腹に、『日本読書新聞』の左翼教養主義を裏返しただけの、現状安住の退廃と畸型性のようなものが垣間見えてならない」と指摘し、「このミステリーがすごい」や「ダ・ヴィンチ」の登場を、「書評世界における教養主義の終焉ということができる」と述べています。
 また、著者自身が書評する場合には、「その本が誰かに薦めるに値する本かどうかを最低限の基準」とし、「もってまわった表現で自分の芸をいやらしくひけらかしたり、身辺雑記をチラつかせることが書評の極意だと勘違いしているやからが、日本の書評界にはまだ後を立たないようだが、簡潔にその本の内容を紹介し、その本を読んでくださいと愚直に進めるのが書評の王道」であると述べています。
 さらに、「もっぱら一方的な『芸』の舞台として語られてきたきらいがある書評の世界」が、「ネット社会の登場によって、読者と読者を結びつける触媒の要素へ変貌しようとしている」と述べています。
 第8章「電子出版」では、「この本は活字で印刷されている」という意味のことを書いたが、「この本に限らず活字で印刷された本など、今や日本からほとんど消滅してしまった」と述べています。
 「エピローグ」では、「本」ばなれに拍車をかけていると指摘されている時間消費型の携帯電話の爆発的普及について、「携帯電話による際限のないおしゃべりは、他者とコミュニケーションしているように見えて、実は脱コミュニケーションの心性に支配されている」とした上で、「『本』は、たとえどんな種類の本であろうと、無数の『so what』に答える装置を内蔵している」と述べ、「他者とのコミュニケーションを鍛錬するには、やはり『本』との対話という打ち込みや素振りが、最も理想的な環境となる」と述べています。
 本書は、「本」をめぐるさまざまな人たちの思いを垣間見ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 この人は結構硬派なノンフィクションを書く人だという気がしていたのですが、こと自分が大好きな「本」のことになってしまうと地が出てしまうのか、三流雑誌のライターのような書き振りというか、まったく理不尽というか、言いがかり的な「書き逃げ」が多いような気がします。就職試験で落ちたことを根に持っているから、ナベツネや鈴木敏文はこんなことをしたんだ、なんてトリビアルすぎるというか、余計なお世話ではないでしょうか。
 全然関係ないですが、自分の中では、著者の名前を「さのまいち」と認識してしまっています。もちろん正しい読み方は知っているのですが、どうしても頭の中では、「佐野 眞一」という文字を「さのまいち」に変換されてしまって困っています。


■ どんな人にオススメ?

・「本」は誰が殺しているのか気になっている人。


■ 関連しそうな本

 佐野 真一 『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』
 佐野 真一 『渋沢家三代』 2005年08月06日
 山田 淳夫 『消える本屋―出版流通に何が起きているか』 2007年10月19日
 田口 久美子 『書店風雲録』
 小林 一博 『出版大崩壊―いま起きていること、次に来るもの』
 江口 宏志, 北尾トロ, 中山 亜弓, 永江 朗, 幅 允孝, 林 香公子, 堀部 篤史, 安岡 洋一 (著) 『本屋さんの仕事』


■ 百夜百音

サイボーグ009 SUPER BEST~サイボーグ009 生誕40周年記念盤~【サイボーグ009 SUPER BEST~サイボーグ009 生誕40周年記念盤~】 アニメ主題歌 オリジナル盤発売: 2004

 そういえば、サイボーグ009は断片的に連載ものの途中とか、単行本の断片とかを読んだくらいで、通しできっちり読んだことがないです。いつかきちんと読みたいです。

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2008年04月19日

ディック・ブルーナさんの絵本のつくりかた―ミッフィーはどうやって生まれたの?

■ 書籍情報

ディック・ブルーナさんの絵本のつくりかた―ミッフィーはどうやって生まれたの?   【ディック・ブルーナさんの絵本のつくりかた―ミッフィーはどうやって生まれたの?】(#1185)

  みづゑ編集部
  価格: ¥1890 (税込)
  美術出版社(2007/03)

 本書は、1955年の誕生以来、世界中で50年以上も愛され続けている「ミッフィー」とその産みの親であるディック・ブルーナさんを紹介していているものです。
 1955年の誕生時には、「素朴なタッチ」で描かれていたミッフィーは、後に新しく描き直され、「わたしたちのよく知っている形」になったことが、新旧の絵を比較して紹介されています。
 また、「くまのボリス」について、ブルーナさん自身が「自分とよく似た性格をもっている」と語っています。
 「ブルーナさんに聞きました」では、「ミッフィーが、たくさんの人に愛される理由」は、「ミッフィーがシンプルで、あたたかで、正直で、ヒューマニティがあるから」だと答えています。そして、絵本の登場人物たちが、常に正面を向いている理由を、「読者と真っ直ぐに正直に向き合うようにしたい」からだと語っています。
 また、ミッフィーが生まれたきっかけが、夏の休暇で海岸に出かけたときに見かけた走り回っている野うさぎに、長男のシルク君が大はしゃぎしたので、ブルーナさんが毎晩「子うさぎの物語を即興でつくって」きかせたことから、「このお話を絵本にしたらどうだろう」と思い立ったことだったと述べられています。
 さらに、『ミッフィーとメラニー』や『ボリスとコー』が、「たとえどんなところに住んでいても、肌の色が違っても、友達になれるし、とっても親しくなれる」というメッセージが込められていることが語られています。
 「ミッフィーの描きかた」では、「"これだ"と思う瞬間」を求めて、「ワンシーンを描くために、100枚以上もスケッチすることがある」ことや、「一気に線を引くのではなく、点を重ねるように、ゆっくりと描いていく」こと、「1ページに載せる文章は4行だけにすること。そして、2行目と4行目の最後の言葉で、いつも韻を踏んでいること」、描きあがった作品を発表するかどうかは「奥様のイレーネさんをスタジオに呼んで、必ず意見を聞く段階を設けている」ことなどが語られています。
 また、「通常、カラー写真などを再現する場合は、CMYKの4色のインキ」を使うが、「ブルーナさんの絵本では、ブルーナカラーとして特別に調合されたインキが使用」されることが解説されています。そして、最初は、赤、青、黄、緑で表現していたブルーナさんが、1967年の『ABCってなあに』ではじめて灰色でうさぎを描き、1969年の『こいぬのくんくん』で描いたスナフィーで茶色を使うようになり、現在では、この6色のみを使用していることが解説されています。
 「ブルーナスタイルができるまで」では、ブルーナさんが自分自身をグラフィックデザイナーであると捉え、「グラフィックデザイナーと同じように、物事を整理し、クリアにしようとディレクションしている」と語っています。
 そして、若き日のブルーナさんが、出版社経営の研修のために訪れていたパリでモダンアートに出会い、南フランス・ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂で、「マティスが晩年、体調がすぐれない中で精魂込めて手がけた」教会を見たことで、「絶対に描きすぎてはいけないこと、複雑にしてはいけないこと」を学んだことが解説されています。
 「ブルーナさんに教えてもらったこと」では、ひびのこづえ、セキユリヲらの日本のアーティストがブルーナ作品について語っています。
 そして、ブルーナさんが日本の絵本作家の中で、安野光雅を好きな絵本作家としてあげています。
 「ブルーナさんが生まれた街、ユトレヒトを訪ねて」では、2006年にオープンした美術館「ディック・ブルーナ・ハウス」を紹介し、街中のミッフィーの形をした信号機などもあわせて紹介しています。
 本書は、ブルーナ作品が好きな人ならぜひ手元においておきたい一冊です。


