2008年10月10日

江戸の養生所

■ 書籍情報

江戸の養生所   【江戸の養生所】(#1359)

  安藤 優一郎
  価格: ¥756 (税込)
  PHP研究所(2005/1/18)

 本書は、「養生所という江戸の窓を通して、江戸庶民の医療について」明らかにするものです。
 プロローグ「江戸の養生」では、「養生所が取り上げられる場合、その多くが、開設された享保期(1716~1736)という時代設定のためか、いわば養生所が明るく描写されているという特徴がある」が、「本書で見ていく養生所の施療活動とは、従来の養生所のイメージを壊すもの」であり、「養生所医師の不熱心な医療行為、養生所所員(看病中間・賄中間)による入所患者への虐待行為、物品の横領行為、養生所を管轄する町奉行所役人の職務怠慢など、開設から1世紀を経過した頃には、その医療環境は最悪の状態を迎える」と述べています。
 そして、「養生所の施療活動とは、江戸の医療環境を映し出す鏡のようなもの」であるとして、「養生所という江戸の窓を通して、江戸の人々の医療環境、公的施療のありさまを覗いてみよう」と述べています。
 第1章「大都会・江戸の医療事情」では、「江戸のように、コミュニティ機能が低下して相互扶助の基盤に欠けている地域委では、公的な救済システムが不可欠であった」として、「この点を踏まえてこそ、江戸の町に養生所が設置され、明治まで百五十年もの長きにわたって施療活動を展開し、幕府もその改善のため、何度となく改革を試みた理由が理解できる」と述べています。
 第2章「町奉行大岡忠相と小石川養生所」では、享保7年(1722)正月21日に、麹町の小川笙船という町医者が、施薬院の設置を求めた意見書を目安箱に提出したと述べ、そこからは、「地域での相互扶助では対処できないため、幕府などによる公的な救済に頼らざるを獲ない社会的な背景」が読みとれるとしています。
 そして、目安箱の投書から約1年を経て、施薬院が小石川御薬園の地に開所となったが、直前にその名称が、当時、一般庶民の間にまで広く行き渡っていた「養生」を用いた「養生所」に変更されたと述べています。
 第3章「養生所の入所生活」では、「所内に居住し、医師の診療などを監督」した養生所の「肝煎職」について、「施薬院の設置を建議し、養生所開所にも深く関わった小川笙船の子孫が代々世襲した」と述べています。
 また、養生所の医療活動について、「幕医から選ばれた医師・見習医師そして肝煎(小川氏)、入所者の療養を助け、身の回りの生活を補助する看病中間(女看病人)、食事の世話をする賄中間、所内の事務を取り仕切る養生所見廻り与力・同心・小普請組同心によって支えられていた」ことを解説しています。
 そして、患者は「男性が圧倒的であった」理由として、「男性の独身者が多い江戸の都市社会の特徴をまさに反映している」とした上で、「瘡毒(梅毒)患者が多かったことは間違いない」と述べています。
 第4章「寛政の医療改革──養生所と医学館・町会所」では、町会所の窮民救済について、「個人の疾病にせよ、流行病にせよ、病気と深い関わり合いを持って実施されていた」と述べ、「この関係が養生所の施療事業にも大きな影響を与えていた」と述べています。
 第5章「養生所の病巣──劣悪な療養環境」では、「文政4年前後を境に明確となった入所希望者数減少の流れは、その後も止まらなかった。むしろ、その流れはますます顕著になり、入所者数が大きく定員割れする状態に陥った」と述べ、幕府当局は、「養生所を管轄する町奉行書を通さずに、密かに養生所の施療活動に関する情報」を集め、「自体を深刻視した幕府は、養生所改革を決意」したと述べています。
 そして、「医師の投薬量の少なさ」と質の悪さについては、「支給されていた薬種料の少なさに大きな原因があった」としています。
 また、養生所の入所に際しては、「いつの頃からか、入所者側には干肴(魚の干物)を100枚持参する慣習」があったが、「入所中、身の回りの世話をする看病中間の側では、代わりに銭400文を持ってくるよう求めていた」と述べ、「入所者はその立場の弱さから、泣く泣く看病中間に干肴代な様々な形で金銭を差し出したり、役掛りから食べ物や煎茶を買っているのが実状」であり、「その余裕のない者は、看病中間や役掛りから有形無形の虐待を受けて、いたたまれなくなり、退所に追い込まれてしまう」と述べ、入所希望者が激減した理由の一つとして、「ある程度の金銭的余裕がないと入所できない施設に変質していた」ことを挙げています。
 このほか、入所者に支給されるはずの物品を横領しては売り払って自分の所得にしていたことを挙げ、「一連の不正行為により、中間等が得た徳分は、年額で10両から15~16両にも及んだらしく、それは給金の5倍から10倍近くにもあたっていた」と解説しています。
 第6章「療養所改革の挫折」では、「幕府が何度となく改革を試みたにもかかわらず、養生所の施療活動は改善されなかった」理由として、
(1)医師の割の合わない診療報酬の問題
(2)看病中間らの不正行為に対する町奉行所の姿勢:人の嫌がる仕事の性格上、後任がいなくなってしまうことを恐れた。
(3)与力・同心の「不浄之場所」という養生所への認識
等の点を挙げています。
 そして、「天保改革のとき、養生所の要とも言うべき医師の問題に、ようやくメスが入れられたが、中間らの一連の不正行為や町奉行所与力・同心の勤務態度は結局改まらず、今回の改革もかけ声だけに終わってしまった」と述べています。
 エピローグ「養生所の遺産」では、養生所の活動は「微々たるもの」ではあったが、「数字以上のものを、江戸の社会にもたらしたという側面も無視できない」として、養生所も養生の文化を具現化したものとして、「養生の文化(知)を浸透させる大きな役割を果たしていたのではなかろうか」と述べています。
 著者は、「近代医学の限界性が露呈した今日、江戸以来の養生の文化が再評価されているが、江戸時代、養生所はそのコンセプトを具現化するものとして、養生の文化、養生の知の普及に大きく貢献していた」と述べています。
 本書は、養生文化の象徴としての「養生所」のあり方を今に伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「養生所」と聞くと心安らかに健康的な暮らしをイメージしてしまいますが、ただでさえ病に重ねて、職員による虐待やピンハネなど、まるで『カイジ』の裏社会を想像してしまいました。とは言え、看護婦さんに対する「心づけ」があるかないかで対応が違うという話は今でも聞く話ですし、福祉施設での虐待なども考えると、決して江戸時代の話、過去の話ではなく、今でも同じ問題は温存されているような気がします。


■ どんな人にオススメ?

・「赤ひげ」とか好きな人。


■ 関連しそうな本

 山本 周五郎 『赤ひげ診療譚』
 吉原 健一郎 『江戸の町役人』 2008年01月04日
 田中 圭一 『百姓の江戸時代』 2007年09月16日
 大久保 洋子 『江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓』 2007年11月18日
 岡崎 哲二 『江戸の市場経済―歴史制度分析からみた株仲間』 2006年01月19日
 速水 融 『歴史人口学で見た日本』 2007年12月26日


■ 百夜百マンガ

魔獣戦線【魔獣戦線 】

 石川賢ワールド炸裂ということで今でも根強いファンが多い作品。ストーリー的には掲載誌の都合もあって色々あるのですが、永井豪を含めてこの手の作品は、客観的にストーリーを見たりしてはいけません。とにかくその場の盛り上がりに身をゆだねるのが大切です。


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2008年10月08日

大正期の家庭生活

■ 書籍情報

大正期の家庭生活   【大正期の家庭生活】(#1357)

  湯沢 雍彦
  価格: ¥2100 (税込)
  クレス出版(2008/08)

