2008年08月23日
美を脳から考える―芸術への生物学的探検
■ 書籍情報
【美を脳から考える―芸術への生物学的探検】(#1311)
インゴ レンチュラー, デイヴィッド エプスタイン, バーバラ ヘルツバーガー (編集), 野口 薫, 苧阪 直行 (翻訳)
価格: ¥3465 (税込)
新曜社(2000/6/15)
本書は、「『美しさ』という、従来きわめて感性的にとらえられていた経験を脳という生物学の側面から見直し、それがどのように脳内で情報処理され身体的に創出されるのかを現代の脳科学、神経科学、生物学、文化人類学など、学際的な知見に基づいて述べた、きわめてユニークな書物」です。
第1章「美の生物学的基礎」では、「私たちの近くは特定の方向にずれているので、すべてのものが同じように私たちの感覚や認知に働きかけるのではない」として、「このバイアスを探求することが美学研究の目的の一つである」と述べています。
また、私たちの知覚が、
(1)周りの世界の中に秩序、規則性、パターンを求めるという非常に基礎的で一般的な水準。
(2)種特有のもので、系統発生的なルーツを持つ場合もあり、また、態度の普遍性のゆえに多様な文化に見出される場合もある。
の2つの水準でバイアスされている、と述べています。
第2章「韻律詩、脳、そして時間」では、
(1)詩の韻律という古くからある一つのテーマ
(2)ここ2,30年の間の人間の脳に関する熱心な研究の成果から導かれた新しい知識
(3)国際時間研究学会によって発展を見た科学的パラダイム
という、これまで互いに結び付けて考えてこられなかった三者の統合を試みたいとしています。
そして、人間の行う情報処理が、「個々のニューロンの水準ではプロクルステス式」であり、「外界から得る情報をニューロン自身のカテゴリーに切り詰め、現実がニューロン自身の設定する問いに応えるときだけ、それらの答を受け入れる」と述べています。
また、「個々の事例において因果的順序や目的的順序が形成され認知されるには、その前に事象間の順序関係や反応関係の多くの事例が比較されねばならない」が、「比較が可能になるには、比較対照の経験がそれぞれ別個のまとまりになっていることが必要」であり、「比較されるまとまり自体が時間的性格のものなので、経験のまとまりは同じ時程内に存在していなければならない」と述べた上で、「この「経験のひとかたまり」が約3秒で、「3秒の時程とは人における現在の長さである」と述べ、「人が話すとき、ほぼ3秒おきくらいに数ミリ秒の休止を入れ、「その間に次の3秒の正確な統語法や語彙を決定するのであろう」と述べるとともに、「聴き手は、聴いた3秒間の話の間は休止や思い返しなしに集中し、それから聴いたものを統合し意味づけるために聴くのを止める」と述べています。
そして、「10分の3秒はヒトが落とし劇に反応するのに十分な時間である」と述べ、「3秒のラインと3秒の『聴覚的現在』のあいだのきわめて正確な対応」として、「ラインあたりの平均音節数はおよそ10であり、詩の韻律は聴覚系における最も低次の周波数リズム2つを具現している」と述べています。 また、「聴覚的駆動は、左脳よりも右脳に対してはるかに強く影響することが知られている」として、「韻を持たない通常の散文は『モノラル』モードで伝わり、もっぱら左脳に影響するのに対し、韻をもつ言語は『ステレオ』モードでやってきて左脳の言語的資源と右脳のリズムに関わる潜在力を同時に呼び起こす」と述べています。
さらに、「韻律詩の喜びは、まぎれもなく脳の自己報酬的能力を刺激するという力に由来している」として、「それは明らかに、詩が脳自身の動機づけシステムと関わっていることに関連している」と述べています。
著者は、「記憶の状況結合性の理論も、詩が大変記憶しやすい理由を説明する」として、「もし韻律とその独特な変形が、それ自身の雰囲気、言い換えれば脳の状態のサインをもっているならば、詩を容易に想起できるのも驚くにはあたらない」と述べ、ホーマーが、「詩神は記憶の娘である」と語っていた意味はそういうことではないか、と述べています。
第3章「音楽におけるテンポ比率」では、音楽におけるテンポが、「音楽を左右する最も強力な要素の一つ」でありながら、「音楽において最も可変性の大きい要素でもある」と述べています。
そして、「音楽の演奏における速度とテンポには生物学的基礎があり、最も深いたぐいの心理的な効果を持っている」と述べたうえで、「様々な音楽の中でテンポが変化するとき、そのテンポは低次の整数比率で変化するという強い印象を受ける」と述べています。
第5章「視覚的な美と生理的制約」では、「われわれの意識体験というものは、2つの大脳半球の機能分化した多くの神経サブシステムが相互に補完的にはたらきあう結果生まれると結論してもよいだろう」と述べています。
また、「高次の処理領域では、顔刺激や顔の一部分の刺激に明確な偏好を示す視覚ニューロンが発見されている」として、「われわれはこういう類の課題に強く依存している。つまり、顔の色々な特徴は別の、違った部位にあるニューロン集団によって符号化され処理されていると考えなければならないことになる」と述べています。
著者は、「刺激は、視覚情報処理の内的なメカニズムが好む特徴によって選好されるということを示している」とともに、「そのようなタイプの刺激が肯定的な美的事象を構成するということも示していることになる」と述べたうえで、「視覚システムの機能的組織は、神経活動のダイナミックなパターンとして環境を表象するということ」を指摘しています。
第7章「大脳皮質の非対称性と美的経験」では、「『空間的な』右半球も『時系列的な』左半球も、ほとんどの活動におけるパフォーマンスに、ともに重要な役割を果たす力を持っている」として、「左半球は時系列・聴覚優位のバイアスがあり、右半球は空間・視覚優位のバイアスが見られる」と述べ、「このようなバイアスによって、左半球は細部を記述しラベル付けし、その結果時系列によって順序づけうる分離可能な事象を厳密なカテゴリーの境界によって定義づける傾向を有し、一方、右半球は空間的携帯と図形の同時性によって統合的な関連性とその配置の探索が促進される傾向が強められる」と解説しています。
そして、「メロディの弁別に関し、普通の人は左耳(右半球)優位を示し、音楽家は右耳(左半球)優位を示す」ことについて、興味深いと述べ、「音楽家はメロディの持つ区分しうる構成要素を聞いているのに対し、普通の人は音楽全体の輪郭に対して反応する」とか移設しています。
また、「観察者が右利きの場合、画像の中で最も関心を引くものが右に配置されている場合に、明らかに『好ましい』と感じる」ことについて、「右寄りに描かれた画像は、最もバランスがよいと感じられ、好ましいとされる」ことは、「刺激の持つ非対称性が、生得的に持っている知覚の偏りを補うからであろう」と解説しています。
さらに、子どもたちが描いた「悲しい絵」について、「48人の子供たちのほとんどは幸福感を表す対象を悲しみを表す対象に比べて右側に配置した」ことについて、「子供も大人と同様に、美に対する感覚をもち、それは一部生得的な知覚のバイアスと外界世界の刺激の非対称性とのバランスによって決定されるという見方と完全に一致している」と解説しています。
第8章「美しさは見る者の視野の各半分で異なっているかも知れない」では、「機能的な脳の半球特異性とそれが美に関する判断に及ぼす効果を検討することが、情緒の諸過程と人間の脳との複雑な関係について洞察を得ることを可能にする一つの方法である」と解説しています。
本書は、これまで感受性の世界の問題とされてきた「美」について、人間が持つ生き物としての特性がいかに関わっているかを探求した意欲的な一冊です。
■ 個人的な視点から
現代の教育を受けて文字の読み書きができる人は、詩の朗読を聞いて文字を思い浮かべてしまいますが、字の読み書きができない人々にとって、3秒ごとに一区切りが入り、音楽的な抑揚がついた韻律詩は、もしかするとほぼ唯一の文学的体験だったのかもしれません。
■ どんな人にオススメ?