■ 個人的な視点から

 昨年の夏に、「ミッフィーとあそぶ夏休み 美術館に行こう! ディック・ブルーナに学ぶモダンアートの楽しみ方」を見に行ってきたのですが、その内容と多少かぶっているような気がしています。
 本で見るのも楽しいですが、美術館の方が楽しいです。


■ どんな人にオススメ?

・ミッフィー好きな人。


■ 関連しそうな本

 ディック・ブルーナ 『ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと』
 ディック ブルーナ 『ブルーナミュージアム―ミッフィーのすべてがわかる』
 芸術新潮編集部 『ディック・ブルーナのデザイン』
 Joke Linders 『Dick Bruna』
 Dick Bruna 『Miffy』
  『ディック・ブルーナのすべて』


■ 百夜百音

Clara Rockmore's Lost Theremin Album【Clara Rockmore's Lost Theremin Album】 Clara Rockmore オリジナル盤発売: 2006

 何にも触れず演奏している姿は初めて見るとびっくりしますが、電子楽器とは思えない人の声のような音色は他の楽器ではなかなか真似できません。
 そう言えば、テルミンのキットが昔イシバシ楽器で売ってたような気がします。

『Music from the Ether: Original Works for Theremin』Music from the Ether: Original Works for Theremin

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2007年12月09日

ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝

■ 書籍情報

ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝   【ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝】(#1053)

  松岡 正剛
  価格: ¥1680 (税込)
  求龍堂(2007/06)