 本書は、「今日に続く『生活の近代化』が本当に始まった」時代であり、また、「農漁村と都市の下層社会では、江戸時代さながらの古いしきたりと苦しい労働が続き、小学校に通うのさえ容易でない家庭が少なくない」時代でもあり、「新旧と和洋と苦楽の二重性が、大きく混在していた」大正時代の家庭生活に関するものです。
 第1章「ある茶作り農村の大正15年間」では、旧静岡縣志太郡朝比奈村を舞台に、「大正期における茶生産農家の生活を明らかに」しています。
 そして、お嫁さんは、「午前4時前に起床して朝ごはんの支度を」始めねばならず、4月下旬から8月のお茶の収穫期には、3時前には起床しなければならなかったこと、食事は一日に4回あり、「よじき」と呼ばれ、
・朝ご飯:朝5時前(4時前)
・昼じゃ:9時頃、お弁当
・ようじゃ、ちゃづけ、ゆうじゃ:午後1時から2時頃、お弁当(ご飯、梅干、漬物など)
・夕ご飯;午後6時から7時、ご飯、味噌汁、菜っ葉、漬物、週に1度くらいの魚や肉など
の4回であったことを開設しています。
 また、子どもたちの楽しみは、「お正月やお祭り、そしてお葬式だった」と述べています。
 第2章「家庭の中の家族の顔ぶれ」では、大正時代について、「漠然と、『祖父母と息子夫婦とその子が同居する直系の3世代家族が普通の形で、数の上でも大多数』との思い込みが多い」ようだが、「どこの家も大家族だという思い込みは、結論として正しくない」として、「平均世帯人員はのちの昭和15年になっても4.99人にとどまっていた」と述べています。
 そして、「子は平均5人も生まれていた」ので、「このうち長男とその妻になる女性もしくは女子と婿の夫婦は同居して直系家族を作ったが、他の子どもは結婚すると親がいない家庭になった」として、「単独世帯を除けば、核家族の形をとる世帯は51.5%で、直系家族の形をとる拡大家族世帯42.0%よりずっと多いことになった。これまでの常識を覆したことになる」と述べています。
 第3章「出産と堕胎・避妊」では、「総じて大正の15年間は、子どもがたくさん生まれた時代だった」とした上で、「この頃の結婚は、何よりもあととりとなり老後の面倒を見てくれる子どもをもうけることが第一の目標」であり、「結婚後2年たっても妊娠の兆しがなく、3年たっても生まれないとなると、離婚の危機に直面した」と述べています。
 また、「出産する夫婦は多産になりやすく、それはたちまち生活難につながった」として、「妻たちの多くは、古い時代から堕胎や間引きを行うことを余儀なくされてきた」と述べ、「とくに堕胎は都会に多く、間引きは農村に多いという説」を紹介しています。
 第4章「家庭と地域のしつけ」では、農家では、親が子どもに、
「仕事上手の話しべた」
「働く水車に氷は張らぬ」
「朝寝は病、昼寝は貧乏」
「上を見てもきりがない、下を見てもきりがない」
「儲けることより、使わぬこと」
「米一粒にも、手が百遍」
「竹のくずも、3年に一度は役に立つ」
などの格言を繰り返し、繰り返し言って身につけていき、「職業人として訓練」したと述べています。
 第5章「小学校教育の明暗」では、「学校へ行けば家事・家業の手伝いから解放され、同じ年頃の友達と遊べるから、普通の子には通学は楽しみだった」が、「一見のどかな大正時代の小学校にも問題はいろいろあった」として、実際に学校へ通えない児童がかなりいたことなどを挙げています。
 第6章「青年時代と結婚まで」では、「大多数の一般人は、小学校の尋常科を卒業した12歳か、高等科を出た14歳で仕事に就くのが当たり前だった」と述べ、また、「よほど重い病気か精神障害者でもない限り、男は20歳から25歳の頃までに、女は16歳から22歳くらいまでに一度は結婚した。女は、何よりも暮らしの糧を得るために夫が必要であり、男は家事万般をゆだね、性欲を満たして跡継ぎを得るために、何人も結婚することに疑いをもつ者はいなかった」と述べています。
 第7章「身の上相談にみる家族関係」では、「身の上相談の担当記者名(歌人:国文学者 窪田空穂)が特定され、かつ『創作』の疑いはきわめて薄いことがその日記などから立証できる事例を中心に、大正4年から9年の身の上相談の一部を紹介」しています。
 そして、「大正期の日本社会の大勢は、自由恋愛、自由結婚を『ご法度』として捉えていた」ので、相談のあった「これらの結婚は皆仲介婚であった」と述べています。
 第8章「衣服生活の変わりぶり」では、東京銀座などでは、「男の洋服はかなり日常化していた」が、「家ではもっぱら和服を着ることに」なっていたと述べた上で、「家庭生活が主な女の服装は、変わる必然性がなく和服が中心であった」と述べています。
 そして、「関東大震災がもたらした画期的な変化」として、大正12年末から発売された、「アッパッパ」を挙げ、「とにかく安価な木綿地で、下着も要らず簡単に着られ、素足に下駄履きでも出かけられる服装は、これまでの窮屈で高価な洋服とはまったく違った庶民的なものとして広く受け入れられた。和服から洋服へ、まさに橋渡し役を果たしたものといえる」と述べています。
 第9章「都市家庭の栄養と食事」では、農村の自動の弁当の副食物が、「梅干のみであったり、漬物のみであったりというのが普通であった」のに対し、「地主階級の子は塩鮭かたらこ」が付き、「東京下町の子どもの弁当のおかずは塩辛いこぶの佃煮か、干たら、塩鮭といった物。ご飯は海苔弁。ご飯の上に海苔を載せ、その上にご飯をおく。鰹節を入れて、しょうゆをかけて出来上がり。夏は梅干をご飯の中に一つ入れる」と述べています。
 また、「ちゃぶ台への転換が進んだのが、水道の普及した、東京で言えば関東大震災後であった」ことを紹介し、「ちゃぶ台で一斉に食事をするようになると"いただきます""ごちそうさま"の食事の挨拶が出てきた」と述べています。
 第10章「地方農山村の風土と食物」では、富山県の海辺の漁民の食事として、「朝まま(朝食)」は、「とはんに倍量の水を加え、ひと煮立ち」させた「ごはんの湯づけ」に、カワハギの干物と梅干かたくあんの漬物、「ひるま(昼飯)」は、ご飯か、「ごはんに同量のおからを混ぜ火を通」した「おからまま」に、魚の味噌汁、漬物、「夕はん(夕飯)」は、ご飯、身のしまった魚の煮物や焼き物、味噌汁であったと紹介しています。
 また、長野県の例として、「山の動物、川魚、昆虫類も食用する。厳冬期の凍み豆腐、凍み大根など凍結乾燥は気候風土を生かし、あるだけの素材を巧みに扱い、季節毎に食事を整える手法が、母から娘に、姑から嫁に暮らしの中でしつけられ昭和初期まで変わらず受け継がれた」と述べています。
 著者は、「都市部を除く農漁村の対象の食生活は、明治期からさらに昭和初期に及んでも変わらなかった」として、「米かばい、飯かばい」の「かばい」は「大切にしまっておく」を意味するもので、「混ぜる」の意味の「かてる」の「かて飯」は、「米の食べ延ばしに、古来からの雑穀・山菜、野草、海草・栽培野菜の大根、大根葉、かぶ・渡来の芋、藷を米に揉てた(まぜた)」と述べています。
 第11章「大正期における老いの意味」では、「若いときは一生懸命働き、老人になったら楽隠居をして、孫に囲まれて日向ぼっこ」というのが、「農家に生きる人びとの理想的な生涯の過し方」であったが、「三世代が食うに困らぬほどの家産を持つ農家は少数派であり、『隠居』ののちも働きづめで『楽』など望むべくもなかったのが当時の現実であった」と述べています。
 また、「人外れに」長生きすることは、「その時代の人々が心に描いていたライフスタイルから『外れて』しまうことを意味」し、その結果、「思いのよらない経験をすることになる」と述べています。
 第12章「家族の楽しみごと」では、「実際に、家族単位の楽しみごとが見られるようになるのが大正時代」であると述べた上で、『家族の和楽』が注目される背景の一つとして、「妾の存在を否定した、明治15年からの新しい刑法の施行によって、家族のあり方が意識されたこと」を挙げ、「のちの明治31年民法と相俟って、日本において初めて、法律上の一夫一婦制が確立した」が、慣習的には、「当時実力ある男にとって妾を持つことはごく当たり前」であったと述べています。
 また、「家族が団欒できる状況」は、「主に上流階層の限られた人たちにしかなく、農村で大部分を占めていた貧困小作農や、明治末から大正期にかけて増加してきた労働者層においては、娯楽どころか生活自体が大変で、大正時代はそういった労働者の生活問題が顕在化した時期でもあった」と述べています。
 第14章「都市の住宅・農村の住宅」では、「大正期の都市の住宅改良の要点」として、「和洋折衷」「家族本位」「プライバシーの尊重」「主婦労働の軽減」の4点を挙げ、「そのほう画は明治期にあった」と述べています。
 また、農村住宅の間取りについて、「全国的にほぼ共通であった」として、
・土間と床張りの部分からなっていること
・床張りの部分には4つの部屋が「田の字型」に配置されていること
を挙げ、「大きい家ではさらに2部屋が加わって『サの字型』になることもあった」と述べています。
 そして、「細民層と貧民層を除いて、中間に位置する6~7割の家族は、結局、木造の平屋か2階建ての住宅に住んでいた」が、ほとんどが、「3間程度の狭い借家であった」と述べています。
 第15章「女性のくらしと家事労働」では、「日本における主婦の誕生は、日露戦争、第一次大戦後の産業構造の変化のなかで新たに生まれたサラリーマン層においてであり、職業人口比率で言えば大正末でさえ全人口の1割にも満たない」とした上で、主婦が誕生する条件として、
(1)職住分離の労働形態
(2)性別役割分業
(3)夫がその収入だけで生活費をまかなえる給与を得ていること
の3点を挙げ、「わが国でこうした全ての条件をクリアした初めての社会階層が、大正期のサラリーマン層であった」と述べています。
 第17章「子ども文化の時代」では、大正期に、「子どもの名づけ方に大きな変化が見られるようになった」として、「それまでは、男の子なら、~吉、~蔵、~郎、~助、~作、~治といった名を、女の子は、イネ、ハナ、タケ、ウメのようなかな2字の名をつけられた子どもが多かった」が、「男子では『男、夫、雄、彦』などを末尾につけ、女子では『子』をつける名が多くなった」と述べ、「このような命名法の変化は、子どもに対する親の考え方が変わってきたこと」を示し、「子どもを一個の人間として見ようとする考えが働いている」戸述べています。
 本書は、明治と大正にはさまれ、「大正デモクラシー」「関東大震災」「モボ・モガ」などの断片的なイメージしか持ちにくい、大正という時代のリアルな姿の断片を伝えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 山田芳裕の初期の作品で『大正野郎』というのがありまして、主人公は芥川龍之介にあこがれて、大正時代の風俗を真似したがるという青年ですが、この作品にも表れているように、大正時代と言えば文学の世界と最先端の風俗のイメージが強いようです。


■ どんな人にオススメ?