・「芸術的感性」を磨く必要性を感じている人。
■ 関連しそうな本
アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日
トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
ジュリアン ジェインズ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 2006年06月04日
バート・L. ソルソ (著), 鈴木 光太郎, 小林 哲生 (翻訳) 『脳は絵をどのように理解するか―絵画の認知科学』
岩田 誠 『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』
バルテュス, セミール・ゼキ (著), 桑田 光平 (翻訳) 『芸術と脳科学の対話―バルテュスとゼキによる本質的なものの探求』
■ 百夜百音
【ミコちゃんのヒット・キット・パレード】 弘田三枝子 オリジナル盤発売: 2005
この人のことを知らなくても、「V・A・C・A・T・I・O・N 楽しいな」のサビのフレーズは聞いたことがあるのではないかと思います。デビュー曲は、「子供ぢゃないの」だそうです。
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2008年08月10日
言葉を使うサル―言語の起源と進化
■ 書籍情報
【言葉を使うサル―言語の起源と進化】(#1298)
ロビンズ・バーリング (著), 松浦 俊輔 (翻訳)
価格: ¥2730 (税込)
青土社(2007/03)
本書は、学者たちの「興味をそそり、じれったく、かつまた期待を裏切られる問題」である「人間の言語という能力の進化」の問題について、「産出よりも了解の方が、人間が言語を使う能力を進化させた原動力だということ」を論じたものです。
著者は、「了解の方が先んじている必要があることは、言語に向かう進化の道筋の上にあるあらゆる地点で、解釈が少なくとも一歩、産出に先んじている必要があることを意味する」と述べ、「合図の産出を改変して成功し、従って自然淘汰によって確保されるのは、その改変が、他の個体にあらかじめ存在している受容能力に合致する場合だけだ」と解説しています。
第2章「笑み、目配せ、言葉」では、「言語で一番重要なことは、最も明白なこと」だとして、「言語によって、やすやすと事物のことを指せるようになり、さらにはそれらのことについて何ごとかを言えるようになる」と述べています。
そして、「どこへ旅行しようと、笑顔はしかめ面より友好を意味するものである」として、「人類学者が、新しく調べる村で暮らしていく必要があるものの、言語はまだあまり勉強していないというときも、顔に出る表情を読みとることで、滞在先の人々の反応を判断することは容易にできる」と述べています。
著者は、「一次近似として、言語はデジタルで、参照を容易にする。言語の大部分は、膨大な語彙を含め、学習しなければならず、これは、集団ごとに違ってもいいことを意味する」と述べる一方で、「われわれの笑い声、叫び声、うなり声、鳴き声、顰蹙、微笑は、他のジェスチャー=コールと同様、言語とは非常に異なるコミュニケーションを形成する。こちらはアナログ信号で、感情を伝えるのに優れている。言語ほど文化によるばらつきがないし、意思による制御もさほど受けない」と述べています。
第3章「嘘と本当」では、ベルベットモンキーが、「その警戒の呼び声やうなり声で、暮らしている世界について、危険や捕食者についても、社会体制の様子についても、重要な情報を伝えている」と述べたうえで、「人間のジェスチャー=コールも参照的情報を伝えることができる」として、「われわれの笑顔は、少なくともベルベットモンキーのうなり声と同じくらいには、社会的関係について明らかにするに違いない」と述べています。
そして、「一部の動物の合図の意味には『恣意的』と呼べるものがあるが、『離散的』とは違って、動物の合図に『恣意的』を使ったとき、単語について使ったときと同じ意味かどうかは明らかではない」と述べたうえで、「動物の合図の中に『恣意的』と言っていいものがあるというのは正しいかも知れないが、だからといって、それが言語に似ているとは言えない」と述べています。
また、「言語と動物のジェスチャー=コールとの違いを強調」下上で、「進化論的に説明しなければならないのは、言語の独特の特徴である」と述べ、「われわれが言語を用いる能力が進化する様子を理解しようとすれば、検討しなければならないのは、言語の参照する力であり、デジタルなところであり、慣習により学習されるところであり、膨大な語彙であり、統語法と新造力である」として、「われわれが理解する必要があるのは、こうした言語の新しい特徴であり、われわれを他の霊長類から分ける特徴であり、そのような新しい特徴のほとんどは、認知に関わるものである」と解説し、「そうした特徴が、チンパンジーの心とよく似てはいても現代人の心とは違う心を持った動物に、どのように生じえたのか」という問題を提起しています。
第4賞「心と言語」では、「相手の言語について何かを学ぶとすれば必須」となる「5つの具体的な認知の道具」について、
(1)相手と私は周囲の世界について、豊かな概念的理解を豊富に共有していることを前提にすることができた。
(2)相手と私は同じ対象と出来事に注目できることを前提にできた。
(3)私はまねする能力を前提にできた。
(4)指差す身振りと、参照する対象に似ている身振りとを理解できることを前提にできた。
(5)言語には反復可能なパターンがあることを前提にできた。
の5点を挙げています。
また、チンパンジーが、「他者の視線の向かう先を追うことができる」一方で、「腕や指で指すことは理解できない」ことは、人間にとって奇妙なことに思えると述べています。
さらに、「大型類人猿は、他の動物、さらにはサルと比べても、共同注意、模倣、誘導記号がうまいが、その技能は、現代人類がやすやすと学習するような言語を学べるほどのものではない」と慕う絵で、人間の早い時期の祖先について、「言語のひとかけらでもできてしまえば、それ自身が淘汰の対象になる」と述べ、「理解し話すことがうまい方が、生存と生殖に有利になっただろう」と解説しています。
第5章「記号と合図」では、「音程の高い音はテンションの高さ、覚醒、興奮、熱意、活動、終わっていないことに対応する。音程の低さはテンションの低さ、弛緩、完了に伴う」として、「音程の高さの上がり下がりは、それとともに使う単語の意味を調節する」と述べています。
そして、「音程の高い声は、小さいことをうかがわせる。弱さ、無力、服従、礼儀、自信のなさといった性質と関係する。低い声あるいは音程が下がることは、大きいこと、確信、権威、攻撃、自信、自足、威嚇をうかがわせる」と述べています。
第6章「得られたアイコンと失われたアイコン」では、「聾唖者の中には、聴覚的に慣習化された合図を使うことがある」として、著者がインドの田舎で会った何人かの聾唖者が声を出すのに驚いた経験を語っています。
また、アメリカ手話言語(ASL)には、「どんな話し言葉よりもはるかに多くのアイコン的なサイン、インデックス的なサインがある」と述べ、「サインが生み出される縦横奥行きの3つの次元が、話し言葉が閉じこめられている時間という1次元では無理なほど、アイコン性やインデックス性をもたらしている」可能性を指摘しています。
著者は、「慣習化はコミュニケーションを加速し、産出する側の仕事を易しくするが、慣習化には他にも利点がある」として、「記号が標準化するにつれて、それは曖昧でなくなりもする」ことを指摘しています。
第7章「わずかな音から多くの単語へ」では、「手の身振りによる視覚言語が始まってしまったら、声による聴覚の身振りへの切り替えを、何が誘発しえただろう」として、「言語に適応し、前適応した最古の性質は、すべて認知に関わるものだったと認識すれば、答えの一部になる」と述べた上で、「もともと言語ではない何かへの適応として、声道への意思による制御が先にあったとすること」を挙げ、「すぐに考えられる候補は、単語のない、何らかの歌唱だろう」と指摘しています。
著者は、「憶測を恐れなければ、初期の人類に、音楽と言語の両方の祖先となる一種類の発生があったことは想像できる」と述べた上で、「石器時代の男と女は、互いの発生を魅力的だと思ったとすれば、性淘汰が声の技能の急速な増大を促したかも知れない」として期しています。
第8章「統語法──生得のもの、学習されるもの」では、「統語法がわれわれの中で成長するときに自然発生的に育つのか、それともほとんど学習に依存しているのかという議論」に関して、チョムスキーが、自然発生的な成熟の側に立ち、「われわれがそれぞれ遺伝子にすでに組み込まれた言語の動き方の知識が相当にあって、それを持って言語学習の作業にかかるようになる」とする「普遍文法(ユニバーサル・グラマー)」説を唱えたことを紹介しています。
また、「言語淘汰が意味する遅い変化と、クレオール化に見られる急速な変化との折り合いを付けるには、学習者が、われわれの子どもほど有能ではなかった言語の初期段階を振り返る必要がある」として、「機能的な言語があり得るようになるために変化しなければならないのは生物学的な構造ではなく、機能的な言語がまず言語淘汰の結果として出てきて、それから自然淘汰が作用する環境の一部となったということはあり得る」と解説しています。
第9章「一歩一歩、文法へ」では、「統語法が発達した段階に関して推論するために用いられてきた、2つの全く異なる方向の証拠に依拠する」として、「一方では、統語法のうち、他の面がなくても使えた面がどれかと問い、そうして何が最初に出てきたかを問う。他方では、あいにくなことに『文法化』というぎこちない用語で呼ばれている、一群のよく知られた歴史的過程を検討する」と述べています。
また、これまでの要約として、著者が唱えてきた、「変化が言語にもたらされる道」として、
(1)一人の人間の一生の間でさえ、言語のあらゆる部分が無作為の変化を受ける。
(2)文法化のサイクルの一部を成す変化。
(3)言語淘汰:外部言語の何らかの形が、子どもによって、他の外部言語よりも、自身の内部言語のお手本として好まれるときに生じる。
(4)自然淘汰と性淘汰によってもたらされる変化。
の4点を挙げています。
第10章「権力、噂、誘惑」では、「言語能力の遺伝される違いがあれば、生殖がうまくいく度合いに差が付くことに寄与したに違いない」と述べる一方、「言語技能における遺伝子に基づく違いを求めることに反対する傾きは強いので、言語学者は言語の使い方や能力にある個体差に、そもそも目を向けようとしたがらない」と述べています。
著者は、「二種類の個体差を認める必要がある「として、
(1)発音や声の質、一部の語彙の分野での特殊な発達、統語法に関わる個人に特有の細かい違いといった、些末なばらつきがあり、言語適性については何も言わない。
(2)言語能力が優るとか劣るとか、複合的なことができるとかできないとか、何かの目的について優れているとか劣っているとかの評価を何かの尺度上で付けられる差異もある。
の2点を挙げています。
そして、「あとは、一番有能な旧石器時代の男女、他の人々よりも入り組んだ言語を扱えた人々が、平均よりも多い子どもを育てられたといえる理由を問うことである」と述べています。
著者は、「性淘汰は、自然淘汰では説明しにくい行動については魅力のある説明である」が、問題点として、
(1)性淘汰は急速に作用するが、一貫性がなく、長期に渡って一つの方向に種を導くことはあり得そうにない。
(2)他の動物では、雌の選択のせいとされる特徴は、たいてい雌よりも雄の方で発達しているが、女は知的、言語的、芸術的能力の点で男とよく似ている。
があることを挙げています。
その上で、「入り組んだ言語の進化の原動力となったのは、技術に関する技能よりも、社会的技能を促す淘汰だった」ではないかと述べ、「初歩的な言語を最初に使ってから、文字が発明されるまでの間、自然淘汰と性淘汰の圧力は、最善の社会的技能をもった個体に一番利益をもたらした」と述べています。
第11章「言語はわれわれに何をしてきたか」では、著者にとって、「この世界の謎で最も深いのは、人間の意識という謎である」として、「科学は意識にはまだほとんど手を触れていない」と述べた上で、ニコラス・ハンフリーが、「われわれの意識が役に立つのは、それによって自分の動機、感情、行動について特権的な見通しが得られるからだ」と述べていることを紹介しています。
また、「言語は長期の淘汰によらなければ、いかなる形でも発達しえなかったほど入り組んでおり、また良くできている。言語に見られるような適応した複合性を説明するには、他の方法はまったくない」と指摘しています。
そして、著者自身が、半世紀ほど前に「ガロ」と呼ばれる人々の中で4年近くを過ごした経験を語り、「われわれは奇妙な種で、変わった存在にしたのは、他の何にもまして言語である。言語がどう始まったか、あるいはそれが人類の中でどう発達したかについて、詳細がわかることもないだろうが、推測がうまくなれば、言葉を使う猿としての人間の理解も向上することだろう」と述べています。
本書は、私たちが普段当たり前に使っている言語が、進化の上では決して当たり前のものではないことを教えてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
人間が言葉を使えるようになった過程については、色々な分野の研究者がアプローチしていますが、言語学者による本書のアプローチは切れ味も鋭く説得力もあります。もちろん、専門外の進化とか脳科学の部分はとってつけた感じもありますが、それも含めて専門家で議論してけばいいのではないかと思います。
■ どんな人にオススメ?