 本書は、ウェブサイト「松岡正剛の千夜千冊」をもとに、すべて並べ替え、「半分ほど文章に手を入れ、ヘッドラインなどもつけて」仕上がった全集『松岡正剛 千夜千冊』の「いくつかの特徴を語りおろしてみたもの」であり、「全集が入手できていない読者のための、未知の世界への書物案内」です。著者は、「あとがき」で、全集はとても分厚く、入手には10万円近くかかるので、「せめて本書によってそのアウトラインを高速ツーリングしていただきたい。題して『ちょっと本気な虎の巻』。全集を第1巻から順に俯瞰できるようになっています」と語っています。また、「いったい読書によって何を経験したのかと問われてみると、案外わかりにくい印象がある」のは、「読書しているという行為がどういうことをしているのか、さっぱりわかっていない」からであると述べた上で、読書は「著者と読者の相互編集であり、著者と読者と版元とブックデザイナーたちとの相互編集」であること、すなわち、「読書行為そのものは一人が体験していることが多いけれど、そこで起こっていることはもっと相互的であり、多層的なのではないか」ということを感得したと語っています。
 序「『千夜千冊』の誕生」では、「そんなに本って読めるものですか」との質問に対し、「そもそも本はリセプタクル(容器)であって、ヴィークル(乗物)なんです。本には古代でも宇宙でもシェイクスピアでもラーメンでも何でも入るし、どこにでも行ける。それはいつ行ったっていいんです。乗船自由」と答えています。そして、「本はどんな情報も知識も食べつくす貪欲な怪物であり、どんな出来事も意外性も入れられる無限の容器であり、どんな遠い場所にも連れて行ってくれる魔法の絨毯なのです」と語っています。
 また、書物とのつきあいかたについて、「本を読むとは、その本を通して未知の世界や未知の人間に接触したということ。また、その本の書き手やその本の写真家の思索や感覚といっとき交わったということです。読書は交際なんです。行きずりの恋かもしれないし、一期一会の出会いだったかもしれない。そういうことを、ぼくは『かけがいのないもの』だと見ているんです」と語り、だからこそ「読んだ本についてもちょっとお返しをしたい」と語っています。そして、つまらない本は無理に読む必要はなく、「世の中にいろいろな人物がいるぶん、書物にもいろんな個性がある」、「書物は共感を起こすとともに、われわれへの背信でもあるのです」と語っています。
 さらに、本の読み方については、「絶対に再読すること。これは絶必。そこに読書の醍醐味がいくらでもひそんでいますね」と述べ、初読と再読では見え方が違ってくることを解説しています。そして、「本をノートにする」ことが「極意のひとつ」であるとして、「もともと一冊の本は一冊のノートなんですよ。著者がそこに最初に書き込んだノートです。そこにぼくがマーキングを加えながらまた書き込んでいく。それがぼくの読書法のひとつです」と語っています。
 この他、全集の中で一番分厚い第7巻<男と女の資本主義>は、「東京中の製本屋の、どの製本機械にもはまらなかった」というエピソードを紹介しています。
 第1章「遠くからとどく声―少年少女のころの本がセピア色にいまよみがえる」(第1巻)では、巻名について、「ふだんは忘れているような世界のどこかから、名状しがたい『ささやき』や『ざわめき』が聞こえてくるというような意味」であると述べ、構成的には、
(1)少年少女がかつて出会ったであろう本。
(2)そういう世界を、のちに作家たちが新しい感覚や新しい表現にしていったもの。いわば大人になって聞こえてきた遠い声。
(3)その作品の世界そのものが遠くの世界になっていて、ハイパー・ノスタルジアともいうべきものを感じさせる作品。
の3つのグループがあると語っています。
 そして、犀星を例に挙げ、「読書では、このように著者の異様な目に出会うこともとても大事なんです。そこでギョッとしたい。わかったフリをするのが一番つまらない読書法。読書はね、脱帽したり、投げ飛ばされるのがいいんです」と語っています。また、近代文学の名作には、「人間の精神のこわさをどう描いたか」があり、「これらは人間の精神の深さをあからさまに描いているんだけれど、それにもかかわらず心理描写が一行もない」ことを指摘しています。
 第2章「猫と量子が見ている―カンブリア紀からホーキングまで、『読書する科学』をひもといていく」(第2巻)では、「読書する科学」について、「理系の人が歴史小説やマンガに夢中になるのと同じ。書物を通して科学や科学者の考え方に興味をもった」と解説しています。
 また、「科学には大きくは2つの方向」があるとして、
(1)宇宙や物質の究極像を求めている
(2)できるだけいろいろの現象をたくさん集めてそこに共通した特徴を発見する
の2点を挙げ、「科学史ではこの二つがかわりばんこにおこっている」と語っています。
 さらに、「数学的な考え方」のすばらしさとして、「なんだか急に自由になっていくところがある」ことを挙げ、「数学的自由」、すなわち、「数学こそ思考を自由にしてくれる」という言葉を思いついたと語っています。
 第3章「脳と心の編集学校―本は記憶と再生のための編集装置である」(第3巻)では、著者にとって最大のキーワードである「編集」について、「ぼくの研究や仕事は『編集とはなんだろうか』ということを考え、それをひとつひとつ実践に移し、その応用を試みることです。そのために人間の意識や文化の歴史やメディアの将来にとって、編集とは何だろうかということを研究や仕事にしてきたんです」と語っています。
 また、「言語というのはどのような文化を築いてきたのか、『書かれた言葉』が『意味』として読めるとはどういうことなのか」という問題に関して、
(1)活版印刷が発達する以前、世界中の人々はすべからく本を声を出して"音読"していた。