・明治と昭和をつなぐ激動の時代を、生活面から見てみたい人。


■ 関連しそうな本

 山田 芳裕 『山田芳裕傑作集』 
 石川文化事業財団お茶の水図書館 『カラー復刻『主婦之友』大正期総目次』 
 近代女性文化史研究会 『大正期の女性雑誌』 
 山崎 祐子 『明治・大正商家の暮らし』 
 下川 耿史, 家庭総合研究会 『明治・大正家庭史年表―1868‐1925』 
 桂 英澄 『小学生が見た大正末期・昭和のはじめ―綴方教育の記録から』 


■ 百夜百マンガ

おジャ魔女どれみ【おジャ魔女どれみ 】

 原作の「東堂いづみ」さんが、プリキュアと同じことにびっくりしたのですが、これは、「東映動画大泉スタジオ」の略で、架空の人物だということを初めて知りました。千葉テレビで再放送中です。


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2008年09月27日

わが子に「お金」をどう教えるか

■ 書籍情報

わが子に「お金」をどう教えるか   【わが子に「お金」をどう教えるか】(#1346)

  篠上 芳光
  価格: ¥798 (税込)
  中央公論新社(2008/03)

 本書は、その使い方で、「『間違った万能感』を持つこともあれば、『我慢すること』を学ぶことも」ある「お金」について、「本当に大切なことは、お金に対してどのように向き合っていけばよいのかというような、お金についてのもっと本質なこと、大げさに言えば親が考えるお金についての哲学を子どもたちに教えることではないか」を論じたものです。
 第1章「子供は親の職業、年収を選べない」では、歯科医が、「歯並びが悪いのは、親の責任だよね……」などと言い切ってしまうような、「拝金主義の横行で、収入の少ない親の元に生まれてきた子供たちを差別するような時代の空気を感じる」と述べています。
 一方で、「社会的に親の地位が高く、経済的にも恵まれている家庭ほど、他人が救いの手を差し伸べることが困難」であり、「それ以前に、外見が良いだけに、周囲が気づかないことも多い」と述べています。
 第2章「『お金で買えないもの』って何?」では、元ライブドア社長の堀江貴文氏の「お金で買えないものなんかないんじゃないですか?」という独り歩きした言葉を取り上げ、「知識や経験、そして学歴、成績も全て、お金で買うことが可能なもの」だが、「人間の第六感、鋭い勘といったものは、決してお金では買えません。そして、それを磨いておかないと大損してしまうことも」あると述べています。
 また、「多くの人々から尊敬され、社会に貢献するような方々は、間違いなく子供時代に『将来の成功に繋がるような、体験やエピソード』が豊富に」あるとして、「逆に考えると、『子ども時代につまらない人間は、大人になってもつまらない人間にしかなれない」と述べています。
 さらに、「子どもを溺愛することは、虐待することの対極の行為のように思われるかも」知れないが、「溺愛も、子どもの長い人生においては、虐待に繋がることもあるのだということを実感」すると語っています。
 第3章「子どもたちのお金に関する疑問に答える」では、立教大学名誉教授・音楽学者の皆川達夫先生について、「上から下までブランド物で固めたいやな奴」と思われることもあるが、「私は、仮にも音楽の教師です。自分自身で、この音楽は本物だと見分ける感性があるから教壇に立つことができるのです。ブランド名だけでものを判断することは、ホンモノを自分で見分ける力がないということです」と語ったことを紹介しています。
 また、著者が、子どもたちに、「勉強はとても楽なことなんだよ。先生に教えられたことが全部できれば100点満点だね。でも、大人になって、社会に出たらどうだろう」、「自分で考え、自分で行動する。こういう人間にならなくては、これからの時代には通用しない」と語っていることを紹介しています。
 さらに、東京・木場の材木問屋や鶯谷の家具店の親御さんたちが、「商売が先行きダメになることをしっかりと子どもたちに教えていた」として、「大学までは、しっかりと面倒を見る。しかし、親ができるのはそこまでだ。あとは、自分の力で生きていきなさい」と語っていることを紹介しています。
 第4章「お金の教育で自立した賢い子どもに育てる」では、「どれだけたくさんのお金を持っていても、どれだけ高価なブランド品で外見を飾っていても、食事のあとでその人の品格がわかる」と語っています。
 そして、「一代で財産を築いた家庭に比べ、代々、ご先祖様から受け継いだ資産を守り続けているご家庭というものは、一見するととても質素な生活をされていらっしゃる方が多い」として、江戸時代から続く商家には、「老舗の身代を受け継ぎながら、贅沢などをして身上を潰すのは、盗人の罪よりも100倍重い罪を犯したことになる」という戒めの言葉があると述べています。
 本書は、なかなか正面きって子どもに語る機会が少ない、「お金」について、考えるヒントを与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 「子どもは親の鏡」という言葉がありますが、親の「品性」を一番写すのはお金の使い方と食べ物の食べ方なのかもしれません。恐ろしいものです。


■ どんな人にオススメ?

・ご飯の食べ方に自信のない人。


■ 関連しそうな本

 篠上 芳光 『絶対エリート主義―なぜ、有名中学・高校に入れるべきなのか』
 篠上 芳光 『中学受験 合格の決め手は「家庭内文化力」だ!』
 中島 隆信 『子どもをナメるな―賢い消費者をつくる教育』 2008年01月29日


■ 百夜百音

BEST 1997-2001【BEST 1997-2001】 小野リサ オリジナル盤発売: 2002

 ガットギターのテンションの緩い感じの音は、ボサノバには欠かせません。
 ちなみに、「ガット」とは「内臓」のこと、「内臓のある奴だ」、「内臓ポーズ」、「内臓石松」など、様々な訳が考えられますが、この間「スーパーガッツ」という看板を見ました。モツ専門店でしょうか?

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2008年09月14日

「満洲」経験の社会学―植民地の記憶のかたち

■ 書籍情報

「満洲」経験の社会学―植民地の記憶のかたち   【「満洲」経験の社会学―植民地の記憶のかたち】(#1333)

  坂部 晶子
  価格: ¥2415 (税込)
  世界思想社教学社(2008/03)

 本書は、「『満洲国』で暮らした人びと、植民した側である日本人と、植民された側である中国人双方の、当事者たちの植民地経験を題材として取り上げ」、
(1)当事者の記憶を通して、植民地における人々の生活世界を再構成すること。
(2)これらの当事者たちが、それぞれ尾の植民地経験をどう位置づけているのかについて、また彼らにとってその経験がどのような影響を与えたのかについて考察していく。
(3)これらの分析を通して、植民者─被植民者のそれぞれにおける植民地の記憶の形を取り出し、比較考察していく。
の3点をもくろんだと述べています。
 第1章「支配のためのレトリックの行方」では、「日本の持った植民地経験の一つのケーススタディとして、日本人の『満洲』への植民地経験」をと仕上げ、「なかでも実際に『満洲』へ渡っていきそこで暮らした人びとが、戦後日本へ引き上げてきた後に、その『満洲』での経験をどのように記憶し、表象しているのかを分析していく」と述べています。
 そして、植民者自身による「満洲」経験の語りについて、
(1)「満洲」当地の当事者たちによる回顧集という形態をとるもの。
(2)マスター・ナラティヴを志向するような語りから区別される、植民地の日常生活を表現する語り。
(3)自らの植民地経験の構造的定位と、植民地の日常性への回顧の狭間で揺れ動くさまを示す一つの記憶として、文芸同人誌『作文』における「満洲」経験の語りの変遷をみる。
の3種類に区分しています。
 第2章「喪失した故郷へのノスタルジア」では、「『満洲』を経験した日本人が表出する植民地の日常性の語りに焦点」を当てるとしています。
 また、「満洲」の同窓会の活動が、「戦後日本社会での『生活のための共同性』をもつものではなく、また体外的なアピール性の強い『記録のための共同性』を示すものでもない」として、「一言で言えば、『満洲』時代の彼らの日常生活の思いでそのものを語り合うための場所であり、そこで培われる絆は『想起のための共同性』を示すといえるのではないか」と述べています。
 第3章「慰霊というコメモレイション」では、「農村部への移住者である『満洲』移民の語り」を取り上げています。
 そして、「開拓団の慰霊碑が、『満洲』開拓の偉業を記念し、ナショナルな語りへと収束していく傾向」を挙げています。
 また、満洲からの「逃避行」の経験を語ってくれた引揚げ者の「語り」の中から、
(1)逃避行の最中に多くの開拓団員を見殺しにしてきたこと、それをその家族に伝えることの困難。
(2)中国人と結婚した、中国の家庭に入ったということを村へ伝えることの困難。
などの点を挙げています。
 第4章「抵抗と被害の記憶のコメモレイション」では、かつての「満洲国」の領土の大部分を占める現在の中華人民共和国東北地区において、「当時の植民地経験がどのように記憶され、表象されているのかについて、植民地経験のコメモレイション、記念化の様式を通してみていく」と述べています。
 著者は、「中国東北地区における植民地期にかんするコメモレイションのあり方を取り上げ、その形式の変遷を実証的に追いかけてきたのは、そこに満洲国に関する植民された側の人々にとっての集合的記憶の一端が示されていると考えるから」だと述べています。
 第5章「被害の記憶の聞きとり実践」では、「中国社会における『満洲国』にかんする歴史の記述と、それぞれの当事者の記憶とのかかわりについて」考えるとしています。
 そして、「『満洲国』という植民地支配の歴史プロセスとめぐって、植民された側である中国東北社会における植民地経験の記憶を主題とする」と述べています。
 また、「いくつかの回想や証言から『満洲国』当時の日本人にとっての中国人労働者増を再構成してみれば、それは植民地に暮らした日本人にとって日常的に付き合いのあった個人というよりも、むしろ充足されるべき労働力、過酷な肉体労働に耐えうる『苦力(クーリー)』としてイメージされていた」と述べています。
 さらに、本章で見てきた「東寧の労働者たちの記憶」が、「中国社会のナショナル・ヒストリー」と「齟齬しない形での、地域における集合的記憶の諸相であった」と述べています。
 第6章「個人的な記憶の語り」では、「中国社会における植民地経験に関する集合的記憶の強調点となっているのは、多くは抵抗戦争のために犠牲になったヒーローを称揚するものか、あるいは大規模な集団的な被害の記憶にかんするものが多い」とした上で、「このようなナショナル・ヒストリーからこぼれおちるような、個々の人々の経験は、どのような場面で、どのように見ることが可能なのだろうか」と述べています。
 そして、「東寧県で収集され記憶されてきた『満洲労工』の被害の記憶は、当地における地域の記憶の枠組みとして、人々の経験を統合しひとつの定型的な語り口を構成している」とした上で、「植民地経験の中の個別化された経験は、そのひとつひとつの断片は、個々人の来歴を語る雑多な情報に過ぎない」としながらも、「植民地経験に関する大きな物語とは距離をとった、このような記録化の末端の現場にも目を向けてみることは、『満洲国』という一つの歴史的プロセスを、当事者たちの多様で個別の始点を確保するために必要なのではないだろうか」と述べています。
 本書は、現代では大きな声で語られることの少ない、「満洲国」についての、語りにこだわりにこだわった一冊です。


■ 個人的な視点から

 ブラジルやハワイへの移民にも共通するのですが、満洲からの引揚げといったときに、そもそも、満洲に開拓団として送り込まれた人たちが、そもそも食い詰めた寒村であるために、日本の引き揚げてきてもそれを養うだけの土地がなく、結局、戦後国内の新たな開拓地に向かった人も少なくないようです。前に、富士の裾野への開拓について、毎日新聞の静岡県版で読んだ記憶があります。


■ どんな人にオススメ?

