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2005年12月14日
市営地下鉄駅広告(2)
大阪市営地下鉄「天神橋筋6丁目」駅広告について、取材してみた。
交通局の広告担当の方によると、掲出面積は350平方メートルに及ぶという。
実感がわかないが、高さ1.5メートルの広告が200メートル以上の長さで貼りだされている状態と等しい。
相当な面積である。掲出期間は1週間。
この広告にかかる収入はあきらかにはできないとのことだった。
広告代理店が受け取る利潤が広告主に見えてしまうのがよくないとのこと。
なお、この広告の代理店となったのは指定広告代理店であるH広告社というところまでは伺うことができた。
駅貼広告の単価はあきらかにされていないが、車内吊の広告については費用を交通局ホームページから調べることができる。
空間利用の面で相違があるので比較するのは困難だが、あえて推計してみる。
たとえば中吊ワイド広告は3日間の利用で、0.37平方メートルのポスター1450枚を掲出し、約200万円の広告料である。1日あたり、平米あたりの広告単価は1227円となる。
これを単純にあてはめれば、350平方メートル1週間の掲出は約300万円という試算になる。
仮にこれを常態化すれば、天六駅だけでも年間1億5000万円の増収が図れる。
さて、これが高いか安いか、市民としてチェック可能な情報提供がないのは気がかりだ。
大阪市交通局では経営改革計画の中で、広告収入を7億円向上させるとの目標設定をしている。確かにこれまで利用されていなかった空間を活かしての駅貼広告面積の増加による増収は目標達成において効果的だろう。
しかし一方で、天六駅に限らず、キタ・ミナミを除く駅では通常の広告スペースの空きが最近とみに目だっているのも確かな現状だ。これら駅貼広告の広告主は駅周辺の商店や医療機関、その他地元企業の広告がほとんどであり、駅を中心に商業ゾーンを発達させてきた日本型の「まちづくり」そのものが活気を失い賑わいを失いかけていることのあらわれではないか、と私などは思う。おそらく駅貼広告というもののマーケットが縮小しつつあるのは、大阪市の空洞化そのものを反映している。
その空洞部分に、新興産業としての娯楽・アミューズメント施設が進出し、あたかもまちの顔のようになり、このようなとてつもなく大きな広告を提供するという事態になっているのである。
このことを住民として、駅利用者として、考えていくきっかけとして、今回のゲリラ広告は大変なインパクトがあったように思う。これは考えるチャンスとなるべきだ。
広告担当者は「市民からの苦情もよせられており、今後規模を縮小して」とおっしゃっていたが、それではたんなる思考停止ではないか。ちょっと首をひねった。
広告事業は広告を提供する側、広告を受け取る側が互いに益を得るからこそ持続可能なものである。
苦情がよせられた広告の意味合いを顧客の視点でしっかり検証するべきだ。苦情件数の把握をしっかりし、その内容をあきらかにすることがあってもよい。
なぜなら広告を受け取る側には、わたしのように、学生も多く利用する地下鉄で、18歳未満入場不可の広告をこれほどのべつまくなしに貼りまくる無神経さにあきれる者もある一方で、「わお!新しいパチンコができる!」と心躍らせている人だっているはずだし、広告収入があがることで地下鉄運賃が上がらなければそれでよい、と割り切っている人だっているはずだ。これまでの駅空間と比べて、世界遺産の風景をモチーフにした旅行会社のものや、洒落たブティックやコスメの広告ならまだ殺風景よりはよいという人、また、こんな大きな広告が可能なら、うちもやりたいと思う地元企業もあるかもしれない。広告というのは発信者と受信者間のメッセージの受け渡しを担う高度なビジネス分野なのである。
交通局は副業として広告事業を行っていくのであれば、関係するステークホルダーの意見を多方向から吸い上げてまさしく大阪市交通局ならではの、マーケットインの広告事業を行っていくべきである。苦情が出たからやめるという思考停止のビジネスには今後どのようなチャンスも訪れない。思い切ってアドバイザリー的な専門家の知恵を使うことをすすめたい。