(2)本を目で読む"も口説く"が広まるにつれて、意識の奥のどこかに今ではまとめて『無意識』と呼ばれている領域のようなものがだんだんできあがってしまった。
という仮説を紹介した上で、「どんどんこういう社会の拡張が加速している以上は、現在のわれわれはどのようなことを『言葉』や『テクスト』に感じるべきか。もう一度根本的に考えなおしたほうがいい」と語っています。
 そして、「読書を通して知覚したり摂取している『知の方法』を、もっともっと自覚的に交し合うべきではないか」と述べ、「実は読書って編集なんですよ。編集しながら本を読むんです。ぼくはそう確信しています」と語り、「個々のテクストの間をまたいで読む」という「間テクスト性(インターテクスチュアリティ)」に注目すべき、すなわち、「本は一冊では閉じてはいない」と述べ、そのことをヴィジュアルに表現するための、「コンピュータ・ネットワークの中に入った『書物の知密都市』」である「図書街」プロジェクトについて解説しています。
 第4章「神の戦争・仏法の鬼―ドストエフスキーとフロイトが投げかけた謎」(第4巻)では、「世界観がどのようにダイナミックの変遷してきたか」を濃厚に追えるようになっており、序文で、「世界は約定と逆上の歴史である。神と王と仏と鬼の相克である。それはオデュセイアーの記憶を持った魔の山であって、ゴドーの門とカフカの城を待つ浄土と千年王国なのである云々」と記したことを語っています。
 また、「間テクスト性」(インターテクスチュアリティ)について、「どんなテクストも、それ以前の無数の文化の中心からやってきた引用の織物」であると述べ、「この見方は、ぼくの編集的世界観にとてもよく近似しますし、また、ぼくが実践して行きたい読書という方法にひそむ『本来の読み方』にも密接に関係してくる」、「本を読むとは、結局さまざまに世界を間テクスト的に読むということなんです」と語っています。
 第5章「日本イデオロギーの森―この国の奥を見るために、七つの読書モデルをつかってみる」(第5章)では、「セイゴオ流読書法」の入門篇として、「Aの方法、Bの方法、Cの方法という3つがある」と述べています。まず、「ビタミンA読書法」は、本ごとにコンディションによって読み方を変える方法。次に、「ビタミンB読書法」は、「本を食べるように読んだり、本をワインのように嗜んだり、本を百メートルを走るアスリートのように疾駆するというふうに、読書そのものをさまざまな生活や趣味のモードに照応させるように読むという方法」であると解説した上で、「読書はリラックスするときも、忙しいときも、悲しいときも、つかれきっているときもすべてがチャンスなんです」と語り、AとBは、「環境条件や活動条件とつなげて、そこでフィードバックしてくる感じを本を読む方法にしていくということ」であると解説しています。
 また、著者がたくさんの本を読んでいるりゆうとして、「日々の活動のいろんな場面との関係を本たちが受け持ってくれるようにしてあるからです。ぼくが何かをしたい感じになっていること、ぼくが本を選ぶこと、ぼくがその本を読むことがいろいろの脈絡で連続的につながっている」と語っています。
 最後の「ビタミンC読書法」については、「中身をどう読むか」であり、ここに「読中(どくちゅう)モデル」というべき読書モデルがあり、「アタマの中にいくつもの読書モデルを棲息させて」おき、「そのモデルとの間でさまざまな情報交換をしながら読んでいくという方法」であると語っています。そして、読書モデルとして、
・暗号解読型の本にはその裏に典型的なモデルが潜んでいる。
・世の中の伝承には、「典型(ステレオタイプ)」、「類型(プロトタイプ)」、「原型(アーキタイプ)」の3つの「型」がある。
・目次読書法:目次をアタマに入れる
・マーキング読書法
・要約的読書法:図解しながら読む
などを示しています。そして、「そもそも読書するとはどういうことかというと、要約するということなんです」、「そもそもニュースや会話もダイジェストなんです。要約なんです。つまりようやくは編集の基本中の基本の作業なんですね」と語り、『千夜千冊』のうちの600冊くらいは、「すべて要約編集を駆使している」と述べています。
 第6章「茶碗とピアノと山水屏風―古今東西のアーティストごとに本を読む」(第6巻)では、「構成にはけっこう苦労した。でもぼくの好みが一番よく反映した一巻になっている」と語り、巻末の「あとがき」には、「数寄の芸風の一巻」と書いたと述べています。
 また、「目を鍛える」には、「たくさん見るしかない」が、「専門家や苦労との言うことをあまり聞かないほうがいい。自分で見抜けるまでとことん見ること」だと語っています。
 さらに、日本の近現代思想史が、「概してはおそろしく貧しいもの」であり、「その時代のメインアートや民衆の芸能やマイナーアートを見ていない。そのため日本の歴史的現在に関する歴史感覚が鍛えられていない」と語り、「わかりやすくいえば二・二六の青年将校が聴いていた歌謡曲や小唄など、知識人にはまったく勘定に入っていない」と述べています。
 第7章「男と女の資本主義―貫一お宮からディートリッヒまで・フェミニズムからネット市場まで」(第7巻)では、本文が1500ページ、索引が100ページになってしまったために、「最初は東京中の製本屋さんのどこにもかからないほどだった」と語っています。
 また、フローベールの『ボヴァリー夫人』や、モーパッサンの『女の一生』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に共通するものとして、「社会においては理想と欲望が全く一致しえないということを描いた」物であると述べています。さらに、「一番身につまされた本」として、大原富枝の『婉という女」を挙げています。
 本書は、本書を人生の友にしたい人にとっては、最良のガイドブックになりうる一冊です。