・満洲といってももはやピンとこない人


■ 関連しそうな本

 山室 信一 『キメラ―満洲国の肖像』 2006年01月13日
 小林 英夫 『満鉄調査部―「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』
 小林 英夫 『満鉄調査部―「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』
 小林 英夫, 米倉 誠一郎, 岡崎 哲二, NHK取材班 (著) 『「日本株式会社」の昭和史―官僚支配の構造』
 小林 英夫 『「日本株式会社」を創った男―宮崎正義の生涯』 2006年01月02日
 小林 英夫 『満鉄―「知の集団」の誕生と死』


■ 百夜百音

NHK クインテット~アラカルト~【NHK クインテット~アラカルト~】 TVサントラ オリジナル盤発売: 2005

 顔では笑っていても、目が怒っている人というのはいるものです。そういう人が苦情電話に対応しているのを見ていると、言葉遣いは丁寧なのですが、電話で見えないためか、顔はものすごく怖くて、この人は怒らせてはいけないと感じます。竹中尚人の「笑いながら怒る人」よりも怖いです。

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2008年09月09日

美しき日本の残像

■ 書籍情報

美しき日本の残像   【美しき日本の残像】(#1328)

  アレックス・カー
  価格: ¥714 (税込)
  朝日新聞社(2000/09)

 本書は、『犬と鬼』で知られる著者が、「小さい時の思い出、日本の神秘と美、祖谷の夢、歌舞伎のファンタジーなど、日本に対する愛情」を込めたものです。
 第1章「お城を探す」では、「お城に住みたいという夢を持つ子供」だった著者が、徳島県と高知県の境にある祖谷峡を訪れ、まだ美しい状態で残っていた捨てられた民家を探し、手に入れたことが語られています。
 ここが、どれほど奥深い山奥であったかは、ある日、著者の目の前で車の車輪が路肩から外れ、ドライバーが慌てて車から逃げ出した後、車そのものははかなくも、100メートルほどの崖下に落ちていった場面に遭遇したという記述からうかがい知ることができます。
 第2章「祖谷」では、「お城」が備えているべき条件として、
(1)巍峨たる山の上に位置していること
(2)その建物は頑強で見る人を圧倒するようなパワーを持っていること
(3)屋内は昔の生活が美しく保たれていること
の3点を挙げ、「この観点からすると、祖谷の民家は規模の上では小さいけれど、お城の必要条件を全て備えて」いたと述べています。
 そして、著者が手に入れた民家を掃除した際に、1950年頃書かれた少女の日記を見ることがあり、「その中には祖谷の生活の貧しさ、家の中の暗さ、そして大都会に対する絶望的なまでの憧れが、涙と共に素直に書かれて」いたとして、「その日記を思い出すたびに、日本人はなぜ自然破壊に手を染めてしまったのか、なぜコンクリートと蛍光灯という生活環境の中に住みたがったのかが少し理解できるような気が」すると述べています。
 第3章「歌舞伎」では、日本でステージクラフトが発達した理由として、「日本は中身より外見を大事にすることが多い国」だと述べています。
 第4章「美術コレクション」では、「日本では日本美術がむしろ迷惑なものとして『捨てられていっている』」ことを指摘しています。
 そして、京都の「会」(オークション)の不思議な点として、「新しいものより古いものが以上に安く販売されるという」点を指摘しています。
 第5章「日本学と中国学」では、「日本学を専門とする外国人で、京都に住み日本の伝統文化・芸術を学んでいる人々は多く」いるが、「その人々に共通した一つの特徴」として、「日本の伝統文化の『信者』になっているという点』を指摘し、何を話しても、「客観的に話し合うことが難しい」と述べています。
 第7章「天満宮に住む」では、1977年から京都の亀岡に住む著者の家が、約400年前の建物で、もとは近くの尼寺だったものであることを解説しています。
 第9章「僕の『関西七番巡り』」では、「京都の堕落はいつから始まったのでしょう?」という著者の質問に、友人たちは、「江戸初期からだ」と答えたことについて、「それから京都はずっと江戸に対して深い嫉妬心を抱き、明治になって首都が東京に移ったときから京都は自己嫌悪に陥ってしまったのではないか」と述べ、「京都は京都が嫌いなのです。それは世界の文化都市の中で唯一の例かもしれません」と述べています。
 第11章「奈良の奥山」では、「日本でいちばん美しい山は四国の祖谷渓ですが、いちばん神秘的な山は奈良の奥山です」として、「日本の古代信仰は山からはじまったらしい」と述べています。
 第12章「東西の文人たち」では、「東洋独特の『文人』という理想は儒教と道教が一緒になってできたもの」ではないかと述べ、文人の芸術が今の時代に認められていない理由について、「文人は『味が薄い』ということではないか」と述べています。
 第14章「最後の光を見ることができた」では、「今では日本家屋に美しく住んでいる人は全国で二十人ぐらいしかいないのではないか」として、その多くが外国人ではないかと述べています。
 本書は、日本の自然の美しさを、見つめなおすきっかけを与えてくれるかもしれない一冊です。


■ 個人的な視点から

 今、日本家屋に美しく住んでいる人は、ほとんど外国人だ、という指摘には衝撃を受けますが、実際のところ、かやぶきの古民家にわざわざ住むのはマニアだけで、趣味ではなく、先祖以来住んでいる人の多くは、今、住みやすいようにして住んでいるのではないかと思います。


■ どんな人にオススメ?

・日本の美しさを指摘されたい人。


■ 関連しそうな本

 アレックス カー 『犬と鬼―知られざる日本の肖像』 2007年10月04日
 降幡 広信 『現代の民家再考』
 降幡 広信 『古民家再生ものがたり―これから百年暮らす』 2007年12月15日
 宇井 洋 (著), 石川 純夫 『古民家再生住宅のすすめ』 2007年10月21日


■ 百夜百マンガ

怪人百面相【怪人百面相 】

 映画の世界への「夢」や「伝説」がこめられた作品。主人公は、伝説的な「映画バカ」を合成したキャラだと思いますが、本人が読んだら複雑ではないかと思います。


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2008年08月26日

とんかつの誕生―明治洋食事始め

■ 書籍情報

とんかつの誕生―明治洋食事始め   【とんかつの誕生―明治洋食事始め】(#1314)

  岡田 哲
  価格: ¥1680 (税込)
  講談社(2000/03)