・言葉を使えるのは人間の当たり前の能力だと思っている人。
■ 関連しそうな本
ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
アンドリュー ニューバーグ, ヴィンス ローズ, ユージーン ダギリ (著), 茂木 健一郎 (翻訳) 『脳はいかにして"神"を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 2006年07月01日
ジュリアン ジェインズ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 2006年06月04日
スティーヴン ミズン (著), 熊谷 淳子 (翻訳) 『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』 2007年07月08日
ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
■ 百夜百音
【Q: Are We Not Men? A: We Are Devo!】 Devo オリジナル盤発売: 1978
8月10日のサマソニに登場。だいぶおじいちゃんという歳なのですが、赤い「エナジードーム」を頭にかぶり、黄色いツナギを着た人たちがたくさん来てました。
投稿者 tozaki : 06:00 | コメント (0) | トラックバック
2008年06月08日
日本人の脳に主語はいらない
■ 書籍情報
【日本人の脳に主語はいらない】(#1235)
月本 洋
価格: ¥1680 (税込)
講談社(2008/4/10)
本書は、日本語の主語不要派と主語擁護派の論争を、「脳科学の知見で解決できること」を説明しようとするものです。本書の知見を簡単に言うと、日本語と対極にある英語の場合、
・イギリス人は、母音を右脳で聴く。
・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
というものであり、「まとめると、「イギリス人は自他を識別する右脳を刺激しながら、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れを伴いながら、言葉を処理する」となり、「その刺激と時間遅れが、英語が主語や人称代名詞を必要とする原因となる」となるのに対し、日本人の場合は、
・日本人は母音を左脳で聴く。・右脳で、自分と他人の識別を行なう。
・言語野は左脳にある。
・左脳と右脳の神経信号の伝播には時間がかかる。
ということから、「日本人は自他と識別する右脳を刺激せずに、そして、右脳と左脳の間の神経信号伝播の時間遅れなしに、言葉を処理する」となり、「このことが、日本語が主語や人称代名詞をあまり必要としない原因となる」と述べています。
著者は、本書を、「『私』すなわち自己もしくは自己意識に関する、心理学と言語学と脳科学にまたがる議論を、一貫して仮想的身体運動をいう視点から説明している」という側面をもっていると述べています。
第1章「人は言葉をどのように理解しているか」では、「理解」と呼ばれる言葉に、「異なる2つの意味があることを指摘」するとして、
「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた」
という例文を挙げ、「その言葉を聞いてイメージを作れれば、理解できる」という理解を「想像可能性」と呼ぶとともに、理解のもう一つの側面として、「記号を形式的に処理できる」という意味の「記号操作可能性」について解説し、これを「理解の二重性」と呼んでいます。
第2章「仮想的身体運動としての想像」では、身体運動と脳について、「想像で活動する神経回路と、身体運動で活動する神経回路は多くの部分を共有している」として、それらの違いについて、
(1)想像の場合には、筋肉からのフィードバック信号がない。
(2)想像の場合には、脳から神経を通して筋肉に送られるパルス数がかなり少ない。
(3)感覚(知覚)は最近の研究で能動的であることが分かってきて、運動と見なせる部分が多い。
の3点を挙げています。
そして、「従来から、スポーツでイメージトレーニングが重要であると言われてきた」ことについて、「想像が仮想的身体運動であるということは、まさに、これを裏付けている。ある運動のイメージをすることで、その運動で使われる筋肉を仮想的に動かしているのである。その運動のときに使われる神経系を実際に使うことができるから、イメージトレーニングが効果的なのである」と述べています。
第3章「仮想的身体運動による言葉の理解――身体運動意味論」では、「言葉の意味」について、
(1)言葉の意味とはその指示対象である。(指示対象意味論)
(2)言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
(3)言葉の意味とはその用法である(用法意味論)
の3つの意味論を挙げ、それぞれについて、「どのようにして身体運動に基礎づけられるのか」を論じています。
そして、「イメージは会話で修正されていくもの」であるとし、「イメージが用法で修正されていくことであり、仮想的身体運動的意味が用法的意味で修正されていくということである」と述べています。
また、「内観を用いずに、心理学の実験をしよう」とする「行動主義」に対する不満を持った研究者が、「心は記号を計算する機械である」ということを前提とした「認知主義」を提唱し始めたことについて、「認知主義は、記号処理が特異で、刺激反射反応が不得手である。これに対して行動主義は、刺激反射反応が得意で、記号処理が不得手である」と述べ、「認知主義はイメージを伴なった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、イメージを伴なわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である。これに対して行動主義は、イメージをともなわない心理現象、無意識的な心理現象、末梢神経系が処理する心理現象の説明が得意であり、表象やイメージをともなった心理現象、意識的な心理現象、中枢神経系が処理する心理現象の説明が不得手である」
と述べています。
第4章「心の理解――仮想的身体運動による心の理解」では、「我々が他人の心も言葉と動揺に、仮想身体運動で理解していることを説明する」としています。
そして、「ある人の思考は、他人と有効に対話できることによって、はじめてその人で実現される。他人と有効に対話できなければ、思考もまともにできないのである。思考は自分という他人との対話であるから、自分(自身)が社会的でなければ思考はできない」と述べています。
また、「人間とかチンパンジーが、他者の心を理解する能力のこと」である「心の理論」について、「心の理論」を持っているかどうかを試験する課題である、「誤信念課題」について解説した上で、「他人の心を読むため」に必要なものとして、
(1)意図の検出
(2)視線の検出
(3)共同注視
(4)心の理論
の4点を挙げています。
さらに、模倣に関して、「自分が身体のある部分を動かすときに動くが、他人がそれと同じ動作をするのと自分が見るときにも動く」「ミラーニューロン」について、「最初はサルで見つかり、その後人間でも見つかった」と述べています。
そして、「子どもは最初は言葉を比喩的に捉え、主に右脳で処理している」が、「習熟して機械的に処理できるようになれば、左脳で処理するようになる」と述べた上で、「自己意識は自分の意識ではなく、自分と他人を分離する意識と考える方が適切であり、それは主に右脳によって担われていることが明らかになった」と述べています。また、「他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである」として、「他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)」であり、「ことのきにミラーニューロンが重要な役割を果たす」と述べています。
第5章「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」では、「主語強要言語を母語」にしている話者が、大体10億であるのに対し、「残り約60億人の話者は主語を強要しない言語を母語にしている」ことについて、「この事実は少し衝撃的ではなかろうか」と述べています。
そして、「日本語と英語で対照的な点」として、「日本語は母音を重視する言語であるが、これに対して、英語は母音よりも子音を重視する言語である」ことを指摘しています。
また、ここまでの結論として、
(1)日本語は、母音比重も大きくて、主語省略度も大きい。これに対して、ポリネシア語以外の言語は、日本語より母音比重度も小さくて、主語省略度も小さい。
(2)ポリネシア語は、日本語と同じように、母音比重度が大きくて、主語省略度も大きい。
の2点を挙げています。
さらに、「子音脳は主語を非主語より必要とし、人称代名詞を非人称代名詞より必要とするが、これらをあわせると、主語の人称代名詞が最も必要とされるということになる」と述べています。
第6章「主語や人称代名詞の省略は母音で決まる――身体運動統語論」では、
「日本語では、
認知的主体「私」(無音)+言語的動詞
であるのに対して、英語では、
言語的主体"I"+言語的動詞
となる」と述べ、主語といわれる"subject"について、「直訳すれば主体」であり、「明治時代にsubjectを主語と訳した大槻文彦は、文主とも訳している」と述べています。
また、日本人が、「私」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように、「多くの事故を表す言葉をもっているのは、様々な人間関係の認知が音声となって表出されてしまっているからである」として、日本語の自己を表す言葉には、「『純粋な』自己に加えて、発話がなされているときの人間関係の認知の情報も含まれている」と述べています。
第7章「文法の終焉」では、「普遍的な規則を求めるとすれば、それは、言語の外に出て認知的な事柄をもあわせて考慮してはじめて、普遍的な規則が存在するのである。その普遍的な規則は、言語の外に出ざるを得ないので、もはや文法ではないし、言語意だけに関する規則でもない」と述べ、「その規則は、もはや文法ではない。分の法則ではなく、言語と認知がなす系の規則である」として、「認知形式」という言葉を充てています。
また、「明治維新から140年余り経った現在の日本語は、江戸末期の日本語とはずいぶん変わったものになってしまった」として、例として、「~は…である」という文は「明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである」ことや、「句点(。)も明治に造られた。それまでは読点(、)だけであった」と述べ、「明治維新の頃と現在の日本人を比べれば、明治の日本人の方が、より多くの場所の論理を用いた表現や思考をしていたのではないかと思う。学校の義務教育で模倣させることや翻訳文が数多流通することで、我々の日本語は140年間を経て大きく変わってしまった」と述べています。
著者は、「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない、ということになろう」と述べ、「英語は主体の論理が多い」理由と9誌テ、「英語の子音優勢性が大きく関係している」として、「英語によって系絵制された子音脳は、自他分離を母音脳に比べて過剰に行なう」ため、「主体の論理が多くなる」として、「主体の論理(擬人のメタファーの形式)という文法の根幹までも音声に支配されている」と述べています。
そして、文法研究には、
(1)文法は複数の認識形式(の言語版)から構成されている。
(2)文は、認識形式の言語版に従って認識の一部が音声化されたものであり、この音声化は状況に依存しているので、語用論的問題である。
の2点を考慮すべきと主張しています。
本書は、言語学者の内輪もめになりがちな日本語主語論争に別分野から光を当てる一冊です。
■ 個人的な視点から
日本語に主語が必要か不要かどうかは文法学者にとりあえず任せたとしても、明治維新以後、どれだけ日本語が変容したか、そして、それに義務教育がどれほどの影響を与えたかについては、きちんと研究成果を読んでみたいです。
■ どんな人にオススメ?