■ 個人的な視点から

 松岡氏の「千夜千冊」にあやかって「百夜百冊」を名乗らせていただきましたが、さすがに本家は質・量ともに圧倒されます。
 その全集『千夜千冊』の「虎の巻」として企画されたのが本書ですが、著者の読書術の一端を窺い知ることができるのが嬉しい一冊です。


■ どんな人にオススメ?

・千冊の本をネットワークにしてみたい人。


■ 関連しそうな本

 松岡正剛 『松岡正剛千夜千冊(8冊セット)』
 松岡 正剛 『フラジャイル―弱さからの出発』 2005年11月23日
 松岡 正剛 『知の編集工学』 2007年11月25日
 松岡 正剛 『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』 2007年06月09日
 松岡 正剛 『花鳥風月の科学』
 金子 郁容, 松岡 正剛, 下河辺 淳 『ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ』 2005年08月29日


■ 百夜百音

GOLDEN☆BEST【GOLDEN☆BEST】 岩崎宏美 オリジナル盤発売: 2007

 歌謡曲全盛期の名曲です。ライブでこれだけ歌える新人が出てくるあたりは、下手糞なアイドル歌手が目白押しだった80年代より幸せな感じです。

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2007年11月04日

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

■ 書籍情報

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質   【アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質】(#1018)

  津堅 信之
  価格: ¥2520 (税込)
  エヌティティ出版(2007/03)