 本書は、「『料理維新』と称するのにふさわしい時代でもあった」明治期における、欧米の食文化の急速な浸透と「洋食」の誕生を描いたものです。
 著者は、「和洋折衷という新しい食である『洋食』をつくりあげていったのは、やはり、庶民の創意と工夫の積み重ねであった」として、
(1)庶民は、初体験の様式調理にはなかなかなじめず、
(2)やがて牛肉を、食べ慣れた和風の調味料(味噌・醤油)で仕立てて、牛鍋やすき焼きを作り上げ、
(3)さらに、様式調理の中から、折衷料理という独特な洋食を、家庭料理の中に取り込んでいった。
の3つのステップを挙げています。
 第1章「明治五年正月、明治天皇獣肉を食す」では、当時の指導者たちが、「見上げるような欧米人との体力差という現実」に直面し、「肉食を解禁し、西洋料理を普及させることで、体力的にも文化的にも、日本人の劣等感を払拭することが急務という結論を得た」と述べています。
 しかし、「肉食が解禁されたからといって、待ってましたとばかり、庶民が肉食へ飛びついたわけではない。これから後の長い時間をかけて、西洋料理という枠組みの中で、肉の調理法を習得し、日本人独特の折衷料理『洋食』を、つぎつぎにつくりだしていく」と述べています。
 そして、日本人の肉食忌避は律令国家以来のものであったが、「江戸中期から末期にかけて、大名たちの中に、これらの掟に従わず、密かな『薬喰い』を行う者が現れてくる」と述べています。
 第2章「牛肉を食わぬ奴は文明人ではない」では、肉鍋の調理形態が、「獣肉から牛肉へ、そして、味噌から醤油と佐藤へと移行していく。換言すれば、米飯に合うおかずとして発展し始める」が、「欧米の肉料理に共通する、香辛料の使用はまったく見られない」として、「日本人の食卓を欧風化した」のではなく、「洋風素材の牛肉を、和風鍋に取り込んだ』のだと解説しています。
 そして、庶民の間で牛鍋やすき焼きが定着した背景として、「政府や知識人による積極的な肉食奨励策』を挙げ、1972年(明治5)に、敦賀県下で、牛肉店の開店によくないうわさが飛び交った際には、敦賀県庁が、「牛肉は、健康の増進・活力の補強・強壮滋養によい食べ物である。今までの習慣にこだわって、牛肉を食べると心身がけがれると言いふらす不心得者がいる。これは文明開化の妨げであり、不届きである」とする異例の論告を出したことを紹介しています。
 また、「西洋料理」と「洋食」との違いについて、「パンと合うのが西洋料理であり、米飯と合うのが洋食」だとする著者の考えを述べています。
 第3章「珍妙な食べ物、奇妙なマナー」では、「西洋料理を食べるとき、ナイフとフォークを使うには、まさに決死的な勇気が必要であった」として、
・箸がないために使ったナイフとフォークで口の中を切り、血だらけになって悪戦苦闘する。
・スープの飲み方もわからない。平皿を手に持ち、味噌汁のように皿ごと吸ったところ、胸からひざにかけて熱いスープを浴びてしまう。
・ナイフに肉片を刺したまま口の中で法張り、ナイフを引き抜いたら、唇を切って血を流す。
などの珍事が起こったことを紹介しています。
 さらに、「珍妙な食べ物が、続々と登場した」として、
・卵黄を燻製にしたからすみ
・ひき蛙の焼き鳥
・ウサギの親子丼
・ヒンヒンのステーキ
・ワンワンのソーセージ
・豆の粉のおろしワサビ
などを紹介しています。
 第4章「あんパンが生まれた日」では、「明治維新になり、文明開化の進む中で、先人たちは、パンを不思議な形態に作り変えていく』として、「おやつ(間食)の機能を持たせた、和洋折衷型の『菓子パン』」を挙げ、「あんパン」の誕生は、「『とんかつ』と同じように、日本人が作り出した『洋食』なのである」と述べています。
 そして、「パンは、米飯に執着し続ける庶民には、なじみにくい異国の食べ物であった」が、「1874年(明治7)に、『あんパン』という食品が作られると、あっという間に日本全国を制覇し、天皇の食卓にまで上るようになる」と述べています。
 第5章「洋食の王者、とんかつ」では、「独特な和洋折衷料理=『洋食』」の誕生の中でも、「『とんかつ』がつくられる歴史は、一つのドラマを構成している」として、日本人好みのとんかつが出来上がった経緯として、
(1)牛肉から鶏肉そして豚肉への変遷、
(2)薄い肉から分厚い肉への変遷、
(3)ヨーロッパ式のさらさらした細かいパン粉から、日本式の大粒のパン粉への変遷、
(4)炒め焼きからディープ・フライへの変遷、
(5)さらには、西洋野菜の生キャベツの千切りを添えて、
(6)あらかじめ包丁を入れて皿に盛り、
(7)日本式の独特なウスターソースをたっぷりかけて、
(8)ナイフやフォークではなく箸を使って、
(9)味噌汁(豚汁・しじみ汁)をすすりながら、
(10)米飯で楽しむ和食として完成する。
の10項目を挙げ、「これだけの食の変遷に、60年の歳月が費やされた」として、「外来の食べ物を、このような執念で吸収・同化していった食の文化は、他国ではあまり例がないであろう」と述べています。
 そして、明治初期に見よう見まねで作られたビーフカツレツはすき焼きのようには普及せず、後に現れる「ポークカツレツ」こそが「とんかつ」の前身となったと述べたうえで、池波正太郎が、ポークカツレツの美味しさを、「ソースをたっぷりとかけて、ナイフを入れると、ガリッとコロモがくずれて剥がれる。これがまた、よいのだ。コロモと肉とキャベツがソース漬のようになったやつを、熱い飯と共に食べる醍醐味を、旨くないという日本人は、おそらくあるまい」と記していることを紹介しています。
 また、「とんかつのうまさには、サクサクとした日本式パン粉の歯ざわりが貢献している」として、「ヨーロッパ式の細かい粒のパン粉」では、とんかつの歯ざわりは得られず、揚げ油が汚れやすく、適度の厚みのある衣に仕上がらない、食べた感じももの足りないと述べています。
 第6章「洋食と日本人」では、「明治新政府や知識人が積極的に奨励した肉食や西洋料理の普及」は、
(1)明治初期:西洋料理の崇拝期
(2)明治中期:西洋料理の吸収・同化期
(3)明治後期:和洋折衷料理の台頭期
(4)大正・昭和期:もっぱら庶民的な洋食が普及して、三大洋食が脚光を浴びる
の4つの流れがあると解説しています。
 そして、明治中期の「特筆すべき動き」として、
(1)本格的な西洋料理を社会が少しずつ受け入れていった。
(2)西洋料理の調理技術を、日本的にし編成しようとした先人たちの努力
の2点を挙げています。
 また、明治後期の和洋折衷料理(洋食)の台頭について、
(1)カツレツ・コロッケ・エビフライのように、フライ(揚げ物)と米飯の組合せ
(2)ライスカレー・ハヤシライス・チキンライス・オムライスのように、洋風を取り入れた米飯類
(3)ロールキャベツ・シチュー・オムレツのような洋風和食
などの、いくつかの系統があり、「これらの料理の共通点」として、「和食の洋風化ではなく、西洋料理の和食化である」と解説しています。
 本書は、私たちが当然のように食べている「洋食」が、日本の明治維新後、長い試行錯誤を経て完成した日本独自の文化であることを再認識させてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 著者は日清製粉に勤務する傍ら、食文化について研究を続け、食文化史研究家を名乗られています。単なる食通よりもこちらのほうがかっこいい気がするのはなぜでしょうか。


■ どんな人にオススメ?

・「とんかつは和食」といわれると抵抗がある人。


■ 関連しそうな本

 岡田 哲 『ラーメンの誕生』 2007年11月23日
 小菅 桂子 『カレーライスの誕生』 
 岡田 哲 『コムギ粉料理探究事典』 
 岡田 哲 『たべもの起源事典』 
 岡田 哲 『日本の味探究事典』 
 岡田 哲 『食文化入門―百問百答』 


■ 百夜百マンガ

DAI-HONYA【DAI-HONYA 】

 タキタ氏と言えばとり・みき作品では欠かせない登場人物ですが、こういうハードな作品の原案もしているとは。近未来作品なのに、すでに作中の時代に追いついてしまうと一抹の寂しさを感じます。


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2008年08月13日

晴れた日は巨大仏を見に

■ 書籍情報

晴れた日は巨大仏を見に   【晴れた日は巨大仏を見に】(#1301)

  宮田 珠己
  価格: ¥1,680 (税込)
  白水社(2004/06)

 本書は、日本中に数え切れないほどある大仏のうち、「40メートル以上のものにしぼって無節操に観光して回る」もので、著者は担当編集者から、「日本について、人があまり相手にしないような呆れたテーマで何か書きませんか」とお題を出され、真っ先に、「マヌ景」(日本中にはびこるマヌケな風景)、なかでもとくに巨大仏が思い浮かび、「巨大仏のある風景のおかしみについて書いてみたい」と即答したと語っています。
 第1章「牛久大仏(茨城)」では、牛久にある高さ120メートルの日本一の巨大仏について、「そんなにデカくして何のメリットがあるのかわからないが、メリットがあろうとなかろうと面白ければいい、というのがこの巨大仏旅行のコンセプトだ」と語っています。
 第3章「北海道大観音(北海道)」では、この大観音が、≪北の京芦別≫といって、「ホテルや宴会場などが一体となった複合レジャーランド」を形成し、宗教法人の経営ではなく、最初から「大観音=レジャー、という明快な図式で運営されている」ことを指摘し、「レジャー観音」とネーミングしています。
 また、「大観音の額にあるウルトラセブンのビームランプのような穴と、頭部から放射線状に広がった光背。それらを含めた風景全体が、何となくピンボールの盤面をも思わせて、ポップであった」と述べています。
 著者は、巨大仏を、「仏なんだけど、ぬっとする感触を呼び起こす巨大な建造物である点で、カミ的である」と述べ、「神だ仏だという以前に、坂口安吾の言う『生存それ自体が孕む絶対的な孤独』あるいは、世界があること自体の怖さがまずそこに感じられる」と語っています。
 第4章「加賀大観音(石川)」では、「巨大仏旅行も、巨大仏への信仰心でやっているわけではなく、なんかこう、場にそぐわないことの魅力というか、そこにある奇妙にズレた感じを面白がっている」トン述べ、「観光地としてはダメだけど、そのダメさがいい、というような転倒した愛」、「ダメさと楽しむ」。「ズレたモノヤ、アメな風景など、これまではどちらかというと否定的にとらえられていたそれらのモノや場所を、肯定的に楽しむ」として、「巨大仏のある風景から受ける、名状しがたい感触の中には、"ぬっとある"不気味さのほかに、このようなズレへの共感が含まれているのはまちがい」ないと語っています。
 そして、「常人には、それがそこにある必然性がまったく感じられず、それどころかその存在が周囲とあまりにズレているために、笑いさえ発生してしまっているような風景」を「マヌ景」と名付けています。
 第5章「高崎白衣大観音(群馬)」では、「巨大仏に期待される役割」が、「救い→驚き→笑い」に変化したとして、「万博から30年以上過ぎた時代を生きるわれわれにとって、他に巨大仏を訪れるどんな理由があるだろう」と語っています。
 第7章「会津慈母大観音(福島)」では、「見た感じ、まだ16いっていない」この観音様の顔が、『THEかぼちゃワイン』に出てくる「エルちゃん」に似ている、と指摘し、「アニメのキャラクターを連想させる観音さま」、「端的に言うと、ロリっぽい」、「観音さまが巨大であるだけに、その表情の幼さがかえって異様に見えた」、「子供体型、子供顔で巨大化されると、この世のものでない感じがいっそう強まる」と語っています。
 第8章「東京湾観音(千葉)」では、「東京から近いにもかかわらず、なぜかその存在はあまり知られていない」としたうえで、「大観音は、身近に高い建物もなく、スカスカした青空をバックに、現実感が希薄な感じで立っていた」と述べ、「まさに、火星に着陸したらいきなりそこに謎の遺跡が! みたいな、『ミッション・トゥ・マーズ』な風景である」と述べ、「ここには、ズレや違和感とはまた違う懐かしい異郷感のようなものがあった。巨大仏というのは、風景の調和をどれだけ乱しているかによって、その味わいの深さが決まると思っていたが、こうして単体で立っているだけでも十分に何かをかもし出すようだ」と語っています。
 そして、「世間一般のルールや価値観に乗らないという意味」で、「負け組」という言葉を使い、「脱線したり、錯綜したり、ルールで割り切れない風景が好きな人は、社会のルールに乗らない、という意味で負け組なのだろう」として、「巨大仏が面白いと思うとき、それは本来の宗教というルールを外してみているからいいわけで、真剣に信仰心で見ろ、と言われたらきっと興味がなくなるように思う」と述べています。
 第9章「釜石大観音(岩手)」では、もともと、地域の津波被災者慰霊のために建立されたこの観音さまが、「消化不良に終わった」原因として、「この観音さまが、なぜここにこんなものがあるのか理解に苦しむ、という奇抜なシチュエーションになかったからだろう。風景にズレがないのだ」と指摘しています。
 そして、「モノは、その意味を剥奪されたときに、"ぬっとあるもの"になるのだ」と述べ、「『マヌ景』を見るという行為の中には、"ぬっ"とある感触が、もともと内包されていたということができる」と解説しています。
 第12章「太陽の塔(大阪)」では、岡本太郎が、エッセイ『日本の伝統』の中で、
「だいたい、本来の目的を失って投げ出されたものというのは不可思議であり、一種の魅力を持っています。これはたしかです。だが、それを『物』として、そのまますなおにうけとめればよいのですが、妙に『神秘化』したり、いろいろとこじつけて納得しようとする。卑弱な精神のコンプレックスです」
と語っていることを紹介しています。
 第13章「最後の巨大仏めぐり」では、「いっそのこと全国の巨大仏のある16ヶ所を結んで、巡礼でも組めば、観光客が増えるのではないだろうか」として、「現時点ではまったく観光客に相手にされていない巨大仏でも、人は88ヶ所とか33ヶ所とか数字をあらかじめ設定されると、ついそれを巡ってしまう」と述べています。
 本書は、全国の巨大仏マニアの皆さんにとってはもちろん、巨大仏には興味をまったく持っていない人にとっても新たな発見を与えてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 私自身、本書でも紹介されている巨大仏に常に見下ろされながら育ち、それがあるのが当たり前の環境の中で育ちましたので、本書で指摘されている違和感はあまり感じていなかったのですが、よくよく考えてみると全国的にも特異な環境で育ったのだということを自覚しました。