・主語が何で必要なのか、納得いかない人。
■ 関連しそうな本
金谷 武洋 『主語を抹殺した男/評伝三上章』 2008年01月19日
金谷 武洋 『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』 2008年02月09日 06:00
金谷 武洋 『日本語文法の謎を解く―「ある」日本語と「する」英語』
三上 章 『象は鼻が長い―日本文法入門』
三上 章 『現代語法新説―三上章著作集』
金谷 武洋 『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』 2008年02月03日
■ 百夜百音
【スーパーロボット マッハバロン】 オリジナル盤発売: 2000
マッハバロン自体は子供の頃に再放送で見たような見なかったような、という感じなのですが、作曲は後の井上大輔氏で、グラムロックな雰囲気は、当時は特撮の主題歌じゃないと許されなかったんじゃないかと思います。
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2008年04月13日
暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る
■ 書籍情報
【暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る】(#1179)
山極 寿一
価格: ¥1019 (税込)
日本放送出版協会(2007/12)
本書は、「人間と類人猿との遺伝的な違いは、類人猿と他の霊長類との違いよりも小さい」などといった「系統的な違いに基づき、さまざまな主の生態や行動についての最新の報告」と著者自身の「長年のフィールドでの知見を踏まえながら人間の特長について考えて」いるものです。
第1章「攻撃性をめぐる神話」では、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンにおける、「道具を持たなかった猿人たちが、あるとき宇宙から来たと思われる謎の物体に遭遇して霊感のように知性のひらめきを得、動物の骨を狩猟の道具として用いることを思いつく」シーンを紹介し、「人間の祖先が武器を用いて狩猟者としての能力を高め、それを同種の仲間へ向けて戦いの規模を拡大してきた」というロバート・アードレイの説や、「攻撃性というものがいかに動物たちの基本的な行動を形作っているかを解説し、同種の仲間に対する攻撃が内的な衝動によって引き起こされるものである」かを説いたコンラート・ローレンツらの説を紹介し、現在では、「この考えが間違いであることは、いくつかの証拠によって明らかとなっている」と述べています。
また、「食と制という異なる葛藤とその解消法は、霊長類のさまざまな生態と社会の特性に応じて多様に発達してきた」と述べ、「人間の社会にみられる争いも、和解の方法も、その延長線上に形作られているのである」と解説しています。
第2章「食が社会を生んだ」では、「私たち人間にとっても争いごとの原点は食物にある」として、「他の生命とさまざまにぶつかり合いながら、それが致命的にならないような方法を編み出して共存にいたる」と解説しています。
また、中高生の霊長類が、「単独で目立たないように行動する性質を進化」させるという夜行性の霊長類の対捕食者戦略をやめ、「群れを作ることで捕食者の危険を減じようとした」として、「捕食者を早く発見し、素早く逃げたり、数を頼りに対抗する戦略を発達させた」と解説しています。
第3章「性をめぐる争い」では、19世紀の人類学者たちが、「家族が人間の社会を特徴づけるものであること、それがインセストタブーによって成立していることを論じた」ことを紹介した上で、「人間の家族は、その始まりにおいて、ペア社会から生まれたものではない。群れがまずあり、そこに家族というペア社会を可能にする仕組みができたのだ」と述べ、「ペアではない集団生活からどのようにして、ペアに性交渉を限定するような家族が生まれたのか。そのプロセスにインセストの禁止が大きな働きをしているはずである」と述べています。
また、伊谷純一郎が、「霊長類の社会構造を動かしている回転のシャフトは、インセストの回避機構であると考えた」ことを紹介しています。
さらに、チンパンジーやボノボなどの父系社会では、「メスは子どもを産む前に生まれ育った集団を離れることが知られている」と述べ、「初期の人類社会がもし類人猿と同じような父系的な性格を持っていたならば、やはりインセストの起こる可能性が高かったに違いない」が、「それを人類はタブーという規範にして社会をつくったのだろうと思われる」と述べ、「そんな規範が必要だった」理由として、「インセストの回避によって親子兄弟姉妹が性的な競合を減じて共存できる」点を挙げています。
第4章「サルはどうやって葛藤を解決しているか」では、ニホンザルが「優劣順位によって場所の優先権を認め合い、争いが起こらないようにしている」ことを紹介し、「オスの間には直線的な優劣順位がある」のに対し、「メスたちは、母親から順位を継承し、自分の属する家系のメスを援護することによって、直線的な順位を維持している」ため、「すべてのメスと順位を確認しあう必要はない」と解説しています。
そして、優劣順位が、「あくまで群れの中でサルたちが共存しあうための了解」であり、「群れの外でも通用するわけではない」と述べています。
また、ボノボの「変わった仲直り行動」として、「メスどうしが対面し、膨張した性皮を左右に擦り合わせる」という「ホカホカ」と呼ばれる行動を紹介し、「ボノボは社会的緊張が高まると、性交渉によってそれを解消しようとする」と解説しています。
さらに、チンパンジーやボノボが、「生きるために必ずしも重要とは思えない食物をあえて分配している」ことについて、「食物を社会的な手段として用いて、互いの関係を調整していることを示唆している」と解説しています。
第5章「暴力の自然誌」では、「オスによる子殺しは多くの霊長類で見つかるようになった」ことについて、「子殺しが起こる種は、メスが群れ外のオスと交尾をしないという特徴」があり、「発情に季節性がなく、メスが一斉に発情しないという特徴」があると述べ、他の類人猿との比較では、「形の上で単独生活やペア生活を送るか、複雄複雌で完全な乱交という交尾様式の主には子殺しが起こっていない」が、「雄の雌に対する占有志向が強く、それが果たせないような社会型や交尾様式の種に子殺しは起こる」と解説しています。
また、食物を「分け与える」ことと「分かち合う」ことは異なると述べ、「負債のイデオロギー」と「共存のイデオロギー」とを対比させています。
著者は、「大量殺戮を辞さないほどの苛烈な戦争が人類に起こるようになった」要因として、「言語の出現と土地の所有、そして死者につながる新しいアイデンティティの創出によって可能になった」と述べ、「現代は、そうした人間のアイデンティティをそのままにして、ボーダーレスに突入してしまった混乱の時代である」と指摘しています。
本書は、人間の本質を、我々に近い類人猿の社会の観察に求めた一冊です。
■ 個人的な視点から
よく凶悪な事件、特に肉親の間の殺人事件などが起こると、「太古の人類にはこんな自然の法則に反したような犯罪はなかった。人類が自然を忘れてきたことへの警告として受け止めるべきではないか」的な、「社説」なり「読者投稿」(実際には同じ人が書いてるのかもしれませんが)が掲載されたりしますが、原初の人類や類人猿や自然をあまりに美化しすぎるのも考えなさ過ぎな気がします。
■ どんな人にオススメ?