 本書は、「既存文献を再検討するとともに、虫プロ創立に関わった当事者、手塚の側近にいた関係者などに対するインタビュー取材を実施して新たな知見を収集することによって、これまで意外なほどに成されていなかった手塚アニメの業績を再評価するもの」です。著者は、再評価の切り口として、
(1)手塚はどのようなきっかけでアニメに接近し、取り組もうとしたのか。
(2)『鉄腕アトム』政策の前後に、何がおき、何が試みられたのか。
(3)手塚がアニメで目指したのは、実験アニメーションだったのか、商業アニメーションだったのか。
3点を挙げています。
 第1章「アニメへの開眼」では、『海の神兵』を見た手塚が、「一生に一本でもいい。どんなに苦労したって、それの漫画映画を作って、この感激を子どもたちに伝えてやる」と誓ったというエピソードを取り上げ、このときに手塚にとって、「流れてきた涙のかなりの部分が『悔しさ』だったのではなないだろうか」と述べています。
 第3章「『鉄腕アトム』の背景」では、『鉄腕アトム』成立への伏線ともいえるラインとして、
(1)手塚治虫ライン
(2)虫プロ・萬年社ライン
(3)東映動画ライン
の3つのラインを設定しています。また、『アトム』実現に向けたさまざまな省力化手法として、
・三コマ撮り
・トメ
・引きセル
・くりかえし
・部分
などの手法を紹介しています。
 さらに、『アトム』の制作費に関して、「『アトム』による安い制作費が『前例』となってしまって、その後の日本のアニメ界労働者の賃金条件が劣悪化したという批判」について、「この批判は不適切であると断じてもよい」と述べています。そして、「萬年社と虫プロとのウラ契約的な措置」として、萬年社がプラス百万円を支払っていたというエピソードが伝えられていること、作品そのものに加え、「お菓子のパッケージやおまけ、文房具などにキャラクターをあしらい、その商品の定価や売り上げに合わせてロイヤリティを得るマーチャンダイジングを展開して、虫プロは大きな収入を得ていた」こと、虫プロスタッフの給与に関しても「少なくとも初期の無視プロ社員は『裕福』だった」ことを指摘し、「無視プロ設立当初の手塚は、アニメの商品価値を高め、それに伴なう収入を得てスタッフに還元し、さらにその収入をもとに次なる作品制作に活かすという、現実的な経営戦略を提案していたのであり、その点は性格に評価しなければならない」と述べています。
 第4章「実験アニメーションの成果」では、手塚の実験アニメーションの特徴として、「絵の動きそのものを実験し、かつ音楽との融合を考察しようとしていた側面」を指摘し、その代表的作品として『展覧会の絵』を挙げています。
 また、「手塚アニメの評価を二分する要因のひとつ」として、「手塚はアニメーション作家として把握までアマチュアであり、少なくとも手塚本人はそう自覚しており、描いて動かすことへの、ある種のコンプレックスを抱えていた」と指摘しています。
 第5章「手塚アニメの語られ方」では、「手塚アニメについて語ることが『避けられてきた』歴史があるのではないか」と述べ、今日『アトム』が語られる際の「三コマ撮り」などの技術的な指摘は当時あまりに専門的過ぎたこと、テレビアニメ制作の過酷さや賃金・経営面を含む製作体制の脆弱さなどの問題は、アニメーターを初めとする直接の制作従事者がマスコミに登場し始めた1970年代以降であることなどを指摘しています。
 そして、「手塚アニメが論じられていない、もしくは論じにくいと考えられている理由」として、
(1)手塚治虫はあくまで漫画家であり、アニメはその派生品、添え物として見られてしまう。
(2)当該作品における手塚の関わりが見えにくい。
(3)無視プロが創始した省力化システムと超廉価の受注体制が、「日本のアニメを低落させた」という認識が、どこかでこびりついている。
の3点を挙げています。
 第6章「大衆か実験か」では、手塚が「大衆か実験か」(p.201の13行目で「大衆か娯楽か」とあるのは誤字でしょう)のどちらであるかを考察するに当たって、『アトム』がもたらしたものについて、
(1)animeの発明
(2)漫画を原作にするということ
(3)人材の育成
の3点について、「ぜひ押さえるべきである」と述べています。
 そして、虫プロの目的が、「個人作家が個人の自由な活動のために、手塚が『場』を提供するとともに、自らも個人作品を制作するという、いわば作家連合、組合のようなものだった」と述べ、その例外性を指摘しています。
 第7章「手塚アニメとは何だったのか」では、手塚の「アニメーションを制作するために漫画を描いていた」という著名な発現が、
(1)幼少期からのアニメーション制作への憧れの蓄積
(2)アニメーションスタジオへの入門の希望(拒否)
(3)中古器材を集めたアニメーション制作の「まねごと」
(4)『新宝島』のヒットによる漫画家としての地歩の確立
(5)漫画原稿料や印税収入の蓄財
といった流れとつじつまがあっていると述べています。
 著者は、「『アトム』は、日本のアニメーションのその後の歴史を変える大きなきっかけを与えたのであり、逆に、少なくとも当時の東映動画における長編・ファンタジー路線には、そこまでのインパクトはなかった」と指摘し、「『鉄腕アトム』とは何だったのかという設問への解答は、この点につきる」と述べています。
 また、日本のアニメの特徴として、
(1)毎週1回30分連続放映という形式のテレビアニメが常時多数放映されている。
(2)さまざまな観客層を抱え込むことができる、多様な、そして時として複雑なストーリー内容を扱う。
(3)テレビアニメと並んで、長編アニメも多く制作されている。
の3点を挙げています。
 本書は、日本のアニメ史を理解する上で、国内はもとより、海外においても正しく理解されるべきアニメ作家としての手塚治虫を伝えた一冊です。


■ 個人的な視点から

 その年代の子どもたちにとって、『鉄腕アトム』がどれほどの衝撃だったか今では想像もできませんが、印刷技術も未熟だった当時、実写に比べてアニメのほうが、お菓子などへのマーチャンダイジングビジネスは、相当やりやすかったのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・手塚アニメというと24時間テレビと『火の鳥』しか思い浮かばない人。


■ 関連しそうな本

 うしお そうじ 『手塚治虫とボク』 2007年10月06日
 中野 晴行 『謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影』 2007年07月28日
 手塚 治虫 『ぼくはマンガ家―手塚治虫自伝』 2005年05月28日
 大塚 英志, ササキバラ ゴウ 『教養としての〈まんが・アニメ〉』
 手塚プロダクション 『手塚治虫 原画の秘密』
 藤本 明男 『愛よ命よ、永遠に―手塚治虫少年ものがたり』


■ 百夜百音

ガンバランスdeダンス~夢みる奇跡たち~【ガンバランスdeダンス~夢みる奇跡たち~】  オリジナル盤発売: 2007

 後期エンディングの初回の放送を見たときには、あまりの「電気紙芝居」状態に何が起こったのか理解できませんでしたが、最近は動いているようです。去年のガンバランスが好きだった人にとっては衝撃だったことでしょう。

『ガンバランスdeダンス』ガンバランスdeダンス

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2007年11月02日

戦闘美少女の精神分析

■ 書籍情報

戦闘美少女の精神分析   【戦闘美少女の精神分析】(#1016)