■ どんな人にオススメ?

・巨大仏のある生活が想像できない人。


■ 関連しそうな本

 藤田 洋三 『世間遺産放浪記』 2007年10月14日
 藤森 照信, 増田 彰久 『看板建築』 2008年04月12日
 宮田 珠己 『52%調子のいい旅』
 宮田 珠己 『ホンノンボ―ふしぎ盆栽』
 宮田 珠己 『ウはウミウシのウ―シュノーケル偏愛旅行記』
 宮田 珠己 『ジェットコースターにもほどがある』


■ 百夜百マンガ

よいこの星【よいこの星 】

 作者は千葉県出身ということで、この間高校生向けの進学情報の千葉県特集号で見かけました。作品に登場する学校の風景も、千葉県らしいものがあるかもしれません。


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2008年07月19日

マニラ好き


■ 書籍情報

マニラ好き   【マニラ好き】(#1276)

  日名子 暁
  価格: ¥1400 (税込)
  太田出版(2007/04)

 本書は、「日本の男たちが、なぜフィリピーナにはまるのか、入れあげるのかを分析」したものです。著者は、フィリピーナをめぐる状況を、「売春」から「結婚」へと「大きく流れが変わってきた」と述べています。
 第1章「正しい『追っかけ』」では、フィリピーナのホステスに入れあげて、マニラを訪れた、「真面目」で「真剣」と「肩ヒジを張ったタイプ」に、「なぜか全国のフィリピンクラブでよく会う」と述べた上で、迎えに来るといっていた彼女は、言い訳をして、「謝らない・悪びれない・自分は悪くない」の「これまたフィリピンスタイル」であると語っています。
 第2章「正しい『追っかけ』」では、04年をピークに、「フィリピーナを雇用する店、来日するフィリピーナ、ともに大幅に減少している」理由として、「国連の小委員会が、いまだに人身売買を続けている国として日本を挙げた」ことを挙げています。
 そして、「人生のピークは過ぎ、良きも悪きも人生の黄昏を迎えた年齢」の男たちについて、「彼らは心がさびしいからフィリピンクラブに通う。したがって、フィリピンクラブは病院であり、フィリピーナは医者兼看護婦なのである」と述べています。
 また、「フィリピンクラブに通う日本の中・高年の客の大半が、フィリピーナの国での暮らしぶりを聞くと過ぎ去りし日々を思い出し、郷愁を感じる。そして、目の前にいるフィリピーナと過去の自分とがオーバーラップし、それが渾然一体となって胸がいっぱいになる」と述べています。
 さらに、「フィリピンにおける家族の絆は、日本人の想像を超える強固なものだ」として、「家族の中から誰か、日本に出稼ぎに行くフィリピーナのような働き手が出れば、そのフィリピーナの稼ぎに、残った家族は依存する」と述べています。
 第3章「正しい『愛人』」では、「ヤクザとフィリピンの関係は古くて深い」として、ジャパゆきビジネスや拳銃などのシノギを挙げた上で「フィリピンでは『YAKUZA』は一般名詞となっていて、フィリピンの新聞、テレビ、雑誌などにもしばしば登場」すると述べ、この他、「自称ヤクザ」が、「マニラ周辺には百名前後いる」と述べています。
 また、「ヤクザ社会における地位、貫禄などのヤクザとしての格の違いは日本国内でのもの」であり、「フィリピンでは、そんな格の違いは通用しない」として、「フィリピーナも"フリーヤクザ"も、フィリピンという土俵の上に上がれば日本のヤクザには負けない、と思っている」と述べています。
 そして、フィリピーナの愛人にコケにされた日本のヤクザが、復讐を試みるも、地元ギャングの連中や、警察署長クラスをボディガードに連れた軍への強いコネクションをカラオケ店の店長にあしらわれ、その後、「ヤクザが愛人にしてやられた、という話はマニラ界隈では格好の話題として広が」ったと述べています。
 第4章「正しい『愛人』――2』では、フィリピーナ2人を囲う元ヤクザの男が、年に2回、「愛人をたずねての極楽旅」を楽しみ、その「フィリピーナ愛人確保術は、彼の属するヤクザ業界で評判となった」と述べています。
 また、「若いころにヤクザを経験し、三十代で足を洗い、個人運動家になったと自称」する男が、「日本人の男に捨てられたフィリピーナの代理人をつとめ」、フィリピーナの愛人トラブルの中から、「これなら金になる、というケースをピックアップ」し、「このフィリピーナの愛人話が表ざたになると困る社会的な立場にいる男たち」をターゲットにしたことを解説しています。
 第5章「正しい結婚」では、80年代から90年代にかけての農村の「フィリピン花嫁」に関わった結婚ブローカーが、百万円を超す金を得ていたことや、その手続きが非常に煩雑なこと、日本各地にフィリピンクラブが誕生した結果、「日本とフィリピンのカップル誕生は集団見合いから、個人へと変わっていった」ことなどを解説しています。
 本書は、当事者でないと気持ちが想像しにくい、フィリピーナに入れあげる中高年の諸事情と心理をわかりやすく解説した一冊です。


■ 個人的な視点から

 フィリピンパブに行きたがる人というのは、どこの世界にも一定数いるようで、人それぞれな趣味・嗜好・性癖の一カテゴリーくらいに思っていましたが、もっと人生の重みを背負った根の深いものであることを垣間見たような気がします。そういう意味では、遊びではなく、人生をかけてのフィリピン通いと言ってもいいのかもしれません。


■ どんな人にオススメ?

・フィリピン人は単なる外国の人種のうちの一つと思っている人。


■ 関連しそうな本

 日名子 暁 『マニラ通』
 白野 慎也 『フィリピーナはどこへ行った―日本から消えた彼女たちの「その後」』
 福沢 諭 『ザ・フィリピン妻―雇われ店長が溺れたディープすぎる世界』
 浜 なつ子 『死んでもいい―マニラ行きの男たち』
 浜 なつ子 『マニラ行き―男たちの片道切符』


■ 百夜百音

モダン・レコーディングの冒険【モダン・レコーディングの冒険】 バグルズ オリジナル盤発売: 1981

 「ラジオスターの悲劇」は誰もが知っていますが、色々ゴタゴタあったすえのセカンドアルバムは通好みだったせいか、パクっても一般にはばれなかったそうです。


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2008年07月15日

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯

■ 書籍情報

粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯   【粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯】(#1272)

  城山 三郎
  価格: ¥470 (税込)
  文藝春秋(1992/06)