・なぜ人間は戦争をするのかを考えたい人。
■ 関連しそうな本
西田 利貞 『人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ』 2008年03月09日
リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
ブライアン サイクス (著), 大野 晶子 (翻訳) 『イヴの七人の娘たち』 2006年06月24日
リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
■ 百夜百音
【和田弘とマヒナスターズ】 和田弘とマヒナスターズ オリジナル盤発売: 2005
マヒナスターズと言えば、若い人にとっては、コーネリアスのお父さんが在籍していたグループとして有名ですが、もともとお座敷向けの歌なので、カラオケである年齢層以上だと単純に盛り上がれるのもポイント高いです。
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2008年03月09日
人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ
■ 書籍情報
【人間性はどこから来たか―サル学からのアプローチ】(#1144)
西田 利貞
価格: ¥1890 (税込)
京都大学学術出版会(2007/08)
本書は、「ヒトに共通な心理や行動の特徴」が、「長い進化の過程の産物」であり、「それらはいつ、どうして生まれたのか、どういう適応的意義をもっているのか、自然の中のヒトの位置はどのようであるか」を探ることを目的としたものです。著者は、本書の出版の動機として、「人間は文化の産物であり、教育によってどのようにでも変えられる」という考えが、あまりにも根強くはびこっていることを挙げ、その考えが「間違っていただけでなく、今や害毒を流している」として、「進歩思想」との結びつきを指摘しています。
第1章「現代人は狩猟採集民」では、人の行動の性差の大半が、「霊長類時代から持ち越した違いと、狩猟採集時代の適応の二つから説明できる」としています。
第2章「人間性の研究の方法」では、本書が、「人の進化史のうちのはじめの部分、つまり『サルからヒトへ』というホミニゼーションと呼ばれている過程と関係する部分」であるとしたうえで、人の自然史を再構成するための人類学の分野として、
・霊長類行動生態学
・実験心理学
・生態人類学
・文化人類学
・分子系統学
・比較解剖学
・古人類学
・古生態学
・先史考古学
・化石生成学
の10点を挙げ、「本書は、ヒトの持っている行動特徴の起源がヒトと近縁な他の動物の中に見つからないかを探るという試み、そして人がチンパンジー属と分かれた後の最も広い意味での採集狩猟の時代での適応は何かを探る試みである」と述べています。
第3章「社会生物学から見た人類」では、ヒトの行動が、「個体の『包括適応度』を最大にするという形で進化した」と述べ、包括適応度を、「個体の適応度(簡単にいうと、子どもの数)に、『血縁度』に応じて割引した近親者の適応度を加えたもの」であると解説しています。
また、「どの社会でも夫の年齢は一般に妻の年齢より高い」ことや、姦通が非常に多い社会では、子より姪甥に多く投資する習慣があること、非血縁者の子どもを養子にとる理由が、遺伝学的には「ペットを飼うのと同じ」であることなどを解説しています。
第4章「社会の起源」では、「血縁関係にあるということは、動物界を通じて、個体を社会的に結びつけるもっと大きな要素である」として、「血縁者を他の個体より優遇すること」を「ネポチズム(nepotism)」と呼ぶと述べ、人類や霊長類におけるネポチズムの例を解説しています。
第5章「互酬性の起源」では、ヒトの互酬性に関して、北米北西海岸のインディアン社会にあった「ポトラッチ」という奇妙な習慣を取り上げ、「一つの家族集団がライバルの集団を、何年間もの蓄積を消費しつくしてしまうほどの非常に贅沢な宴会に招待し、ご馳走し、多量の引き出物を与える。ライバルは次の機会に、それ以上の規模の宴会を催し、お返しする」という行動には、「ライバルに社会的に打撃を与える」という意図があるとして、これを通常の贈与ではなく「財産を使った戦い」であると紹介しています。
第6章「家族の起源」では、家族を、「性的独占権、相互扶助義務、生まれた子供の所属、財産相続などについて一定の伝統的な規定を伴なう通常一人の男と一人あるいは複数の女のグループと彼らの子孫からなる集団」であると述べ、ヒトにとって普遍的な特徴である「ヒューマン・ユニヴァーサル」の例であると述べています。
そして、ヒューマン・ユニヴァーサルの一つである「近親相姦(インセスト)の回避」について、その起源を説明する仮説として、
(1)ジグムント・フロイト:同性の親子が性的に嫉妬する。
(2)エドワード・ウエスターマーク:幼年期に同居して、親しく接触した相手には、成年に達したとき性的魅力を感じなくなる。
(3)マリアム・スレーター:人口学的に制限されていた近親相姦が、後になって制度化された。
(4)クロード・レヴィ=ストロース:家族間のネットワークを維持するため
(5)有害遺伝子ホモ結合説:近親者同士で子どもを作ると、有害劣性遺伝子が顕在して死亡あるいは身体障害者が生まれる確率が高まり、親の繁殖にとって不利である。
の5点を挙げています。
第7章「攻撃性と葛藤解決」では、競合する資源の優先権の決め方として、
・優劣の確定
・平等関係
・未解決関係
の3つの方法を挙げています。
また、戦争が人類の歴史に登場したのは、比較的最近のことであるという主張が、「霊長類や狩猟採集民俗には戦争がないという誤った認識による」ものであることを指摘し、「定住や農耕、都市の発生、帝国主義とともに戦争は増加したかもしれないが、その最大の原因は人口過剰である」と述べています。
第8章「文化の起源」では、宮崎県幸島のニホンザルにおけるイモ洗いや小麦洗い文化という行動の普及が社会的学習によるものであるという説に疑問が呈されているとして、
(1)「普及」に時間がかかりすぎていること
(2)イモ洗いといってもさまざまなパターンがあること
(3)キャプチンモンキーを飼育し、水場を設け、少し離れたところにイモを置いて観察したところ、どのサルもイモを水につけ、洗いだしたという観察から、仲間から習い覚えたという社会的な情報伝達のルートを考える必要はなく、「個別的学習」で十分説明できること。
の3点を挙げています。
第10章「知能の進化」では、脳の進化を説明する仮説として、
(1)生態仮説:食物メニューや、食物獲得・処理の技術、食物分布と関係したメンタルマップ(認識地図)、食物の季節変化の知識、道具使用、特に石器使用が、知能の進化の選択圧であるという仮説
(2)社会仮説:集団内の社会関係が、知能進化の選択圧であるとする仮説
の2説を挙げ、「一方が正しく、他方がまちがっているということではないのかもしれない」と述べています。
第11章「初期人類の進化」では、最後の共通祖先が、
・果実中心の食べ物であった
・大人の雄の血縁を核とする50~100人程度の父系集団であった
・主な移動様式は指背歩行(ナックル・ウォーキング)で、採食地から菜食地へ地上を移動した
等の点を推測しています。
また、最近の人類学の見方で最も変わった点として、「人類進化における直立歩行の意義」を挙げ、「かつては、二足歩行の採用とともに、ヒトの祖先の生活しパターンは、類人猿的なものから急激にヒト的なパターンに変化したと考えられていた」が、二足歩行を始めても、ヒトにならず絶滅した動物が何種類もいたことが明らかになったと述べています。
第12章「終章」では、農牧の発明とそれに付随する文明の発達によって、「離乳の早期化、出産間隔の短期化、成長加速、病気の克服、寿命の長期化が起こり、人口の限りない増大を招いた」として、人類の目的が「地球上にできるだけ多くの人間を一時的に存在させること」であるならば、それでよいだろうが、「現実に行なわれていることは、『人口の大記録』を達成しようとしているかのようである」と指摘しています。
本書は、動物としてのヒトという視点で見ることによって、人間の社会の理解を助けてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
人間社会の制度が、人間の理性や智慧によって成り立っていると信じる人にとっては、社会のルールがサルの社会からの延長にあるというのは抵抗があるのではないかと思います。
人間がいろいろ悩んで考えた結果が、サルの習性と同じだというのはそれはそれで面白いのではないかとも思いますが。
■ どんな人にオススメ?