もちろん副業は副業だ。そもそもの交通事業としてのミッションとの合理性は保ち続ける必要は有る。乗降者がその駅で増えるかどうかはそのまちの魅力を端的にあらわす。まちの入り口としての駅の魅力を広告によってどのように演出していくかもまた、チャレンジングな側面である。それにはまちづくりに駅が貢献できる部分があるということを駅中心に働く関係者が足で開拓していく部分でもある。そのような魅力的な駅づくりのために駅ができること、広告代理店との契約関係の中で見直しができる点がいくらでもあると思われる。
天六駅の巨大広告をネタにいろいろ書き込んだが、この広告の掲出期間も残すところあと1日である。経営改革に取り組むあらゆる自治体の担当者に、ぜひ考えてほしい。なんのために広告収入を増やすのか、ということを。
投稿者 kamimaki : 08:40 | コメント (27) | トラックバック
2005年12月09日
市営地下鉄駅広告(1)



今朝、出勤しようとしたら地下鉄天神橋筋6丁目駅の入り口から改札をくぐってプラットフォームまでの約100メートルに巨大広告。
駅前に建築中のパチンコ・スロットル屋の開店広告だった。
それにしてもあまりにもゲリラ的で驚いた。階段の傾斜にあわせ周到に用意された広告が壁面両面、上壁面にびっしり。いつからこんなことをたくらんでいたのか、と思う。しかし通常の広告スペースではないのはもちろん、緑のタイルの壁にぺたぺたとセロテープではりつけられている。これは一時的なものなのか、どうなのか。
とにかく全体面積が大きすぎて圧倒される。
帰りにもやっぱり気になって、改札にいた駅員さんに尋ねた。 バッジには助役とかかれてあった。
広告料をどれだけもらってこんなことをしているのか、この意思決定者は誰なのか。
現場は何も知らない、とにかく1週間掲示される、ということだった。
一週間、朝晩これからこの広告のトンネルに吸い込まれ吐き出されるのかと思うと、正直ぞっとする。
近年自治体の広告事業はさかんに行われており、わたしが勤務する大阪府の庁内外に発信する封筒には塾やらなんやらの広告が印刷されて、一瞬どこが発信者なのか不明なほどだ。
陸橋の塗り替えを企業に肩代わりさせてその広告を陸橋に掲載させる。インターネットのバナー広告をトップページにちりばめる。
どれもこれも財源捻出のための苦肉の策といえばそうだ。
広告の中には、町の顔になりうるものがある。これは否定しない。
大阪は指定景観形成物として道頓堀のグリコの看板を指定するような粋な風土がある。まさしくオンリーワンの景観で人々に親しまれれば、それが広告であったとしても、ちゃんと認めていくのが大阪流だ。しかしそれは道頓堀という町なみ、川に面した町の物語性と歴史の連続性の中で形成された景観の中だからこそ認められる粋である。
地下鉄通路は市の所有物ではあるものの、公共性のきわめて高い空間である。
はじめて町を訪れる人はプラットフォームに降り立ったその瞬間からその町の匂いに鼻をひくつかせ、町なかに至る道をたどりながら、その町の東西南北に広がるであろう機能性や歩き勝手にアンテナをぴんとたてるものである。そしてその雰囲気が訪問者にとって好ましいナビゲーションを提供できるかどうかで、町の第一印象が決まる。
駅構内における巨大な広告、しかも短期間に取り去られるものほど、この町の訪問者にとって、無作法で無神経なものはない。
地下鉄利用者の声や立地する住民の声、ましてやそこで働く現場の職員の声をいっさい聞かず、地下鉄本来の営利活動とはかけはなれた営利に走ることはNPMのはき違い以外の何ものでもない。
この広告の面積と広告料がいかほどのものかも知らず・知らされず、そこまで言うのは、利用者として住民として、このゲリラ的な広告のあり方への「不快感」があまりにも大きいからだ。
こんなヤケクソみたいな方法で日銭を得ようとするのではなく、町に住み、働き、町を訪ねる人が求めるものとの協調を重視した、さわやかで粋な事業のあり方を模索することがNPM改革の起点ではないか。
金を出してくれるパトロンにダボハゼのように食いつくだけ食いつき、生活者を無視することはドブ板のままであることをただ露見しているにすぎない。
これからの大阪市政改革こそ真に生活者起点であってほしいと思う。