政治家は語ることで民衆は聞くことでスピーチに癒される AERA(朝日新聞社、2001.9.30)
上山信一
テロが起きたとき、私はシアトルに出張中だった。エレベーターに乗っても、普段は陽気に声をかけてくるアメリカ人たちはみんな宙を見ているような感じ。何とも言えない雰囲気だった。
落ち込みは相当だが、しかし何とか立ち直ろうとするアメリカの力強さをつくづく感じた。
政治家が見事なスピーチをしている。「自由と主義を守るのだ」と、日本語では恥ずかしく思えるような言葉をしんし真摯に語り、聞く市民は拍手で応じる。ワシントンやニューヨークで、知事や市長や国会議員が次々に演説する様子をテレビは流し続けている。
日本と違い、政治家が「家長役」を果たそうとし、国民はリーダーシップを発揮する役割を政治家に期待している。以前、破綻(はたん)した山一證券の社長がテレビカメラの前で大泣きしたが、先頭に立つべきリーダーが国民と一緒に泣いていても助けにならないことを社会全体が分かっているのだろう。
大事なことを、どこまでも言葉で語る。スピーチを聞くことで癒(いや)され、また、語ることで癒される。アメリカ人にとって、癒しにはスピーチが必要なのだ。
テレビのリポーターも、情緒的な言葉はまったく使わない。日本のように、「すごいです」などと叫ぶリポーターは絶対に出てこない。目の前で起きている事実だけを淡々と人々に伝え、あとは国民に判断してもらう姿勢だ。分からないことは「分からない」の一点張りで、決して推測でものは言わず、中継に徹している。
メディアには事実を伝える特権があるが、それは国民の権利を手伝わせてもらっているだけ、という意識が徹底しているのだろう。
今回のテロは、アメリカのもろさと同時に、そうしたアメリカ人の強さ、たくましさといった国の底力をも痛感させてくれた。
(聞き手・編集部 岡本(おかもと) 進(すすむ))