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2005年02月21日
学童保育経営レポート(2)
N学童の危機的状況を分析すると、まず第1に、入所者の減少があげられた。
当時の経営水準でいえば、年間に助成金対象となる1~3年生25名の確保が損益分岐点であった。それが新規入所がわずかに4人、全体でも損益分岐点に9人も足りない。保育料の値上げは必至であった。
第2に、損益分岐点の見通しを難しくしている問題に、母子家庭児童半額、兄弟半額という福祉制度があった。来年度の入所児童のうち、母子家庭がどのくらい見込まれるかは入所が決まるまで見通しがつかない問題だ。しかも近年、母子家庭の割合は急増しており、N学童においてもこれら福祉制度の恩恵に、半分近い世帯がかかっていた。このような福祉制度の維持を続けることは一般の保育料を大幅に値上げせざるをえない。今思えば、このような民間の自助制度の中で進んでこのような福祉制度が導入されていたことは驚きであったと思う。決して社会福祉協議会の助成金申請の条件になっていたわけではない。しかし親達は、お互いの経済状況をそれぞれ知りながら、助け合うことに大きなコミットをしめしていた。しかしこのときの経営状況では、まずこの福祉制度の見直しに切り込まざるを得なかった。
福祉制度の廃止と、入所児童確保のための延長保育実施、保育料の値上げ幅は1.3倍に設定し、損益分岐点を超える入所定員を確保。危機を乗り切った。
しかし福祉制度の切捨てや保育料の値上げは、いくつかの溝を残した。それは本当の意味で困難を抱えた家庭を直撃していた。
もちろん私たちは一方的な保育料の値上げ、福祉制度の切り下げを行ったつもりはない。
わたしたちが話し合った時間は何時間にのぼるだろう。本当にとことん、「あなたは自分の子供のためにいくら出せますか」「わたしは自分の子どものためにいくら出せるだろう」「いくらなら預けていくらなら預けないか」「これまで保育にかけてきた費用から判断して高いのか安いのか」「この保育料を支払う以上望むサービスの水準はどのようなものか」
毎月父母会の前後にはそのような議論を何時間も重ねた。結果的にそのような議論の経過に全員が参加し一致して費用負担への同意とサービス向上への決意にいたったのである。
このように、新しい思いで迎えた新会計年度であったが、甘い見通しのまま入所を継続して保育料不払いとなった家庭が2世帯でてしまった。
子供の生活の場を確保したいという親の願いは一緒であるのにかかわらず、費用が払えなければ居場所を提供しつづけられないというジレンマのなか、なんども督促に自宅を訪問した。
最終的に、1世帯は1年の滞納のあと清算でき、あと1世帯は5か月分を未納のまま退所した。さすがにこれらはこの改革の2年間執行部会計をあずかった中でもっともつらい経験であった。
なお、現在の損益分岐点となる入所児童数は20人である。経営に余裕が出たぶん、指導員の増員を図り、現在の学童はほぼ満杯の35人。この中には助成金の対象にはならない、高学年の児童もいる。学童の居心地のよさを子供達が選んでくれている結果だと思っている。施設の規模からこれ以上の受け入れは困難である。経営にかかる助成金の割合は過去の60%から現在は25%。自己資本力が高まった分、フローリングなどの施設への投資や指導員の給与水準の向上をしながら、良好な経営を維持しているといえよう。
このような比較的簡単だがドラスティックな経営改革の経験は、父母の間に小さいけれど、「やればできるんだ」という自信を与えてくれた。しかし共同経営には独特の難しさがある。次回はこのことについてふれたい。
投稿者 kamimaki : 18:50 | コメント (3) | トラックバック
2005年02月05日
学童保育経営レポート(1)
長男が小学1年生になったのは平成11年の春である。共働きであるため、保育園は6時半まで預かってもらっていたが、それでもギリギリのお迎え時間。加えて慎重な気質の長男はまだ一人でお留守番というのをしたことがない。
世の中には学童保育というものがあるらしい。