・自分はサルとは違う、本能で行動していないと思っている人。
■ 関連しそうな本
スティーヴ・グランド 『アンドロイドの脳 人工知能ロボット"ルーシー"を誕生させるまでの簡単な20のステップ』 2006年01月28日
リチャード・ドーキンス (著), 日高 敏隆, 岸 由二, 羽田 節子, 垂水 雄二 (翻訳) 『利己的な遺伝子』 2006年09月26日
ジャレド ダイアモンド 『人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り』 2006年09月29日
ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
ブライアン サイクス (著), 大野 晶子 (翻訳) 『イヴの七人の娘たち』 2006年06月24日
リチャード・G. クライン 『5万年前に人類に何が起きたか?―意識のビッグバン』 2006年10月21日
■ 百夜百音
【安全地帯IV】 安全地帯 オリジナル盤発売: 1985
シングル「熱視線」は、当時の歌謡曲のなかでも飛び抜けてハイテンポかつ歌いにくい一曲だったのではないかと思います。特にサビの前のブレイクは歌い出しを難しくしています。
さらに、昔のカラオケのレーザーディスク時代は、安全地帯のカラオケは映像がエロイということでうかつにカラオケでは歌いづらかったような気がします。
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2008年01月21日
ブックガイド〈心の科学〉を読む
■ 書籍情報
【ブックガイド〈心の科学〉を読む】(#1096)
岩波書店編集部
価格: ¥1260 (税込)
岩波書店(2005/5/13)
本書は、哲学や生物学、作家など各界で活躍する10人の読み手が、「心の科学」を読むためのお勧めの本を紹介しているものです。
第1章「<心>とは何か」(黒崎政男)では、アリストテレスの『心とは何か(デ・アニマ)』を取り上げ、「この書物がミステリアスでしかもファンタジックなのは、アリストテレスが、魂が不死で永遠不滅であるかどうかを書いた決定的な箇所が破れていて、本人が何と書いたかわからず、しかも、この書物はアラビヤ経由で、ヨーロッパに中世中期に逆導入されたものであるということ」であると語っています。
第2章「『動物の心』+『ことば』+『ヒトの心』そしてぼくの心は?」(岡ノ谷一夫)では、「動物の心的体験について知りたいと思っていた」著者が、ドナルド・R・グリフィンの『動物に心があるか――心的体験の進化的連続性』に出会ったことで、「他種動物に心的体験を仮定するということは、何も別にそれら動物の骨格構造、神経系、抗体をわれわれのそれと比較することに比べて擬人的ではない」という言明が、「自分の目指す方向性を明るく照らし、勇気づけてくれた」と語っています。
第3章「思い続けることの不思議」(瀬名秀明)では、「<心の科学>についての多くの本が、デカルトの心身二元論に言及している」ことを挙げ、「いったいデカルトとはどんな人物で、実際のところ何を書いたのだろう」と本を手に取った著者が、たちまち「彼の考え方や生き方の魅力に惹かれてしまった」と語っています。
そして、デカルトの『方法序説』が、「心と体についての優れた考察であると同時に、人間がよく生きるためのいまなお輝きを失わないアドバイス集なのだ」と述べ、「おそらく今世紀には、デカルトの残したこのふたつが、<心の科学>として交わるのだと私は思う」と語っています。
また、もともとエンターテイメント小説を中心に読んでいた著者が、「十代の頃から難しい本をたくさん読んできた人に会う」と、「少し羨ましい気持ちになる」と語った上で、「だが焦ろうとは思わない。読みたいと思った瞬間こそが、多分もっともよい読書時期だからだ」と述べています。
第4章「意識の迷宮」(信原幸弘)では、心の科学や哲学で「クオリア」と呼ばれる「意識への現われ」について頭を悩ませていた著者が、ダニエル・C・デネットの『解明される意識』に出会い、「デネットは、わたしが頭を悩ませていたクオリアが実は存在しない」と主張し、「われわれがクオリアとして理解しているものは、混乱と矛盾に満ちており、そのような理解に当てはまるものは何もない」と主張していることに衝撃を受けたと語っています。
また、V・S・ラマチャンドランとサンドラ・ブレイクスリーの『脳のなかの幽霊』を取り上げ、手足を切断された人たちが、「その手足がまだあるかのように感じる」(幻肢)症状について、「われわれの脳はどうも夢見る脳らしい。それを覚ますのが外界からの刺激だ」と述べています。
第5章「『心を読む』心の科学」では、バロン=コーエンの代表的著作である『自閉症とマインド・ブライトネス』を挙げ、生物の適応能力の観点からの心を理解する心の仕組みとして、
(1)意図検出器:「自分で動く物」が目標や願望を持っているかどうかを判断するしくみ。
(2)視線方向検出器:眼または眼状刺激の存在を検出する心のしくみ
(3)共有注意の機構:他の人の視線を追っていったり、指差しをして人の注意を引いたり、物を他の人に示したりするような、自己、他者、他の物(者)の三者の間で成り立つ心のしくみ。
(4)心の理論の機構:他の人の心の状態についての知識に基づいて行動するための心のしくみ。
の4点を挙げています。
第6章「臨床神経心理学者が読む<心の科学>」(山鳥重)では、イスラエル・ローゼンフィールドの『記憶とは何か――記憶中枢の謎を追う』を取り上げ、「過去の出来事の貯蔵庫など、脳のどこにもない。脳には現在しかないし、過去の出来事の追想と思われるものも、実は現在の脳の働きそのものである。記憶と見えるものは現在の脳がただ今作り出しているものである。記憶は現在ただ今、絶え間なく展開し続けている脳による過去の概括である。つまり、記憶は創造(invention、原題の題名)である。われわれはなんとなく過去の記憶がどこかに『しまってある』と思いがちだが、そんなことはない。あるのは現在であり、現在ただ今の個体と環境の相互関係(文脈)だけである。脳は文脈をとらえるが、モノを個別にとらえたりはしない。大切なのは脈絡であり、脈絡の重なりであって、この脈絡には行為も組み込まれている。刺激(環境脈絡)―脳の神経ネットワーク―運動という脈絡が、環境を範疇化し、範疇化の重なりが意味や記憶を作り出すというのである。記憶と見えるものも、脳が今、現在の文脈に応じて、今、現在作り出している働きにほかならないという」と解説しています。
第7章「ことばから見た心」では、言葉が、「心の構造や機能の解明を目指す認知科学にとって非常に重要な意味合い」を持つ理由として、
(1)ことばはヒトに固有である。
(2)ことばはヒトに均一的である。
(3)ことばの表現形には一定の変異が許容されている。
の3点を挙げたうえで、「認知科学にとってことばが重要であるもう一つの理由」として、「生得的な基盤がことばに固有なものであるのかどうか」という「領域固有性の問題」を挙げています。
第10章「地面や空気から『心』について考えることもできる」では、「心の科学」を実践することの困難の理由として、
(1)長い間、心はもっぱら宗教や哲学の対象だったという歴史的な事情
(2)『心』は誰にでもあるので、皆それを自己流で考えて語り、『内省』に由来する理論が歯止めなく心の科学に参入した。
の2点を挙げ、「心の科学が最初から抱えてしまった二つの困難が克服されずにいる限り『危機』はこれからも何度も訪れるはずなのである」と述べています。
本書は、心を科学の目で見たい人にとってガイドラインを与えてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
「心の科学」と一口に言ってもいろいろな分野に及ぶので、どういう方向の本を読むかによって内容はぜんぜん違うのですが、本書のようなブックガイドは袋小路に行き詰ってしまうことをとどまらせてくれるのではないかと思います。
■ どんな人にオススメ?
・人間の心を科学の目で見てみたい人。
■ 関連しそうな本
マイケル・トマセロ (著), 大堀 壽夫, 中澤 恒子, 西村 義樹, 本多 啓 (翻訳) 『心とことばの起源を探る』
ジェフ・ホーキンス, サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) 『考える脳 考えるコンピューター』 2005年12月17日
スティーヴ・グランド 『アンドロイドの脳 人工知能ロボット"ルーシー"を誕生させるまでの簡単な20のステップ』 2006年01月28日
オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
トール ノーレットランダーシュ (著), 柴田 裕之 (翻訳) 『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』 2006年06月18日
■ 百夜百マンガ
鰯水じゃなくて岩清水の名せりふである「君のためなら死ねる」は元々は二葉亭四迷の訳文がネタ元のようです。
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2008年01月09日
「あっ、忘れてた」はなぜ起こる―心理学と脳科学からせまる
■ 書籍情報
【「あっ、忘れてた」はなぜ起こる―心理学と脳科学からせまる】(#1084)
梅田 聡
価格: ¥1260 (税込)
岩波書店(2007/07)
本書は、「しまった、すっかり忘れてた!」という経験について、その原因については「考えてもよく分からない」という、「記憶や意識の不思議な側面について、心理学や脳科学の立場から深く考えて」見ることを目的としたものです。
第1章「いろいろなうっかりミス」では、まず、本書が取り上げる「あっ、忘れてた!」という経験を、「記憶として蓄えられている情報を思い出す債の失敗、すなわち想起の失敗」であると位置づけ、このタイプのエラーで対象とされる、「これからやろうとしている行為の記憶」が、専門的には「展望記憶」と呼ばれていることを解説しています。
次に、「やろうと思った行為を実行し始めてからのエラー」、すなわち「し間違い」について、一般に「アクションスリップ」と呼ばれると解説しています。
この他、3つ目のタイプとして、「過去の出来事に関する情報」が思い出せないエラーと、「過去に覚えた情報」、すなわち「知識になった情報」が思い出せないエラーである「ど忘れ」について解説しています。