  斎藤 環
  価格: ¥840 (税込)
  筑摩書房(2006/05)

 本書は、「わが国固有の表現ジャンル」である「戦う少女」の系譜を追う中で、欧米型の「戦う女」たちとの区別に際して、「ファリック・ガール」という鍵概念を用いた精神分析の文脈を適用したものです。
 第1章「おたくの精神病理」では、「オタク」について、「オタキング」こと岡田斗司夫氏による定義として、
(1)進化した視覚を持つ
(2)高性能のレファレンス能力を持つ
(3)あくなき向上心と自己顕示欲
の3項目を紹介しています。
 また、社会学者・大澤真幸氏によるおたくという現象の定義として、
「おたくにおいては、自己同一性を規定する二種類の他者、すなわち超越的な他社と内在的な他者が極度に近接している」
という結論を紹介しています。
 その上で、著者自身によるおたくの特徴の記述として、
・虚構コンテクストに親和性が高い人
・愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人
・二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人
・虚構それ自体に性的対象を見出すことができる人
の4点を挙げています。そして、彼らが、虚構を実体化するのではなく、また現実と虚構を混同することでもなく、「彼らはひたすら、ありものの虚構をさらに『自分だけの虚構』へとレヴェルアップすることだけを目指す」と解説しています。また、「みずからの趣味の領域に性生活の全部または一部を確保しているとき、その人は『おたく』なのではないか」と述べ、「戦闘美少女という、これ以上ないほどの虚構的存在が愛好され、真剣な欲望の対象とされること」から、「おたくの本質的特徴の一つは、虚構コンテクストへの高度な親和性である」と解説しています。そして、おたく人生の「上がり」が「異性のおたくパートナーとの結婚」とみなされていることから、「おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における『健常な』セクシュアリティとの乖離ではないか」と述べています。
 第2章「『おたく』からの手紙」では、実際におたくとの意見交換を通して、「おたくの特性としての『虚構への欲情』『虚構としての倒錯』と平行する『健全な性生活』」に注目し、「性という根源的なものの、とりわけその想像的成分との向かい合い方において、おたくの特性が最も顕在化する。彼らはいわば、主体的に乖離を生きている。そしてここに示されるのは、戦闘美少女と『乖離あるいは媒介されたセクシュアリティ』との生成的な関係ではないだろうか」と述べています。
 第3章「海外戦闘美少女事情」では、欧米圏の「オタク」との対話を通じて、「日本のおたくの共同体性」を再認識したと述べ、「そこに見られる奇妙な雑食性と演技性は、結果として、多様性よりは一種の単調さをもたらしてはいないだろうか」と指摘しています。
 第4章「ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国」では、一般には「精神病患者の作品」を指すことが多い「アウトサイダー・アート」の中で注目を集めているヘンリー・ダーガーを取り上げ、彼の物語に、7人の「ヴィヴィアン・ガールズ」と呼ばれるヒロインが登場し、「邪悪な大人の支配から子供奴隷を解放すべく、銃をとって果敢に戦う。その戦いはしばしば、血なまぐさく、残酷きわまりないものとなる。ダーガーの絵の印象は、少女らのあどけないエロスと、こうした血みどろの残虐性との対比によって決定的なものとなる。とりわけ奇妙なことに、少女たちはみな、少年のようなペニスを持っている。この描写をどのように受け止めるかが、ダーガーという作家との出会いの質を決めるといってよい」と解説しています。
 著者は、「ダーガーを精神病とみなさず、あくまでもわれわれに等しく神経症者であったとする立場」から、「彼の思春期的な心性と、メディア環境の生産的なカップリングをみてとらないわけにはいかない」と述べ、「ここにおいて、ダーガーと現代日本の『おたく』とを結びつける問題意識が、はじめて根拠づけられてくる」と解説しています。
 第5章「戦闘美少女の系譜」では、宮崎駿が高校3年のときに見たという『白蛇伝』に始まる戦闘美少女の系譜を年代ごとに追っています。
 1960年代には、石ノ森章太郎の『サイボーグ009』を「前駆作品」として取り上げ、「セクシュアリティとヴァイオレンスの特異的結合を『発見』したという点で、重要な作家のひとりである」と指摘しています。また、横山光輝の『魔法使いサリー』について、「戦闘美少女であると同時に魔法少女でもある」クロスオーヴァー作品である『美少女戦士セーラームーン』に連なるという点で、「戦闘美少女のもうひとつの原点」に挙げています。さらに、石ノ森とともに重視されるべき作家として、「セクシュアリティの対象としての『戦闘美少女』を発明し、同時に巨大ロボットもの(『マジンガーZ』)の始祖の一人」である永井豪を挙げています。
 1970年代については、実写TVドラマ『好き! すき!! 魔女先生』を取り上げ、非アニメ作品であるが、「ヒロインとして『戦闘美少女』が始めて登場した作品である」と述べています。また、70年代の「もっとも重要な歴史的転回」として、「おたくマーケット」の誕生とその急速な拡大を指摘しています。
 1980年代については、「アニメは前半にその爛熟を、後半にその衰退を経験する」と述べ、「おたくの夢がつまった名作」と評される『DAICON3』、『DAICON4』のオープニングフィルムなどを紹介しています。また、GAINAXの『オネアミスの翼』の興行的失敗が、「巨大ロボットもアニメ映えする美少女ヒロインも排除してしまった」ことにあるとする「絶望と開き直り」」が『トップをねらえ!』という「アニメの文脈を極限まで加速・凝縮したような、大変に『濃い』名作を生んだ」と解説しています。
 1990年代については、「戦闘美少女史上、最重要作品のひとつ」として、1992年に放映開始した『美少女戦士セーラームーン」シリーズを紹介しています。そして、「90年代において戦闘美少女ものの増加は著しく、アニメ作品だけに限定しても網羅しきれないほど多数の作品が制作されている。新たな系列は生まれていないものの、諸系列間の組み合わせによって多様な物語が紡がれ、作品世界の設定もさらに複雑化しつつある」と述べています。
 第6章「ファリック・ガールズが生成する」では、「漫画・アニメ空間の特異性」として、
(1)無時間:時間が読者の主観にしたがって伸縮するカイロス的時間である。
(2)ハイ・コンテクスト:表現形式それ自体がその表現内容を規定する度合いが高い。
(3)多重人格空間:完成度の高い漫画・アニメ作品においては、それぞれのキャラクターが部分人格化し、相互補完による総合化に成功している。
の3つのキーワードを挙げて解説しています。また、「われわれがアニメや漫画に容易に没入し、われわれは文字を読むようにしてアニメや漫画を『読む』」ことができることから、「もはや日本語表記が、象徴界と想像界との区分を曖昧化するような特性を持つと言うことはできない。それはむしり、想像的な対象物を象徴的な作動形式で処理するための、洗練された技術を提供しているのだ」と述べています。
 また、「わが国の表象文化において、これほどまでに性的境界の乗り越えが一般化していることも、日本的空間のハイ・コンテクスト性という点から解釈することが可能である」と述べています。
 著者は、「基本的にハイ・コンテクストせいを特質とする、わが国の表象文化の枠内において成立した漫画・アニメという表現形態は、無時間性、ユニゾン性、多重人格性などの要因をいっそう純化することできわめて伝達性の高い表象空間となり得た。こうした想像的空間は、自律的なリアリティを維持すべく、なかば必然的にセクシュアリティ表現を取り込まざるを得ない」と述べ、「漫画・アニメの多形倒錯性と、受け手の欲望の健全性というギャップは、おおむねこのような視点から整理することが可能だ」と解説しています。
 また、欧米圏のタフなファイティング・ウーマンが、「ペニスを持った母親」を意味する精神分析の鍵概念である「ファリック・マザー」に当たるのに対し、戦闘美少女たちを「ファリック・ガール」と位置付け、「ファリック・ガールの戦闘には、十分な動機が欠けている」ことを指摘し、「『空虚であること』によって欲望やエネルギーを媒介する女性は、私を含む一部の力動精神医学者によって『ヒステリー』と呼ばれるだろう」と述べています。そして、「ファリック・ガールは、虚構の日本的空間にリアリティをもたらす欲望の結節点である。彼女に向けられた欲望こそが、その世界のリアリティを維持する基本的力動にほかならない」と指摘しています。さらに、「ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間において鏡像的に反転したもの、それがファリック・ガールの戦闘行為だ」とのべています。
 著者は、「われわれはファリック・ガールの存在に『現実』を見る。なぜなら『性の現実』を知らないものには、彼女たちを愛することができないからだ」と述べ、「私はおたく的な生の形式を全面的に肯定する。私は彼らに対し『現実に還れ』などと説得を試みることは決してないだろう。彼らこそが誰よりも『現実を知る』ものであるからだ」と述べ、「ここではむしろ、アニメを愛しつつ性を排除するような態度の欺瞞性こそが告発されなければならない」と指摘しています。そして、「ファリック・ガールを愛することは、自らのセクシュアリティという『現実』に自覚的であるために、われわれ自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ」と結論づけています。
 本書は、「おたく」の姿を通して、特異な文脈を持つに至った日本人の姿を映してくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔からアキバには色々なオタクが集まっていて、最近はアニメ系の人たちが集まってきていますが、ネット上ならともかく、現実世界でその人が何のオタクかを特定するのは結構難しいんじゃないかと思います。アキバで知らない人に急に話しかけられたらびっくりしますし。