保育園の年長組さんの部屋の窓に貼られた案内チラシを手がかりにN学童クラブをたずねたのは入学前のある肌寒い日だった。木造住宅密集地帯の奥にあり、広大な更地が目の前にあった。大きな道路に面した土地を民間デベロッパーが底地買いし、地上げした跡だった。その広大な土地を通して見える、長屋のなかの1軒がN学童であった。
学童保育は大阪が発祥の地である。運営主体は多くの場合父母会である。N学童もそのような場所だった。第2種社会福祉事業の認可は昭和57年。大阪市は学童保育に直接補助をしないため、大阪市社会福祉協議会から学童の人数に応じた補助をうけながら、会費をあつめ、賃貸住宅を借り、指導員を雇い、細々と運営してきたのだった。
いっぽう、前年度から、大阪市内の小学校では「放課後教育活動」なる「いきいき活動」が行われていた。5時半まで子ども達は小学校の空き教室で、退職した校長先生を指導員として教育的な活動をすることができる。大阪市はこれを学童保育とは位置づけず、あくまで教育活動の場として、無料で開放していた。
わたしたちも、このいきいきと学童の、どちらを選ぶかで迷った。しかし時間を考えると5時半はいかにも早すぎた。しかも冬場は5時という。指導員は退職校長と聞くと、なんだか窮屈なかんじもする。お金はかかっても学童を選ぶことに決めた。
入所してはじめて、学童の経営の実態は破綻していることがわかり愕然とした。
自転車操業状態になっており、過去の預貯金はすべて引き出されていた。助成金の入金日が少しでも遅れれば指導員の給与が支払えなくなるだけでなく、すでに来年度の運営の見通しさえたたない状態だった。それは決して誰かが持ち逃げしたのでもなく、ただ入所児童が、小学校の放課後教育活動のスタートを期に、激減し、このため経営不全におちいったことが原因だった。
学童の経営を今後も継続するのかしないのか。父母会は迷走していた。
すでに区内の学童はいくつも閉鎖に追い込まれていた。市が提供する無料のサービスに勝てるわけがない。そう判断し撤退することも十分ありえた。おりしも地上げの手は学童にも伸びていた。この長屋は土地と家屋の持ち主がそれぞれ違う。底地買いがこのまますすめば、どうなるのか。
立ち退き料で指導員の退職金を払おうという意見も出た。
思えばこの当時の学童は子どもたちの間でのトラブルも多かった。いじめもあった。子どもを今後もここに通わせることがよいことなのか。
そんな混迷の時期に、わたしたちは入ってしまったのだった。
投稿者 kamimaki : 11:36 | コメント (29) | トラックバック
清渓川再生事業(2)
仁川空港には夜到着。都心へはバスを使った。
深夜の仁川郊外は広大な平地が広がる。ソウル市内に入ると高架道路が縦横に走る。
日本以上の道路社会であることを思わされる。
バスターミナルに迎えに来て下さった韓国住宅公社の方に宿まで送っていただく。
行くまでに、「ソウルでさ、散髪屋のクルクル回るのがついてる場所は、ちょっと風俗っぽいとこなんだよ」と教授がのたまう。だいたいそういうところではマッサージをやってるのだそうだ。
宿につくと、そのクルクルが回ってる。
「先生、回ってますよ??」一行、目がテン、状態である。
とにかく安い宿でいい、とのK教授の指示でとられた宿はモーテルだったのである。
「あら、だめですかぁ」
と住宅公社の女史がケロっとしていう。宿の手配をしたのはこの人である。
来る前に韓国通の友人が言っていたことが思い出される。
「ケンチャナヨ」(なんとかなるさ)である。
とにかくわたしたちは調査のあいだ、このモーテル「夢」に投宿した。
ふさがっている各部屋の入り口に赤いランプがともり、全体的に赤っぽい照明の部屋である。
その赤い光のなかで、翌日以降のスケジュールを確認する。
同行者のうち、教授とAさんの研究対象はホームレス調査であり、わたしとKさんの対象は清渓川であるが、わたしたちは調査日程の半分は一緒に行動することになっていたので、ほんの一部ホームレスの調査にも同行することになる。
2日目:午前~午後 全国失職老縮者対策協議会、ドロップインセンター(ホームレス調査)
夕刻 NGO訪問(清渓川再生事業)
3日目:午前 ソウル市政研究院(清渓川再生事業)
午後 清渓川再生事業本部(同上)
4日目:午前 清渓川周辺で商業を営んでいたLee氏へインタビュー
午後 帰阪(教授とA氏は引き続きホームレス調査へ)
投稿者 kamimaki : 10:04