第2章「『し忘れ』とは何か」では、記憶には、
・記銘:必要な情報を覚えること(符号化)
・保持:その情報を頭に蓄えておくこと(貯蔵)
・想起:必要なときにその情報を思い出すこと(検索)
という3つの段階があり、このうち、タイミングが必要とされるのは、最後の「想起」段階であると解説しています。
また、著者の調査では、「し忘れ」に関しては、「壮年者群より若年者群のほうが多かった」ことを挙げ、他の展望記憶の年齢差に注目した研究でも、「し忘れは若者に多い」という結果がいくつも報告されている理由について、「スキル化された記憶」という言葉を挙げ、展望記憶の能力は、他者とのコミュニケーションにおいて必要不可欠であるため、社会生活の中で「タイミングよく思い出すスキル」が獲得されると述べ、壮年者が、「今度あったときには、きちんとお礼をしなければ」ということを即座に思い出せる「あいさつの記憶スキル」にすぐれているという例を挙げています。
第3章「『し忘れ』を実験的に再現する」では、「し忘れ」のメカニズムを実験的に調べようとすると意外に難しい理由として、「日常場面においてそういった失敗が起こったとしても、それは人が複数の作業を同時に進めている状況で多く観察されるために、各作業に対して向けられている注意の程度などが不明であるという点」を挙げ、「どんなときに記憶の失敗が起こるのか、その原因を特定することが非常に難しい」こと、また、「もう一つの理由として、『入力内容が特定できない』という点」を挙げています。
そして、1990年に認知心理学者のアインシュタインとマックダニエルが考案した「並列型課題」という方法を、「展望記憶を調べる典型的な課題として広く用いられている」として紹介しています。そして、この課題が、「われわれが日常的に経験する『し忘れ』や『あっ、忘れてた!』というような現象を、本当に再現しているのかという批判」があることを紹介しています。
また、「『やろう』としていたことを実行するために必要とされるもっとも基礎的な能力」である、「『やろう』という意図そのものを覚えておく能力」について、「意図再任の能力」と名づけています。そして、次に必要となるプロセスとして、
(1)存在想起:想起しなければならないときに、「何かやらなければいけないことがある」ということをタイミングよく思い出すこと。
(2)内容想起:実際にやらなければいけないことを何かを思い出すこと。
の2点を挙げています。
第4章「『し忘れ』を生み出す脳」では、本書が取り上げている記憶をはじめ、言語、学習、注意、情動、問題解決などの高次認知機能の研究には、
(1)神経心理学:脳損傷や精神神経疾患を対象とした臨床的な支店による学問分野であり、脳における各部位がどのような認知処理を担っているのかを知る上で、必要不可欠なアプローチ
(2)脳機能画像法:いずれかの脳画像技術を用いて、実際に活動している脳の働きを調べる方法
の2つのアプローチがあると述べています。
そして、日常的な「し忘れ」は誰にでも起こることであるが、「それが単なる行為のし忘れではなく、意図そのものを忘れてしまったことが原因で起きているのであれば、それは病的な「し忘れ」の危険信号である可能性が高くなる」と述べています。
また、「人があることを意識する前から、脳ではそれを予測するような活動が見られる」ことがすでに明らかにされているとして、「ある意図を自発的にタイミングよく想起するためには、それを可能にする脳活動が事前に行われていると考えるのが妥当である」と述べています。
さらに、記憶障害に対するリハビリテーションの方法として、
(1)環境調整法:記憶障害をもつ人にとって負担となるような生活環境自体を改善する
(2)外的記憶補助法・外的方略法:手帳やメモなどの補助を用いる
(3)手がかり漸減法:その人の記憶可能範囲を考慮し、訓練によってその範囲を徐々に広げていく
(4)誤りなし学習法:誤りが起きない程度のレベルの学習を適度な頻度で行なうことで、訓練を受けるものの動機付けの低下を防ぐ
の4つの方法を紹介しています。
第5章「『し忘れ』を防ぐ」では、加齢に伴なう日常的な記憶力低下を補う上で大切な点として、
(1)正確なセルフモニタリング(自らの記憶を少し上の次元(メタレベル)から客観的に理解すること)
(2)記憶に対する正確な自己効力感を持つこと
の2点を挙げています。
また、し忘れ防止のヒントとして、「予定が発生したら、なるべく具体的にそれを実行する時刻を定めておく」ことで、「実際にその時刻に近づいたときに、無意識的な存在想起のメカニズムが働き、補助的に作用する可能性が高まる」と解説しています。
さらに、「同じ情報を覚える場合でも、将来にそれを行なうことを意図した場合のほうが、後で思い出されやすい」という「意図優位性効果」についての知識を持っておくことも、し忘れ防止に有効であると述べています。
本書は、意識していないからこそ、研究が難しい「し忘れ」についての理解の手がかりを与えてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
この本を読みながら、風呂に入ろうと思ってお湯を張っていたのですが、うっかり栓をするのを忘れてしまっていました。これは、本書でいえば「タイプB」のエラー、すなわち「し間違い」に当たるわけですね。
■ どんな人にオススメ?
・どうして忘れてしまうのかを知りたい人。
■ 関連しそうな本
井上 和臣 『認知療法の世界へようこそ―うつ・不安をめぐるドクトルKの冒険』 http://tinyurl.com/2f2ppu
中尾 政之 『失敗は予測できる』
けいはんな社会的知能発生学研究会 (著), 瀬名 秀明, 浅田 稔, 銅谷 賢治, 谷 淳, 茂木 健一郎, 開 一夫, 中島 秀之, 石黒 浩, 國吉 康夫, 柴田 智広 『知能の謎 認知発達ロボティクスの挑戦』 2006年04月09日
ベンジャミン・リベット (著), 下條 信輔 (翻訳) 『マインド・タイム 脳と意識の時間』 2006年11月11日
ジェフ・ホーキンス, サンドラ・ブレイクスリー (著), 伊藤 文英 (翻訳) 『考える脳 考えるコンピューター』 2005年12月17日
ニコラス ハンフリー (著), 垂水 雄二 (翻訳) 『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』 2006年4月15日
■ 百夜百マンガ
「逆境とは、すべてが思いどおりにいかない不運な境遇のことをいう!!」
ちょっと前に実写で映画化されたおかげで再発されました。初期の頃の勢いと、中堅マンガ家としての話のうまさがちょうど良くミックスされた感じの作品です。
投稿者 tozaki : 22:00 | コメント (0) | トラックバック
2007年07月15日
レナードの朝
■ 書籍情報
【レナードの朝】(#906)
オリヴァー サックス (著), 春日井 晶子 (翻訳)
価格: ¥1029 (税込)
早川書房(2000/04)
本書は、「特異な症状を来たした患者たちの人生と、彼らが見せた反応」と、「そこから医学と科学が何を学ぶべきか」を主題としたものです。「患者たちは今から50年以上も前に大流行した眠り病(嗜眠性脳炎)の数少ない生存者であり、彼らの反応は、画期的な『目覚め』の新薬レポジヒドロキシフェニルアラニン(L-DOPA)によってもたらされた」ものであると述べられています。
「嗜眠性脳炎(眠り病)について」では、1916年から17年にかけて、ウィーンやその他と都市で突然表れた「新しい」病気が、それから3年で世界中を席巻し、その症状が、「同じ症状をみせる患者が二人といないほど多様なばかりか、あまりにも奇妙だった」ため、「当初は、あたかも何千もの新しい病気が突然あふれ出たかのように思われた」と述べられています。著者は、「患者を荒廃へと引きずりこむ嗜眠性脳炎」が、「多くの患者の場合、一つの機能だけは無傷のまま残る」こと、すなわち、「知性、想像力、判断力、ユーモアといった『より高次の機能』」が残ることに注目し、「患者たちは、いってみれば、ユニークな脳機能の崩壊を表現する独特の存在」であると述べています。
「マウント・カーメル病院の生活」では、L-DOPA登場以前の患者たちの願い、すなわち、「病気の治癒、そして人生を取り戻すこと」、「失われた時間を取り戻し、人生を謳歌していた若い日の自分に戻ること」という「2つの奇跡が起こるのを願い続けずにはいられ」なかったことが述べられています。
「L-DOPAの開発」では、L-DOPAが、「奇跡の薬」であったこと、開発した医師自身が、「私たちの時代の……本当に奇跡的な薬」と呼んでいて、「L-DOPAの効果についての報告がなされると、薬を投与する立場の医師とそれを服用する患者の双方が熱狂に包まれた」ことが述べられています。
「症例1 フランシス・D」では、L-DOPAの投薬によって目覚め、「副作用」が出たために、薬を突然投与されなくなった彼女が、「私はまっすぐ垂直に離陸して、L-DOPAに乗ってどんどん高く、信じられないくらいの高さまで登りました。上空何百万マイルもの、この世のてっぺんにいるような気分だったんです……。そうしていると、わたしを押し上げていた力がなくなってしまい、墜落しました。真っ逆さまに地面に落ちただけではなく、地の底に向かって突き刺さり、今度は地中何百万マイルまで潜っていったんです」と語っていることを紹介しています。
「症例2 マグダ・B」では、L-DOPAを投与された彼女が、日記に鉛筆で、「最後に字を書いてから20年ぶり。自分の名前をどう書くのかさえほとんど忘れていた」と記したことが紹介されています。そして、健康状態も全般によかった彼女が、「ある日突然、自分は死ぬと感じた」ため、娘たちに電話をかけ、「今日会いに来てちょうだい。明日はないんだから……。そうじゃなくて、気分はとてもいいのよ……。悪いことは何もないの。でも、今夜眠ったら死ぬことがわかっているのよ」と話し、病棟を回って、皆と握手し、「さようなら」と言った後、「ベッドに入り、その夜のうちに亡くなった」ことが述べられています。
「症例3 ローズ・R」では、43年ぶりに「目覚め」た彼女について、「43年後の今も、彼女はまだ1926年に『いる』のだろうか? 1926年が彼女の『現在』なのだろうか?」と述べ、「まるでL-DOPAが彼女を数日間だけ『妨害から解放』して、彼女には理解することも耐えることもできない時間差を突きつけたようだった」と述べています。