 本書は、タイトルである「粗にして野だが卑ではない」という「会心のライフ・スタイル」を貫いた第5代国鉄総裁石田禮助の評伝です。
 序章では石田が、生前、「どうしてももらってもらえ」との池田総理の強い意向にもかかわらず、「おれはマンキーだよ。マンキーが勲章下げた姿見られるか。見られやせんよ、キミ」と受け付けず、ただし、ただのマンキーではなく、国鉄総裁になって、初めて国会へ呼ばれたときには、代議士たちを前に、「粗にして野だが卑ではないつもり」という心意気を示したと述べています。
 第1章「若き兵士の如く」では、総理大臣池田勇人が、国鉄総裁への財界人起用に執念を燃やしていたが、小林一三が「何ひとつ権限のない仕事をやらせる気か」と初代総裁のポストをはねつけたように、「統率力の限界」を超えた従業員数46万人に加え、「政府の指揮監督、国会の監督と手枷足枷をはめられての仕事」であり、「経営サイドに当事者能力がまるで与えられていない」なかで、「加えて、巨大な労働組合の壁」があり、「これでは誰がなろうとうまく行くはずが」ないと考えられていたと述べています。
 しかし、第4代総裁の十河と同じ国府津の住人であり、2期に渡って国鉄監査委員長をつとめたのち、諮問委員をしていた石田は、国鉄総裁就任の依頼に、「これでパスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)を与えられた」と語り、「商売に徹して生きた後は、『パブリック・サービス』。世の中のために尽くす。そこではじめて天国へ行ける」と考えていたと述べています。
 また、初の記者会見で有名になった、「体に自信はある。気持ちはヤング・ソルジャーだ」と語ったことについて、「ソルジャー」という言葉には、「自分が犠牲になり、耐えて耐え抜く人」との意味を持っていたのではないかと述べています。
 第2章「ひとつのロマン」では、三井物産の中で石田が頭角を現したのが、「大正5年、数え31歳でシアトルの支店長(正式には出張員主席)に起用されてからである」と述べ、また、シアトルに向う太平洋の半月あまりの船旅で同質となった第一生命の石坂泰三と気が合い、「生涯の親友」となったと述べています。
 また、シアトル時代の証言として、「ミスター・イシダは本当に公平だった」という部下の女性の証言や、「きびしい人、自分にも厳しい人でした。仕事も早く、決断も早かった。たいへん威厳があり、笑顔など見たこともない」という部下の男性の証言を紹介しています。
 第3章「動くものが好き」では、「石田が目をつける部下の条件」として、
(1)ヤング
(2)アグレッシブ
(3)イクスピアリアンスト
の3点を挙げ、大連時代にラグビーの試合での「トライの仕方」を見込まれた北原一造が、ニューヨークの金物部に呼び寄せられ、「きみ、運動やってるだろうな、やめちゃいかんよ」と言われたことを紹介しています。
 さらに、「部下を評価する石田の言葉」として、「エイブル」という言葉を挙げています。
 第5章「『非戦闘員』のクラブ」では、国府津に居を構えた石田の元に、「石坂泰三、加納久朗(後の千葉県知事)、安川雄之助ら戌年同士で集まることもあり、加納がわざわざ国府津まで犬を持ってきたりした」と述べています。
 そして、昭和21年から10年間にわたる石田禮助の60歳代を、「石田は単なる『石田農園主』であって、公職を含むこれといった職に就いていない」と述べています。
 第6章「ミスター鬼瓦」では、昭和31年に、「同じ国府津の住人である十河信二国鉄総裁に頼まれ、石田が国鉄監査委員、そして初代委員長になった」ことを述べ、6年間にわたる監査委員長の期間、国府津の石田家では、養子房之助に志寿子を娶り、「室町のライオン」とも言われた石田が、孫を得たとたん、「孫を抱いたり、揺り籠の子守りをしている」ことに、石田の妻つゆの友人たちが、「想像できない。ぜひ見せて」と言ってつゆを困らせたと述べています。
 第7章「降りかかる火の粉」では、石田にとっての「人生の秋、颯爽の出番であった」国鉄総裁職への就任について、
「それまでの人生の中から、スタンスはすでに決まっていた。
 粗にして野だが卑ではない。正々堂々とやる――。
 私心といえば、そうすることで『天国への旅券(パスポート・フォア・ヘブン)』を得たいという願いだけ、こわいもの知らずでもあった」
と述べています。
 そして、石田が、通勤対策については、
「地域の問題であり、政府や地方自治体が対策を考えるべきである。
 国鉄はもともと全国を対象とし、地域と地域を結ぶなど国土の平均的開発に役立つのが使命である」
との考えを持っていたが、「朝の通勤ラッシュの新宿、赤羽、上野、さらに大阪の各駅ホーム」に立ったことで、「これまでのそうした考え方を『悔い改めた』」と語ったと述べています。
 しかし、石田の"神よ、願わくは安全を守り給え"という祈りは神に届かず、昭和38年11月9日、死者161名を出した鶴見事故が起き、葬儀では「嗚咽して、用意した弔辞をろくに読めなかった」ことが述べられています。
 第8章「人生の達人」では、鶴見事故後、「総裁職は金をもらってやるべきではない」との思いを強くした石田は、給与全額を受け取らぬことにし、「一年ブランデー一本頂戴出来レベ仕合ワセデス」と文書で申し出たと述べています。
 また、国会答弁では、離れた席とマイクとの往復をする石田を見かねた田中角栄から、「空いている総理大臣席に坐るように」と進められ、「遠慮なく、そこに腰を下した」石田が、官房長官から「低姿勢、低姿勢」というメモを渡されたが、
「私は低姿勢はきらいだなあ。低姿勢をとる必要もないもんな。私の柄に合わないですよ。へんに威張るなんということはないけれども、なにも自分を卑下して下げなくてもいいところを下げるなんてことはできませんよ」
というスタンスであったと述べています。
 さらに、昼夜なく「命を賭けて」働く運転士と専売公社の従業員の給与が変わらぬことを指摘し、「タバコ巻き」呼ばわりはけしからぬと講義してきた全専売労働組合に対しても総裁室のドアを開け放ったまま、
「だって、きみィ、タバコ巻いてるじゃないか」
「ぼくはヘビィ・スモーカーだったが、いまはやめてる。あんなに体に悪いものはない。きみらがつくったら、外国で売りたまえ。ぼくが売ってやるよ」
と抗議団を煙に巻いたと述べています。
 そして、石田が、国会議員たちに対しても臆することなく、
「国会に行くことなんか、ぜんぜん苦にならんな。よろこんで行くよ。気を使うことなんかありゃせん。ワシは国会はおもしろいし、エンジョイすることすらあるよ」
とコメントしてることを紹介しています。
 第12章「首を切られた気持ち」では、石田が、「総評傘下の巨大な戦闘集団」の順法闘争には激しい憤りを見せ、「指導した組合執行部に対して、解雇もふくめた厳しい処分」を打ち出したことに対し、組合員たちが総裁質に押しかけると、
「どうかねキミたち、首を切られた気持ちは?」
と語り、「これにはさすがの組合の猛者もグッとつまってひとこともなかった」と、その様子を紹介しています。
 そして、昭和44年5月27日、「石田はまる6年にわたる国鉄総裁職を辞し」、「その離任は国鉄の内外から惜しまれた」と述べています。
 第14章「毎日の遺言」では、病に倒れた石田が、「自分の葬儀のことを口にするように」なり、「思いついた、遺言だぞ」といって、
○死亡通知を出す必要はない。
○こちらは死んでしまったのに、第一線で働いている人がやってくる必要はない。気持はもう頂いている。
○物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、おれは現職ではない。彼等の費用を使うなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め。
○香奠や花輪は一切断れ。
○祭壇は最高も最低もいやだ。下から二番目ぐらいにせよ。
○坊さんは一人でたくさんだ。
○戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう。
○葬式が終わった後、「内々で済ませました」との通知だけ出せ。
○ママは世間があるからと言うかも知れぬが、納骨以後もすべて家族だけだ。
○何回忌だからといって、親族を呼ぶな。通知をもらえば、先方は無理をする。
○それより、家族だけで寺へ行け。形見分けをするな。つゆが死んでも同じだ。
などの「遺言」を「毎日のように志寿子に指示して書取らせた」ことを紹介しています。
 そして、「家族に見守られて、生まれた。死ぬときも、家族に見守られて死ぬ。それがおれの希望だ」と「くり返し言った」と述べています。
 本書は、本当の意味での「パブリック」とは何かを考えさせてくれる一冊です。


■ 個人的な視点から

 本書の表紙は、国府津駅のホームに立つ石田の写真があしらわれていますが、そう言えば、「一等車」「二等車」という呼び名を「グリーン車」「普通車」に変えさせたのは石田なのだそうです。国府津から東京までの通勤はたいへんそうですが、写真を見る感じでは、席を譲ったりすると、「年寄り扱いするな」と怒り出しそうな印象を受けます。とは言え、海外生活が長い合理主義者でもあったので、「リーズナブル」と思えばすんなり席に座りそうな気もしますが。


■ どんな人にオススメ?

・気持ちのよい年寄になりたい人。


■ 関連しそうな本

 城山 三郎 『花失せては面白からず―山田教授の生き方・考え方』 2008年03月27日
 城山 三郎 『もう、きみには頼まない―石坂泰三の世界』
 城山 三郎 『落日燃ゆ』
 城山 三郎 『男子の本懐』
 城山 三郎 『雄気堂々〈上〉』
 城山 三郎 『官僚たちの夏』


■ 百夜百マンガ

究極変態仮面【究極変態仮面 】

 当時の小中学生なら誰しも、パンツをかぶって「フォオオオ!」と叫んだかどうかは定かではありません。

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2008年07月13日

江戸の宿―三都・街道宿泊事情

■ 書籍情報

江戸の宿―三都・街道宿泊事情   【江戸の宿―三都・街道宿泊事情】(#1270)

  深井 甚三
  価格: ¥756 (税込)
  平凡社(2000/08)