■ どんな人にオススメ?

・オタクはみんな宮崎勤みたいな人だと思っている人。


■ 関連しそうな本

 堀淵 清治 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』 2007年04月15日
 中村 伊知哉, 小野打 恵 『日本のポップパワー―世界を変えるコンテンツの実像』 『ニッポンマンガ論―日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』 2006年04月29日
 杉山 知之 『クール・ジャパン 世界が買いたがる日本』 2007年08月19日
 町山 智浩 (翻訳), パトリック・マシアス (著) 『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』 
 浜野 保樹 『模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで』 


■ 百夜百マンガ

少年マーケッター五郎【少年マーケッター五郎 】

 著者自身ビール会社のマーケット部門のサラリーマンをしながらマンガを描く二足の草鞋のマンガ家として有名でした。

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2007年10月28日

復刊ドットコム奮戦記-マニアの熱意がつくる新しいネットビジネス

■ 書籍情報

復刊ドットコム奮戦記-マニアの熱意がつくる新しいネットビジネス   【復刊ドットコム奮戦記-マニアの熱意がつくる新しいネットビジネス】(#1011)

  左田野 渉
  価格: ¥1785 (税込)
  築地書館(2005/7/29)

 本書は、「『絶版』『品切れ』のため、手に入らなかった書籍を投票により復刊させよう、というサイト」である「復刊ドットコム」の、「様々な試行錯誤の繰り返し」を語ったものです。
 第1章「復刊ドットコムストーリー」では、2000年の6月に「復刊ドットコム」を開設し、提携可能なコミュニティを持つ会社として、
・「紫式部」
・「EasySeek」
・「たのみこむ」
の3つをピックアップし、この中から「EasySeek」を運営するビズシークを選んだことが語られています。
 また、復刊の交渉をしていく中で、絶版になるには、
(1)経済的な理由・・・コストのかかる復刊は、よほどの数が売れないとペイしない
(2)著者側の理由・・・差別用語の使用、解散したバンドメンバーへの許諾、編集者と著者の感情的な軋轢、著作権継承を巡る親族の紛争、版権エージェントの契約切れなど
の2つの理由があることがわかったと述べています。
 そして、古書売買の世界で伝説になっていた「ダル物」こと「ダルタニャン物語」が、差別用語が頻出していて出すに出せない状態であったことから出版元が後込みし、全11巻をブッキング発売で復刊することを決めたことが語られ、このことが、ブッキングにとって、ブッキング自身が出版権を獲得するライツビジネスの領域に踏み込んでいくという、「新しいステージを意味」したと述べられています。
 著者は、復刊ドットコムを、「品切れ書籍へのリクエストという見えない市場ニーズを顕在化するサイト」であると位置づけ、「編集者の企画の泉」ともなると述べています。そして、なかには、復刊ドットコムの投票を勝手に参考にして、「他社の出版物を復刊・刊行する企画のアイデアに用いている出版社」もあると指摘しています。
 また、復刊ドットコムが、「不況といわれる出版業界の中で、唯一成功したベンチャー企業」であると述べ、その成功の秘訣として、
(1)提携先であるEasySeek(現「楽天フリマ」)とのアライアンス
(2)会員制度
(3)相互リンク
の3点を挙げています。
 そして、2001年春には、「われわれが思っても見なかった現象」として、「絶版本の復刊を交渉し、販売し、元の出版社がダメなら出版もしてしまおうという出版社を志向していたつもりだったのが、単品なら、いつの間にか日本で最も力のあるネット書店になっていた」と述べ、その発端が、5万円以上もする「スヌーピーブックス」全86巻が初回予約で300セット以上の注文を集めることができたことであったと語っています。
 第2章「人気本の秘密」では、「いかに希少感のある書籍を、復刊にせよ新刊にせよ、提供できるかが課題であると結論」づけています。
 また、投票ランキングの上位3傑として、
(1)岡田あーみん:先生と連絡が付くのは集英社の数名の編集者のみ
(2)手塚治虫:表現上の問題から先生自身が封印された作品群
(3)藤子不二雄:藤子・F・不二雄先生の作品復刊を望む声が強い。
の3人を挙げています。
 さらに、業界では「ボンコロ」と呼ばれている小学館「コロコロコミック」と、講談社「コミックボンボン」の作品が、幼稚園児から小学校中学年くらいまでを対象としているため、子供たちのお小遣いでは単行本を全館そろえることができず、「大人になって自由に使えるお金を手にした今、彼らは、子供時代に買えなかった『ボンコロ』コミックに飛びつく」のだと解説しています。
 第3章「復刊にまつわるエピソード」では、復刊が難しい本の事情として、
(1)差別用語が多く出てくる作品
(2)著者がお亡くなりになって、その著作権継承者の行方が不明
(3)本人や一緒に被写体になっている方が復刊を拒否した写真集
(4)外国作品で、版権エージェント経由での出版契約がすでに失効している
等の事情を挙げ、具体例として、
・『キャンディ・キャンディ』
・岡田あーみんの単行本未収録作品群
・藤子・F・不二雄ランド
・『ブラック・ジャック』の単行本未収録作品
等を挙げています。
 また、絶版の理由として、
・経済的な事情
・トラブル系の理由
の2つを挙げ、前者の例として、「藤子不二雄ランド」「ドラゴンランス」シリーズ、「江戸川乱歩推理文庫」など、あまりにも巻数が多いためにその資金負担額の大きさに出版社がたじろいでしまうものを挙げています。
 第4章「本好きのためのパラダイスとは」では、「インターネットによってもたらされたコンテンツへのニーズを、インターネットを使ってダイレクトに流通させること」が、復刊ドットコムの究極の使命ではないか、と述べています。
 そして、理想型と考えている組織として、
(1)イギリスで発祥した生活協同組合
(2)神戸に本拠地を置くフェリシモ(通信販売大手)
の2つを挙げています。
 本書は、本が好きな人、特に思い出の本にもう一度会いたいと考えている人には是非一読をお薦めする一冊です。


■ 個人的な視点から

 色々とこじれたり、儲からなかったりで本が出ていないところに交渉に行くのですから社員の皆さんには頭が下がります。Web2.0の話で言えば「ロングテール」の部分を数をまとめていく会社ということもできるでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・探している本になかなかめぐり合えない人。


■ 関連しそうな本

 安藤 健二 『封印作品の謎』 2006年04月02日
 安藤 健二 『封印作品の謎 2』
 森 達也 『放送禁止歌』
 メディア総合研究所 (編集) 『放送中止事件50年―テレビは何を伝えることを拒んだか』
 荻野 友大, なかの 陽 , 白石 雅彦 , 西村 祐次, 円谷プロダクション 『怪奇大作戦大全』
 石橋 春海 『封印歌謡大全』


■ 百夜百音

ザ・ファントムギフトの世界【ザ・ファントムギフトの世界】 ファントムギフト オリジナル盤発売: 1987

 ネオGSブームの代表的なバンドでしたが、今聴いてもまったくかっこいいじゃないですか。解散後も皆さん活動しているのも素晴らしいです。

『ザ・ファントムギフトの奇跡』ザ・ファントムギフトの奇跡

投稿者 tozaki : 22:00 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月28日

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

■ 書籍情報

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影   【謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影】(#919)

  中野 晴行
  価格: ¥1995 (税込)
  筑摩書房(2007/02)

 本書は、1947年に出版された「日本の戦後マンガ史を語る上でエポック・メイキングな作品」である『新寶島』(作画:手塚治虫)の原作・構成を担当した、「当時関西マンガ界のベテラン」であった酒井七馬の評伝です。酒井七馬の名前は、「マンガ史からも欠落しつつある」だけではなく、「不遇な晩年を送り、最後は餓死した」と信じられ、通説では、「手塚は『新寶島』の奥付に自分の名前がないことに憤慨して酒井と決別。その後、手塚がめきめきと売り出したのに対して、酒井は作品も売れず、やがて紙芝居に転向。晩