「症例5 ヘスター・Y」では、「20年以上もの間全く動くことも感情を表に出すこともできなかった彼女は、今や水面に浮き上がり、深い水の中から放たれたコルクのように勢いよく空中に飛び出した。そして、長年彼女を捕らえて離さなかった鎖を引きちぎったのだ。そんな彼女を見て私が思い浮かべたのは、牢獄から解き放たれた囚人や、学校がひけた子供、冬眠後の春の目覚め、眠りから覚めた眠りの森の美女だった」と述べています。そして、「病気の重さ、長さ、その奇妙さ、L-DOPAへの不自然な反応、そして何年にもわたって過ごしている陰鬱な病院――数知れない障害にもかかわらず、へスターは、4年前には考えることすらできなかった方法で、確かに目覚め、現実に戻ってきたのである」と述べています。
「症例18 ジョージ・W」では、彼が、「すべてが順調なときは完璧なのですが、自分が綱渡りをしているか、自分の針の上でまっすぐバランスをとる画鋲になったような気分です」と語っていることについて、「多くの患者が、そうしたイメージを使って、安定した状態が減っていき、ちょっとしたことで興奮する傾向が強まっていく、不安定な状態を説明している」と述べています。
「症例20 レナード・L」では、L-DOPAを投与する以前の彼が、「檻に入れられて、何もかも取り上げられたよう。リルケの『豹』のように」と自らを語り、「ここは人間の動物園だ」と表現していることを紹介しています。そして、L-DOPA投与後、「30年間無縁だった肉体的な運動、活力、幸福感を味わうようになった。することなすことすべてが彼を喜ばせた。レナードはまるで悪夢や重い病気から回復し、あるいは墓場や牢獄から解放されて、突然自分の周りのすべてのものの存在と美しさに陶然としている人のようだった」と紹介しています。しかし、彼は「数多くの『目覚め』と特定の興奮を経験」し、「それはとくに請求さや突進、反復行動、衝動脅迫、連想作用として表れた。非常に早口で話すようになり、言葉や文章を何度も繰り返す(同語反復症)ようになった。常に違うものに視線を奪われ続け、しかも自分の意思でそらすことができなくなった。あえいだり拍手をしたりする衝動に駆られ、一度そのどちらかが始まると自分で止めることはできず、ますます激しさを増しながら同じ動きを続け、最後には硬直するか凍り付いてしまう」などの症状が現れるようになったことが述べられています。症状はさらに悪化し、「その貪欲な性的欲求を問題視した病院」によって「処罰部屋」へと移された彼は、「拷問、死、性器切断といった妄想に取り付かれ」、「病室は『たくさんの蛇』の巣だとか、彼の腹の中に『縄』があって自分を縛り上げようとしているとか、病室の外に絞首台の用意が整っていて、自分の『原罪』によって当然受けなければならない刑の執行がすぐにも行われるなどというもの」であったことが紹介されています。L-DOPAの投与をストップし、「冷静さ」と穏やかさを取り戻した彼は、「最初はL-DOPAが世界で最も素晴らしい薬に思えました。そして、僕にそんな生命の水を与えてくれた先生を誉めたたえました。それから、何もかもが悪い方へ向かいだすと、あの薬は世界で最悪のもの、飲んだ人を地獄へ引きずりこむ毒薬ではないと思いました。それで、先生を呪ったんです。僕は混乱していました。恐れと希望、憎しみと愛という感情の間で……。今では、すべてを受け入れることができます。あの体験は素晴らしく、恐ろしく、劇的で、笑えるものでした。そして最後には寂しく、それだけが残ったんです。自分だけのときが一番いい――もう薬はいりません。この3年間で、色々なことを学びました。これまでずっと自分の周りに築いていた壁を突き破ることができました。僕はこれからも自分自身でい続けます。だから先生はL-DOPAをしまっておいてください」と語っています。
「展望」では、「患者にL-DOPAを投与するに当たり、最初に目にする」のが、
・目覚め:病気からの浮上
であり、その後、
・試練:いくつもの問題
が生じ、最後に、
・順応:ある種の「理解」に到達するかあるいは自分が抱える問題との間のバランスがとれるようになる
という、「目覚め―試練―順応」という状況の連続から、「L-DOPAの結果について最高の議論を戦わせることができる」と述べています。
「目覚め」では、「パーキンソン症候群の患者のほとんどすべてが、L-DOPAを投与すると何らかの形で『目覚める』」とした上で、「一般に――常にではないが――目覚めに要する時間は症状の重い患者の方が早く、おそらく『内側に向けて爆発した』(あるいは『ブラックホール』に吸い込まれた)パーキンソン症状とカタトニーを併発したヘスター・Yのような患者は、一瞬にして目覚めるといってよいだろう」と述べ、「さらに、脳炎後遺症の患者は一般にL-DOPAに対して一層敏感であり、ほんのわずかな投与量、つまり『通常の』パーキンソン病患者に要するよりもはるかに少量で目覚める」としています。
そして、「目覚めによって、患者の意識に、そして自己や世の中との関係のあらゆるところに変化が生じることになる」、「患者はそれまで感じていた病気の存在と世界の不在とを忘れ、病気がなくなり世界が自分の周りに存在すると感じるようになる」と述べています。
「試練」では、「L-DOPAを投与したどの患者にも、ある期間は一点の曇りもない素晴らしい健康がよみがえる。だが、遅かれ早かれ、どのような形であれ、ほとんどの患者に問題が起こる。何か月間、何年間も良好な反応を続けた後で、軽い問題が起こる患者もいれば、何日間かは――一生の長さに比べればほんの一瞬――良好だが、すぐに思い苦痛の中に沈んでしまう患者もいる」と述べています。
そして、「より深く充実した『目覚め』の概念」として、「L-DOPAの『副作用』とは、その人に備わっているかもしれない性質や内なる存在の潜在的能力のすべてを、表舞台に引き出すことがと見なすべき」であると述べています。
「順応」では、「この本で取り上げた患者の何人か」は、「とうとう病気との間に『満足の行く』折り合いをつけることができず、L-DOPAの投与を完全にやめるか、あるいは悲惨な生活を受け容れるかのどちらかの選択しかなかった」が、「本書に登場する他の患者、そしてL-DOPAを投与された大多数の『通常の』パーキンソン病患者」が、「おおむね満足のいく折り合いをつけることができるようになった」と述べ、こうした患者が、「L-DOPAの効果がしだいに減っていき、長い時間をかけてある種の安定期に到達した」点で共通しているが、「この安定期には長所と短所の両方」があり、「ほぼ安定して満足のいく機能は得られても、完全な『目覚め』あるいは『副作用』の劇的さは失われている」と述べています。
本書は、L-DOPAという「奇跡の薬」を通じて、人間の内面、病気とは何かについて考えさせてくれる一冊です。
■ 個人的な視点から
映画見ない人なので知りませんでしたが、20年位前に映画化されているようです。当時、映画見て泣いた人に原作をお奨めできるかどうかはわかりませんが、他の一連のサックス作品の端緒となる作品だけあって、いい作品です。
■ どんな人にオススメ?
・生きていることが「つまらない」と思える人。
■ 関連しそうな本
オリヴァー サックス (著), 吉田 利子 (翻訳) 『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』 2006年03月26日
オリバー サックス 『妻を帽子とまちがえた男』 2006年10月15日
スーザン シャラー 『言葉のない世界に生きた男』 2007年03月24日
V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー (著), 山下 篤子 (翻訳) 『脳のなかの幽霊』 2006年09月03日
アリス・W・フラハティ 『書きたがる脳 言語と創造性の科学』 2006年09月23日
ロバート・デ・ニーロ 『レナードの朝』
■ 百夜百音
【しあわせって何だっけ】 明石家さんま オリジナル盤発売: 1989
ポン酢醤油はキッコーマン、ということで千葉に縁が深いかどうかはわかりませんが……。
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2007年07月08日
歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化
■ 書籍情報
【歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化】(#899)
スティーヴン ミズン (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
価格: ¥2310 (税込)
早川書房(2006/06)
本書は、「最も不思議で驚嘆すべき、かつもっとも軽んじられている人間の特質」である、「人間がこれほどまでに音楽を作り、音楽に耳を傾けずにいられない理由について、持論を展開」しているものです。
第1章「音楽の謎」では、「音楽の起源は言語の起源を同程度の関心を寄せられてしかるべき」ものとした上で、「近年の活発な研究に関わらず、言語の進化についての理解はわずかしか進んでいない」理由として、「ひとるには化石や考古学的な証拠をなおざりにしているからであり、一つには音楽をなおざりにしているからである」と指摘しています。
第2章「チーズケーキ以上?」では、言語と音楽について、「まず議論の余地のない類似点を挙げた後、言語の三大特徴――シンボル、文法、情報伝達――が音楽にも見られるかどうかを検討」しています。
そして、言語と音楽が、
・話し言葉や歌のような音声での表現
・手話や踊りのような身振りでの表現
・どちらも書きとめることができる
という3つの表現様式を共有していることを解説しています。さらに、「言語も音楽も階層構造をもち、音要素(単語や楽音)が組み合わさってフレーズ(句や音句)になり、それがさらに組み合わさって言語事象や音楽事象になる」という「組み合わせシステム」であり、「再帰性のある規則に依存し、有限の要素群から無限の表出ができる」点を指摘しています。また、「どちらのコミュニケーション体系にも身振りや体の動きがある」ことを挙げ、両者が、「"認知の基本要素"を共有している可能性がある」ことを指摘しています。
一方で、両者の違いとして、言語は、「シンボルからなり、文法規則によって完全な意味を与えられて情報を伝達する」「構成的」なものであるのに対し、「音楽のフレーズや、身振り、身体言語は全体的」である点を挙げています。
第3章「言語なき音楽」では、失語症の症例を挙げ、「音楽と言語



【愛と誠 】
【逆境ナイン 】