 本書は、「町人・農民など庶民の宿である旅籠屋を中心にしてさまざまな宿について」解説したもので、「今日の日本旅館の始まりとなる、朝夕の食事も提供し、風呂も用意し、床の間つきの座敷をもつ旗小屋が成立したのは江戸時代のこと」であるとして、これらのやども、「大名に参勤交代をさせ、その宿を沿道の宿屋につとめさせた江戸時代の社会の支配のあり方や、またこの社会の文化に規定されて」成立し、発展したと述べています。
 第1章「三都と城下町、街道の宿をみる」では、「特定の町への旅籠屋集中」が、「17世紀中頃に城下町反映策としてとられたことが豊田武氏により指摘されている」ことを紹介しています。
 第2章「貴人の宿ともてなし」では、本陣を利用する大名が、「自身の賄いを家臣にさせる木賃方式での宿利用のため、座敷利用代にあたる、下され物・宿入りなどといわれる宿料を支払った」が、「別に家臣らへの食事を依頼すれば旅籠代を支払うこと」になり、また、本人は、宿泊する大名に「献上品を差し上げていた」と述べています。
 また、貿易のみ関係を持ったオランダの長崎出島商館の館長、カピタンたちが、宿を利用する際には、「ベッドはともかく、寝具も旅に持参していた」として、「オランダ商館の名誉を汚さぬように、絢爛豪華なものを選んだ」と解説しています。
 第3章「庶民の宿泊事情」では、17世紀後期のいわゆる元禄時代に、商用のための旅のほか、「商品経済の展開を基礎にして、農民も町人も遠方の自社へ参詣に出かけるゆとりも生まれてきた」と述べています。
 そして、江戸時代の庶民の宿を代表する旅籠屋と木賃宿について、
・旅籠屋:朝・夕の食事を提供し、「旅籠」は食事自体も意味して使用された。
・木賃宿:宿泊客が持参した食料を煮炊きするために薪を提供したことから名付けられた。
と解説し、「江戸時代の初めには木賃宿が宿屋の主流であり、旅籠屋が一般化するのは遅」かったとする説もあったが、「旅籠屋の一般的成立については今のところ定説がない」と述べています。
 また、幕府がたびたび宿場町に遊女を置くことを厳禁したが、「宿泊客に食事を提供するだけでは旅籠屋の収入は限られ、また伝馬役・御用宿の負担が宿場町の住民にはある」ため、「飯盛女・飯売女として抱えた下女に売女をさせる動きは止められなかった」と述べています。
 第4章「江戸の宿さまざま」では、「本陣その他の領主の宿や、商人のための商人宿」、庶民の旅である旅籠屋などのほか、「行き暮れた旅人や僧侶・巡礼・廻国修行者などに提供される善根宿をはじめとして各種の宿を取り上げ」ています。
 また、武者修行者の宿は「修行人宿・修行者宿・修行人定宿などとよばれていた」と述べ、「江戸など三都以外となると武者修行の場は、当然ながら城下町となった」として、その宿として旅籠のほか、本陣が指定されていたことを紹介しています。
 第5章「旅人から見た旅籠屋」では、「さまざまな身分の人々の宿泊を受け入れなければならない旅籠屋」が、「相宿利用をその特徴としていた」上、「壁ではなく、ふすまや障子だけで隣室を仕切る旅籠屋では、他の客と相宿になるといっても、厳密にはともかく、プライバシーが保てないことではそう差があるものではなかった」が、「当時の人といえども相宿の相手については不安に思うものである」と述べています。
 第6章「旅籠屋の施設・経営とサービス」では、旅籠屋の建築に地打て、建築史家大熊喜邦氏による、「旅籠屋の構造はどれも大同小異で、表間口の真ん中に一間(約1.8メートル)の入口をとり、その左右のどちらかに駕籠・長持その他の荷物などを置く大きな板の間と家族の住居の間を置いた。この板の間の通りに面したところにはめた障子には屋号が筆太に書き付けられ、家内の大黒柱には家の名前を書いた看板をかけていた。二回のある家は雨戸の戸袋に屋号の看板を出し、あるいは漆喰で屋号を塗りだしたものもあるという。部屋は板の間の奥に数室から、大きいところは十数室の座敷が建具仕切りで配置されたものである」という指摘を紹介しています。
 また、旅籠屋の看板のマークが、「人目で判別できるように、簡略なマークや文字一字を図案化したものが用いられた」と解説しています。
 第7章「旅籠屋に生きる人びと」では、「旅籠屋など宿屋とのかかわりで暮らしを立てている人々も多い」として、「按摩、髪結、そして商人などの物売りや、また『損料屋』など旅籠屋が必要とする物品その他を提供する商売の人たちもいた」と述べ、「損料屋」については、「御用通行などのときに宿つとめに必要となる諸道具を貸す商売」だと解説しています。
 また、盗難事件が珍しくなかったとして、「関東の治安の悪化していた天保頃にやはり盗難の記録が多い」ことや、「宿屋の出来事として盗難などとともに見落とせない」こととして、「奉公人の下女に対する夜ばい」を挙げ、『東海道中膝栗毛』や『成田道中膝栗毛』でも「ともに夜ばいで恥をかく弥次・喜多を登場させて笑いを誘っている」と述べ、「旅籠屋が夜ばいの起きやすい場としての条件を持っていたために生じたといえよう」と解説しています。
 本書は、江戸の昔に思いを馳せるとともに、現在の日本旅館のサービスの原型を見ることができる一冊です。


■ 個人的な視点から

 昔、彦一ばなしか吉四六ばはしなにかの昔話で、「ごまのはい」の話があり、旅籠で相宿した「ごまのはい」(泥棒)をやりこめる話があったのを憶えています。子供の頃なので、相宿とかにリアリティはなく、そんなもんなんだぐらいに思ってましたが。


■ どんな人にオススメ?

・江戸時代の旅に関心がある人。


■ 関連しそうな本

 金森 敦子 『江戸庶民の旅―旅のかたち・関所と女』
 高橋 千劔破 『江戸の旅人―大名から逃亡者まで30人の旅』
 神崎 宣武 『江戸の旅文化』
 金森 敦子 『伊勢詣と江戸の旅』
  『旅篭に泊まる』 2007年10月08日
 宇佐美 ミサ子 『宿場の日本史―街道に生きる』 2008年03月06日


■ 百夜百音

そんなヒロシに騙されて/潮騒のメロディー【そんなヒロシに騙されて/潮騒のメロディー】 高田みづえ オリジナル盤発売: 1983

 個人的には競作したジューシーフルーツの方がなじみがあります。ちなみに「ヒロシ」はサザンのメンバーの松田弘からとっていますが、騙したわけではないそうです。

『THE BEST』THE BEST

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2008年07月02日

近代日本の農村的起源

■ 書籍情報

近代日本の農村的起源   【近代日本の農村的起源】(#1259)

  トマス C.スミス
  価格: ¥3990 (税込)
  岩波書店(2007/11)

 本書は、「日本農業に見られる変化の少なさ」が、「ときには誇大視されている」ため、「本質的な点でも何の変化もなかったというような印象さえ受ける」が、「その諸変化は日本の歴史にとってきわめて重要な意味をもつもの」であることを示したもので、「こうした諸変化の輪郭を素描し、それが近代日本にとってどのような意義をもっているかを示そうと試みたもの」です。
 第1章「土地制度」では、「後進地域における大規模保有地の農耕組織」が、「拡大家族を通じて、徳川期農民社会の2つの主要な階級、すなわち、土地を保有する階級とそうでない階級、おこの両者をつなぎ合わせていた」と述べています。
 第2章「農業奉公人」では、「大保有地における労働力を形作っていた拡大家族」が、
(1)中心には核家族
(2)次の円内には血縁及び姻戚
(3)第三の円には奉公人と名子
の三者から構成されていたと解説しています。
 第3章「賦役」では、「徳川時代を通じて、名子が独立の家族へ、また自立的な土地保有者の身分へと上昇していく史実が見出されることになる」と述べながらも、「このような上昇が大規模に進行していたかのように想像してはならない」、また、「これによって名子の親方に対する関係が大きく変化したなどと想定してもならない。両者の関係は法的であると同時に、社会・経済的なものだったからである」と解説しています。
 第4章「小保有地」では、「耕地面積が絶え間なく拡張されているような時期には、きわめて頻繁に既存の保有地が分与されて、新保有地をつくりだしていった」ことが、「村落の成長の根本要因」であったともに、「村の階級構造の形成を大きく推進した」と解説しています。
 第5章「政治的権力の組織」では、17世紀の村落が、「数多くの自立的な農耕単位から成り立っていたのではなく、相互に依存しあう農耕諸単位でできているいくつかの集合体から成り立っていた」として、このような集合体が、「一つの大保有地と多数の従属的な小保有地」から成り立っていたと解説しています。
 そして、この集団の「特に注目に値する一つの機能」として、「田植えのためにまとめて大量の労働を提供する」ことを挙げ、田植えを、「ごく短期間のうちにやってしまわなければ」ならず、「割り当てられた時間のうちに田植えをやってしまうには、個々の家族ではとうてい狩り集められないような大量の労働力を必要とする」ため、「村内のさまざまな親族関係――本家・分家・擬制分家――が、この決定的に重要な仕事を行うための安定した枠組みを提供した」と解説しています。
 また、血族集団の首長が、「村の内部で強力な政治的地位を占めていた」明白な理由として、「この集団は、村落内のあらゆる種類の組織を包括する自立的な完全体を形づくっており、集団を代表して発言する家族は恐ろしく強力であった」ことを挙げ、「村の役職は一定の名望家にだけ限られていたが、そのなかには当然に血縁集団の首長たちが含まれていたし、場合によると彼らだけ、ということもあった」と解説しています。
 さらに、庄屋を決める方法として、通常は、
(1)選出
(2)輪番
(3)世襲
の3つの方法があり、後ろに行くほど「排他性が強くなっていく」と解説しています。
 第6章「市場の成長」では、「1600年以後の2世紀間に都市の人口は驚異的な速度で増大し、それ以前の1千年にもまさる増加を見せた」として、「1590年には一漁村に過ぎなかった江戸が、1731年ごろには人口50万を超える巨大で人口稠密な都市に成長し、おそらくは当時世界最大の大都市となっていた」と述べ、大坂と京都についても、「近接する堺や伏見を合わせると、100万に近い人口を持つ位置大都市圏を形成していた」として、「このように増大していく都市人口の衣食住をささえるために、大量の穀物・魚・木材・繊維品が必要になった」と述べています。
 第7章「農業技術」では、「われわれは、日本の農業が最近に至るまで静態的であるか、あるいは、それに近い状態であったと考えがち」であるが、「実際には、日本の農業は近代に入るよりもはるか以前に、注目すべき技術的諸変化」を既に経験していたとして、「1600年から1850年までのあいだに、そうした複雑に絡み合った諸変化が土地の生産性を大いに上昇させ、特殊な作業においてもまた作業全般においても労働の生産性を変化させて、農業制度の根深い変化をもたらしていた」ことを指摘しています。
 そして、「農耕における重要な技術革新はどれもみな、土地の生産性あるいは労働の生産性、あるいはその両者を高めた」として、「干鰯(ほしか)、油粕それから大小の都市で集められた下肥」等から成る「金肥」を、「収量の上昇をもたらすすべての技術革新の中で、おそらく最も重要なものであった」と述べ、新しい肥料が、「作物の収量を引き上げただけではなく、土地のいっそう集約的な利用をも可能にした」ことを指摘しています。
 この他、「作物の品種の増加」や「灌漑の拡大」、「作物の特化が可能になったこと」などを、重要な技術的発展として挙げています。
 また、技術革新が、「徳川時代を通じて、単位面積当たりの収量を増加させたが、そればかりでなく、単位面積当たりの必要労働量をも増加させた」